****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

いろいろな聖書の訳を読み比べてみる

1. いろいろな聖書の訳を読み比べてみる

  • 詩篇を読むとき、いろいろな聖書の訳を読み比べてみることは、詩篇を瞑想していく上でとても助けになります。イメージが豊かになり、一つの聖書の訳では釈然としないことが、他の聖書の訳を読むことにより、こんな解釈もできるんだという広い見方ができて、よりはっきりとみことばのイメージを把握することができるようになります。ただ、最初からいろいろな聖書を見てしまうと、混乱することもありますので、キー・ワードを見つけてから、それをいろいろな聖書で読み比べるところからはじめられると良いと思います。「Jーばいぶる」のソフトを使うならば、日本語と英語を合わせて、少なくとも5~6つの訳を見ることができます。それと英語でも日本語でも、個人訳のものをいくつか揃えておくと良いと思います。
  • 一つの聖書での訳語が、他の聖書ではどのように訳されているかを知ることが大切です。なぜなら、一つの原語(ヘブル語)が、さまざまなことばに訳されていることを知ることで、その原語が持つ意味(概念)の深さと豊かさを知ることが出来るからです。例えば、原語でヘセド(chesed)ということばが、ある聖書では「恵み」と訳され、別の聖書では「いつくしみ」、「揺がぬ愛」、「尽きることの愛」、「変わらない愛」、loving-kindness, constant love, というように訳されています。これはヘセドという原語のもつ概念がきわめて深く、豊かであることを予感させます。さらに他の聖書を調べるならば、さらなる訳語を見出すことができるはずです。原語のもつ概念の多角的な面を知ることによって、聖書の世界、神の世界、いや、神ご自身をより深く知り、神により深くふれるようになると信じます。
  • 多くの聖書を読み比べるのは、聖書を研究するためではありません。あくまでも、みことばを瞑想することによって主との関係を豊かにするためです。しかし、自分がいつも読んでいる聖書だけではあることばのニュアンスがよくつかめないことがあります。そのようなときに、他の聖書を参照することによって、そのことばのニュアンスがハッキリとしてきます。なかには、全く反対のニュアンスで訳している聖書もあり、戸惑うことがあります。しかしそれはそれで柔軟性が養われます。また、翻訳という作業の難しさがあるのだということも教えられます。翻訳者の労苦のゆえに、私たちのまわりには実に多くの聖書があり、それを手にすることのできる時代に私たちは生きています。それは原典で読むことのできない者にとってなんと感謝なことでしょう。あとは、私たちがしっかりと主の御声を聞くという責任が残されていることは言うまでもありませんが・・・・。
  • 特に、瞑想は知性の部分がとても強く働く領域です。瞑想から黙想へ、そして観想へ進んでいく上で、瞑想の段階でひとりよがりな受け取り方をしてしまうと、あとが大変です。できるだけみことばの正しい概念や意味合いを理解しようと務めることが、瞑想の第一段階です。その段階を安易に通り越してしまうと、ただ単に「私は・・・のように感じます」で終わってしまいます。
  • また、瞑想にはみことばを(聖書全体の把握と個々のみことばの意味も含めて)学ぶという時間をかけた訓練が必要です。その訓練は生涯続きます。このために、必ずしも神学校に行く必要はありませんが、できれば、みことばの瞑想をしている方と共にするのが一番の早道です。


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