いかにして主は、民たちを奮い立たせられたのか
1. いかにして主は、民たちを奮い立たせられたのか
【聖書箇所】 1章1節~15節
ベレーシート
【新改訳改訂第3版】ハガイ書 1章14節
【主】は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の【主】の宮に行って、仕事に取りかかった。【新改訳2017】ハガイ書 1章14~15節
14 【主】が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の【主】の宮に行き、仕事に取りかかった。
1:15 それは第六の月の二十四日のことであった。ダレイオス王の第二年、
- この節には、主が指導者と民の心を「奮い立たせ」て、18年間頓挫していた神殿の工事を再開させたことが記されています。この節にある心は「レーヴ」ではなく、「ルーアッハ」(רוּחַ)です。心のもっと奥にある神のみこころを受け留める「霊」の部分が「奮い立たせられた」(「ウール」עוּר)のです。新改訳2017ではそのように訳されています。関根訳は能動的に「呼び起こした」と訳しています。
- エズラ書によれば、最初に帰還した者たちは、そもそも「神にその霊を奮い立たせられた者たち」でした(エズラ1:5)。しかしその霊は弱くなり、本来の使命を後回しにしてしまったのです。18年の空白、この空白は何を意味するのでしょうか。それは神が預言者を遣わさなければ、彼らは本来の神とのかかわりを再び建て上げ、再建工事を再開することができなかったことを意味します。
- 時は、「ダリオス王の第二年の第六の月の一日」に、主は預言者ハガイを通して、まず指導者であるユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアに対して「民の時に対する理解」について語り、その後に、指導者と民とに対して語りかけています。その語りかけは、「警告と刑罰」でした。
1. 神の民に対する主の警告
- まずハガイが語ったのは、民たちの「時に対する理解」に対する警告です。「この宮が廃墟となっているのに、あなただけが板張り板張りの家に住むべき時であろうか。・・あなたがたの現状をよく考えよ。」というものでした。
- 「あなたがたの現状をよく考えよ」というフレーズは2度(5節と7節)繰り返されています。それはこのフレーズが強調されているからだと言えます。他の翻訳を見てみます。
【新改訳】
あなたがたの現状をよく考えよ。
【口語訳】
あなたがたは自分のなすべきことをよく考えよ。
【新共同訳】
お前たちは、自分の歩む道に心を留めよ。
【岩波訳】
あなたがたは自分たちの歩みに心を留めよ。
【関根訳】
君たちは今の状態についてよく考えてみるがよい。
【バルバロ訳】
自分のやったことを思い直せ。
【新改訳2017】
あなたがたの歩みをよく考えよ。
- 「スィーム」(שִׂים)は「置く、据える、留める、確立する」という意味です。ですから、新共同訳、岩波訳が原文に最も忠実ですが、その意味するところはバルバロ訳、関根訳、そして口語訳を順に合わせると良く理解できます。
2. 神の民に対する主の刑罰とその本意
- 当時の民の状態は、多く種を蒔いてもそれに見合う収穫がになく、食べても飲んでも満たされたない、衣類を重ね着しても一向に暖まらない、・・すべての働きが徒労と虚しさに終わるだけでした。それは、主がひでりを呼び寄せられたからでした。それゆえに、神の祝福がなかったのです。
- しかしこの刑罰の本意は、神の民に神を信頼することを教える(学ばせる)ためのレッスンでした。帰還して来た民の多くは、バビロンの地で捕囚となっていましたが、そこではバビロンの支配のもとで、ある程度、安定した生活がなされていたのです。イスラエルの神こそ生存と保障を与える方であることを、新しい世代の者たちが学ぶために置かれた処置(境遇)でした。神への信頼のレッスンはすべての時代における神の民の必須科目です。神への信頼は、いついかなる時でも、神を第一とすることです。これは実際の生活(経験)でしか学ぶことができません。内なる恐れのゆえに、神以外のものを第一にすることを「偶像礼拝」として聖書は位置づけています。神の民がすへての祝福の基である神を第一として信頼することを主は、いつでもどこでも、誰に対してでも、求められるのです。しかし人間的な視点からすれば、神への信頼(神第一優先)の歩みは不安定そのものに見えてしまうのです。したがって、信仰が必要であり、その信仰も主から「霊を奮い立たせられ」なければならなかったのです。神を第一にできないその根底には、「恐れ」があるのです。その「恐れ」の真因はたましいにあります。ですから、このことをよく考えなければならないのです。
3. 神の民に対する主の促しと約束
- 8節には、神の呼びかけ、神の促しがあります。それは
【新改訳改訂第3版】
山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。
この主の呼びかけ(促し)は、5つの動詞をもってたたみ掛けられています。
①「(山に)登れ」(「アーラー」עָלָה)
②「(材木となる木を)運んで来い」(「ボー」בּוֹא)
③「(宮を)建てよ」(「バーナー」בָּנָה)
④「(わたしは=主は)喜ぶ」(「ラーツァー」רָצָה)
⑤「栄光を現わす」(「カーヴァド」」כָּבַד)、「栄光が現わされる」(כָּבַד)
- ハガイ書1章の主の呼びかけは、マタイ福音書6章33節のみことばの旧約版と言えます。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
- 主の叱責と警告に接した民の指導者、および民たちは主が遣わされた預言者ハガイのことばに聞き従いました。なぜなら、彼らはみな主を「恐れた」からでした。そんな彼らに対して、主は、再度、ハガイを通して、「わたしは、あながたとともにいる」とご自身の臨在を約束したのです。
- 主の臨在の約束は、真に主を信頼する者に対する約束であることを知る必要があります。神以外のものに頼りながら、神を第一にして、神を愛することをせずに、主がともにいる祝福だけを求めることはできないからです。神の民が神への信頼を回復したそのとき、彼らの内にある「霊」は必ずや「奮い立たせられる」「呼び起こされる」のだということ、しかも、そこに霊性の回復の鍵があるのだと信じます。
2013.9.10
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