****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

あわれみ深い大祭司イエス

第6日 「あわれみ深い大祭司イエス」 

ご自分を無にして、仕える者の姿をとられたイエス

はじめに

  • ヘブル人への手紙を特徴づける重要な言葉があります。ヘブル人への手紙は全部で13章ありますが、1章と11章を除くすべての章に登場する名詞があります。それは「大祭司」という言葉です。すでに、この手紙のキーバース(主要聖句)は「イエスを仰ぎ見る」こと、「イエスから目を離さないでいなさい」というものでしたが、このイエスを大祭司として、大祭司なるイエスとして目を離さないことがこの手紙のメッセージなのです。
  • そもそも大祭司とはどんな存在なのでしょうか。何者なのでしょうか。なにをする者なのでしょうか。大祭司とありますから、祭司の親分、祭司集団のトップの存在ということになります。
High Prist
  • 旧約ではアロンが最初の大祭司として神から任命されました。祭司集団はイスラエルの民が神を礼拝するために、そのすべてを取り仕切る集団として神から選ばれました。イスラエルの民たちが神を礼拝するためには、罪のためのいけにえ(強制的)、および、ささげもの(任意)をもってこなければなりませんでした。手ぶらで礼拝することはできなかったのです。神を礼拝するための仕事としては、いけにえをほふり、血を取り、それを祭壇に注いだり、皮をはいで、分解して、脂肪や肉を神の祭壇の上で焼いたりします。また、洗盤で手と足を洗って清めてから、聖所に入ってパンを備え、香をたき、油を補充して聖所を照らします。こうしたことが毎日、休みなく行われたのです。
  • その中でも、大祭司は、年に一度だけ、至聖所と言われるところに入ります。

    幕屋

  • その至聖所には契約の石が入った祭壇があり、民全体のための罪のあがないをするために入ることが許されました。このことによって、民たちの罪は赦され、神との交わりが可能となりました。この幕屋がやがてソロモン時代には神殿となって規模もはるかに大きくなりましたが、毎年の大贖罪日のときには、動物の血が川のように神殿から流れたようです。血を流すことなしに神との交わりはあり得ませんでした。今は、イエス・キリストが完全な一回限りのいけにえの血潮をささげてくださったことにより、私たちはキリストによって、大胆に神の前に近づくことができるのです。そうした礼拝制度、神との交わりのために仕えていた祭司たちのトップが大祭司でした。図が示しているように、神と人間との仲介的存在でした。私たち人間を代表する者として、また、神を代表する者としての存在でした。この大祭司を、へブル人ヘの手紙の作者は「あわれみ深い大祭司」と述べています。今朝は、そのことに触れるテキストを取り上げて、あわれみ深い大祭司イエスのことについて、共に考えてみたいと思います。

1. あらゆる点で、私たちと同じになることの必要性

ヘブル人への手紙2章17節
こういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

  • 「こういうわけで」というのは、この場合、前の節を受けての接続詞です。その前にはどういうことが書かれているかというと、こうです。「イエスは、・・アブラハムの子孫である人々に、救いの手を差し伸ばされました。」(尾山訳)⇒「こういうわけで」(新改訳)と訳しているのですが、「だからこそ」「そこで」とも、訳せることばが使われています。
  • そして、原文では「イエスはあらゆる点で兄弟たちと(私たちと)同じようになることがどうしても必要であった。」という文章が続いているのです。ギリシア語原文では最初にくることばが強調されます。そのように訳されている聖書があります。今日はリビングバイブルの訳を見てみましょう。

    イエス様には、あらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることが、どうしても必要だったのです。 そうしてはじめて、イエス様は、私たちにとってはあわれみ深く、神様にとっては忠実な大祭司として、私たちの罪を取り除くことができたのです。

  • 面白いことに、新改訳聖書では「あわれみ深い、忠実な大祭司となるため」という部分が、「私たちにとってはあわれみ深く、神様にとっては忠実な大祭司として」というふうに、私たちへのかかわり方と、神へのかかわり方とを分けて訳しているのが面白いところです。ここでは、私たちに対するイエスのかかわり方にのみ注目していきたいと思います。
  • 「私たちにとってあわれみ深い大祭司となるために、イエスはあらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることが、どうしても必要だったのです。」・・「イエスがあわれみ深い大祭司になるのが先か、イエスがあらゆる点で私たちと同じになることが先か」。これは卵が先か、ニワトリが先かの問題になって収拾がつかなくなりますから、ここではイエスがあわれみ深い大祭司になることと、すべての点で私たちと同じになるということが、密接な関係をもっているということを受け止めたいと思います。
  • 「私たちと同じになる」という意味は、ただ単に、私たちと同じ人間としての体(肉体)を持つということだけではありません。そこにはもっと深い意味が隠されているように思います。
    イエスの受洗と私たちの受洗の意味
  • イエスの受洗と私たちの受洗の意味とは異なります。イエスの場合は罪人である私たちと一体となることの本格的なスタートを意味します。私たちの洗礼の場合はイエスと一体(ひとつ)となることの本格的なスタートを意味する一回的な出来事でした。イエスが私たちと一体となること、ひとつになることについてもう少し詳しく取り上げてみたいと思います。

2. あわれみによる連帯の力

  • 「あわれみ」Compassion 英語ではコンパッション。このことばが意味することは、「ともに苦しむこと、ともに耐えること」です。あわれみは、傷ついているところへ赴かせ、痛みを負っている人々のところに赴かせ、失意や恐れ、混乱や苦しみを分かち合うようにさせます。また、悲惨の中にある人とともに叫びをあげ、孤独な人とともに悲しみ、涙にくれる人とともに泣くように私たちを促します。それはまた弱い人とともに弱くなり、傷ついた人とともに傷つき、無力な人とともに無力になることを要求するのです。そのように、あわれみは、人間の状態のなかにどっぷりと浸ることを意味します。―これが、「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」「あらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることが、どうしても必要だったのです。」ということばの意味するところです。
  • あわれみをこのようにみると、それは単なる「親切」とか、「優しさ」だけでは説明しきれないものがあることがはっきりとします。あわれみは私たちの自然な心の反応として生まれるものとは言えません。むしろ、逆に避けたいものではないかと思います。なぜなら、私たちは本能的に苦痛を忌避する(嫌って避けること)者だからです。ましてや、他人のために、他人とともに苦しむことなど望まないからです。
  • イエスは「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい。」(ルカ6:36)と言われましたが、それは、人間の状態のなかにどっぷりと浸って、ともに苦しむこと、ともに耐えることへの呼びかけなのです。ですから、このイエスの呼びかけは、実は、私たち人間の生まれつきの性質に逆らうような呼びかけと言えます。
  • 神は全能の神なのですから、その力で、私たちの問題を簡単に解決することができたはずです。なにも私たちと同じようになって、共に苦しむ必要はなかったはずです。今日の「オタク族」のように、天にいながらにしてなんでもできたはずです。ところが聖書は「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」とあります。「あらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることがどうしても必要だったのです。」と言います。なぜでしょう!!  その理由は? それは、神のあわれみの神秘(奥義)が示されるためです。神が私たちとともにおられるということの真意を経験させるためです。
  • 神はあわれみ深い神であるというとき、その意味するところは、なによりも「神がわたしたちと一体になることを選ばれた」ということを意味します。主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とはされません。このことは、すでに、ヘブル2章11節でこう記されています。「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。」と言って、旧約から三つの箇所を引用して、そのことを確証づけています。その引用は、新改訳の訳だとあまりピンときませんので、リビングバイブルでここを引いてみましょう。主が彼らを兄弟たちと呼ぶことを恥としないという確証を次のように訳しています。

    12節「わたしは父なる神のことを兄弟たちに語ろう。そして声を合わせて神を賛美しよう。」
    13節「兄弟たちと共に、神を信じよう」と言い、さらに「さあ、わたしはここにいる。 神が与えてくださった子供たちといっしょに」という箇所を引用しています。詩篇(22篇)とイザヤ書8章からの引用です。いずれにしても、ここではイエスが自分を信じる者たちを「兄弟と呼ぶことを恥としない」ということが重要です。

  • 私たちの肉親でも、自分の兄とか、姉とか、あるいは弟とか、妹とかを一家の恥と決めつけてしまうことがあります。家族でありながらそうなのです。あいつはこの家の恥だというわけです。あいつさえいなければ、と苦々しく思っている兄弟姉妹がいるのではないでしょうか。あの兄、あの弟がいるばっかりに、良い縁を結べない、良い会社に就職できない、そう思っている家族が多いのではないでしょうか。
  • 自分の子どもを、甲斐性なしと言い、ロクでもない子どもを授かったもんだという嘆く親。反対に、どうしようもない親から生まれたもんだと嘆く子ども。それぞれを家の恥としている家族は多いのではないでしょうか。
  • しかし、イエスを長兄とする神の家族にあっては、この長兄は、たとえどんな兄弟姉妹であったとしても、決して恥とはしないというのです。この長兄の心は父の心です。むしろこの兄であるイエスは自分の兄弟姉妹に対して、共に苦しみ、共に辱めを受けること、共に耐えることを自ら進んで受け入れるすばらしい兄なのです。これが「あわれみ」です。イエスの癒しは、すべてあわれみの心からなされました。
  • イエスは「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい。」(ルカ6:36)と言われましたが、イエスご自身のすべての行動の背後には、このあわれみの心があったことを知ることは重要なことです。福音書の中には実に多くの奇蹟の出来事が記されています。もし、病気や痛みに苦しんでいる人々が、その痛みから突然に解放されたという事実だけに私たちが関心を持っているとすれば、私たちは福音書の中の多くの奇蹟の出来事を誤解することになります。ここで大切なことは、病気をいやされたことではなく、このいやしへとイエスを動かしたものがなんであるかということです。それはイエスの「深いあわれみ」によるものです。
  • 福音書の中に12回だけ現われるすばらしい表現というか、言葉があります。そのことばは、新改訳では「かわいそうに思われた」と訳されています。/新共同訳では「深く憐れまれた」/口語訳でも「深くあわれまれた」/LIB訳では「(心は)深く痛みました」/ He was moved with compassion (NKJV)は「あわれみに動かされて」ということでしょうか。ギリシア語「スプランクニゾマイ」は、本来「はらわたが痛む」という意味です。お腹が痛いというのとは少し違います。「はらわた」は「子を宿す胎内」という意味もあります。つまり、神がなにかを生み出す胎内には、神の優しさと寛大さのすべてが無限に隠されているのです。
  • イエスが「かわいそうに思われたとき」、神の胎内にある神の限りない、無尽蔵な計り知れない優しさがその姿を表わすのです。これが神のあわれみの神秘であって、新約聖書のいやしの物語の中で、目に見えるものとなって表わされたのです。ですから、「かわいそうに思って」というフレーズが出てくるときには、必ず、何らかの奇蹟的なことが顔を出すのです。それが癒しであったり、満たしであったり、よみがえりだったり、解放であったりするのです。

    ①イエスは 、群衆を見て、羊飼いのない 羊のように弱り果てて倒れている彼をかわいそうに思われた(マタイ9:36) 。

    ②イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された (マタイ14:14) 。

    ③イエスは深くあわれみ手を伸ばして彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった(マルコ1:41~42)。

    ④かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます(マルコ8:2)。

  • このように、真の福音とは神が私たちの苦痛に心を動かされ、しかも、その苦脳に、全面的にかかわってくださる神であるということを知ることです。それは必ずしも、目に見える癒しや解決がみられないこともあるのです。
  • そのことを考えるうえで、私たちが本当の安らぎや慰めを感じるときはどんな時かを考えてみると良いと思います。それはおそらく痛みや苦しみのただなかにある時、だれかがわたしのそばにいてくれる時ではないだろうかと思います。あなたは、いっしょにいるだけで得られるやすらぎというものを経験したことはあるでしょうか。ある特別な行為やすばらしい助言をしてもらう以上に、自分を心配してくれるだれかが、ただそばにいてくれさえするだけで、たとえその人が何か気の利いたことを言えなくとも、ただそばにいてくれるだけで、慰めや安らぎを与えられるということはないでしょうか。そして状況がなにも変わっていないのに、安らぎと感謝と喜びがあふれてくるのです。
  • これはまさに詩篇に描かれている世界といえます。詩篇41篇には「幸いなことよ。弱っている者に心を配れる人は」とあります。作者が病の苦しみにおいて、人のかかわりの真実を突き付けられます。信頼していた者も病気を契機にきびすを返すという現実を経験しながら、作者は、弱さをもった者への連帯の大切さを教えられていくのです。その連帯の力強さを確信するようになるのです。
  • 病気や精神的な苦しみや霊的な暗黒を経験するときに、共にいて、そばにとどまってくれることでやすらぎや慰めをもたらしてくれる人の存在は、血のつながった者以上に親しい関係になっていくことがあります。そのような人たちは、連帯の絆のいのちを示してくれる存在なのです。そのようなことを体験するたびに、新しい力と新しい希望が培われていくのです。これがあわれみのもたらす力です。
  • 「あわれみ」とは「ともに苦しむこと、ともに耐えること」を意味します。そんな神のあわれみにあずかるとき、私たちは全く新しい生き方に開かれます。それは、人間同士の比較や敵意、競争心から解放されて、互いに連帯して生き始めることができるようになるのです。つまり、相手の弱さや足りなさを恥とせず、ありのままで受け入れ、共に生きることの中に、神のあわれみの深さを経験していく生き方です。
  • 使徒パウロの書いたピリピ人への手紙の2章にはキリスト賛歌が記されています。

    キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6~8)

  • 「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」とは、神であるお方が、人の理解や人がコントロールできる範囲を超えるさまざまな出来事や力に対して、無力な状態を受け入れたということです。
  • 人は自分の思い通りできないと思ったとき、あるいは健康や幸せを失ってしまうかもしれないというとき、悲しみや恐れや不安でいっぱいになります。そうした私たちと同じく、主も恐れや不安や心配を味わわれたということです。
  • また、イエスは死という見下された恥ずべき十字架の死に至るまで、人間の不安と恐怖、苦悶や痛み、そして犯罪人としての恥辱の死をも味わわれたのです。生々しく、そして醜く、しかも人間としての品位をはぎ取られたかたちの死を、お受けになられました。それは正常な人間ならば、決してだれも望まないような死に方でした。
  • だれが、そこまでへりくだる者になりたいという人がいるでしょうか。「偉くなりたい人は、仕える者に、あるいは最後の者になりなさい」と主イエスは言われましたが、だれがそんな最後の者になりたいと思うでしょうか。小さな、無力な子どものような者になりたい人がいるでしょうか。自分の命を失い、貧しく、悲しむ、飢えた者になりたい人がいるでしょうか。これらはみな、私たちの自然な傾きに反するものです。
  • しかし、主がそこまでへりくだられたのは、私たちを理解し、どんな苦しみや試みの中にあっても理解し、共にいてくださるためなのです。ここに主の私たちに対するあわれみがあります。
  • もう一度、あわれみの定義を見てみましょう。あわれみとは、「ともに苦しむこと、ともに耐えること」です。あわれみは、傷ついているところへ赴かせ、痛みを負っている人々のところに赴かせ、失意や恐れ、混乱や苦しみを分かち合うようにさせます。また、悲惨の中にある人とともに叫びをあげ、孤独な人とともに悲しみ、涙にくれる人とともに泣くように私たちを促します。それはまた、弱い人ともに弱くなり、傷ついた人とともに傷つき、無力な人とともに無力になることを要求するのです。そのように、あわれみは、人間の状態のなかに、どっぷりと浸ることを意味します。
  • しかし、それだけでは終わりません。必ず、逆転の勝利があるのです。その証拠にキリスト賛歌の後半が記されています。

    それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(9~11節)

  • 喜ぶべきことに、キリストにおいて啓示された神のあわれみは、苦難で終わるものではなく、栄光のうちに終わるのです。キリストの復活こそ、仕える者としてのあり方の究極的なあかしです。私たちがキリストのように仕える者の道を選ぶとき、私たちが与える以上に、私たちが仕えている者、かかわっている方から、多くのものを受けていることに気づかされます。それは、連帯の愛の絆の喜び、共感できる喜び、大切なものに気づかせられる驚き、それはとりもなおさず、神のあわれみの神秘なのです。仕えることを通して、本来ならば、敬遠したかったことの中にある神のあわれみのすばらしさに気づかされるのです。
  • 「あわれみ深い大祭司であるイエス」を仰ぎ見させていただきながら、仕える道を、あわれみの道を、かかわりの世界の深みへと共に歩んでいきたいと思います。


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