かけがえのない個人の強調
〔D〕ルカ独自の記事
3. ひとりのかけがえのなさ、個人の強調
- ルカの福音書における特徴の一つに、「ひとりひとり」、「ひとり息子」、「ひとり娘」、「ひとりの罪人」といった独自の表現がみられる。個人のかけがえのなさをルカは強調している。
(1) ルカの福音書における記事
- 4:40
日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。
- 7:12
イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
- 8:42
彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。
- 9:38
すると、群衆の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。
- 15:4
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
- 15:8
また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
- 15:7
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
- 15:10
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。
- ナインの町のやもめの「ひとり息子」(ルカ7章12節)、ヤイロの「ひとり娘」(ルカ8章42節)、そして悪霊につかれた「ひとり息子」(ルカ9章38節)という表現が用いられており,3箇所いずれも,かけがえのない子供に対する親の深い愛情が表されている。ルカがあえて「ひとりひとり」「ひとり息子」「ひとり娘」「ひとりの罪人」と表現したその意図するところは何なのか。
- いなくなった一匹の羊、なくした一枚の銀貨はそれぞれ失われたひとりの罪人を指しているが、そうした者に対する神の異常とも思える愛とは何か。
(2) 聖書全体における「ひとり子」の意味するところ
- 聖書において、「ひとり子」という表現は非常に大きな意味をもっている。創世記22章をみよう。そこにはアブラハムの生涯における最大の試練が記されている。「そこで神は仰せられた。『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』(2節)
- また、御使いは仰せられた。『あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』(12節)
- 神はアブラハムを呼んで仰せられた。『これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。・・』(16, 17節)。
- イサクは実際にはアブラハムのひとり息子ではなかった。しかし彼は、神の約束によってアブラハムに与えられた唯一の子、「愛され、選ばれた子」であったのである。父アブラハムがその愛するひとり子を惜しみなく神にささげるという心の痛みを、神は覚えられた。やがてその痛みは神ご自身の十字架の痛みとなった。⇒ヨハネ3章16節。
- さらに神は、神の民イスラエルに対する災いとさばきに関連して、その深い悲しみを形容するときにひとり子を失うような悲しみであると表現し、この語を用いている(エレ6章26節、アモス8章10節、ゼカリヤ12章10節)。神の民は、神にとってそれほどにいとおしい存在であったのである。
(3) 御子という名、御父と御子の関係
- アブラハムとイサクの関係は、父なる神と子なる神との関係を指し示している。その関係を客観的に言い表す時には「御父」と「御子」ということばを用いる。御子は御父にとって「ひとり子」である。
- 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1章18節)、「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)
①永遠の親密な交わり
- 御子という表現は、御父にとって唯一無比、かけがえのない存在であり、永遠の親密な交わりの深さを表わす称号である。ヨハネは「父のふところにおられるひとり子の神」と表現している。「ふところ」ということばは、親しさや深いつながりや結びつきを表わしている。厳密には「ふところに向かって」であり、場所だけでなく、方向性をも表わしている。つまり、御父の思いのすべてが御子によって完全に答えられているという絶対的な交わりを示すことばである。そこにはおおいがなく、制限された交わりとか、程度の限られた親しさなどというものはない。完全なる熟知、完全なる喜びがそこにある。父の心は完璧なまでに子の心であった。
②愛の住みか(愛と従順)
- また「ふところ」とは「愛の住みか」でもある。つまり、御子は永遠の愛、絶えることのない愛の抱擁の中に住んでいるということである。愛とは、自分にとって最も価値あるものを与えることである。
- 「御父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった」(ヨハネ3章35節)とあるように、御子が万物を所有するのは、御父の御子に対する愛の贈り物のゆえである。
- 「父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになる」(同、5章20節)とあるように、御父の深遠な計画はすべて、愛のゆえに御子の前にもれなく開示される。そこには秘密はない。
- 「わたしが自分のいのちを再び得るために、自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」(同、10章17節)とあるように、愛に基づく御子の自発的な従順が、さらに御父の愛を引き出している。しかもその愛は十字架の勝利という報いを得させるものとなった。
- 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました」(同、15章9節)とあるように、御子は御父との愛の中に私たちを招いておられるのである。
(4) あなたは、御父と御子の愛の交わりの中に招かれている
- 「神のひとり子」である「御子」は、御父にとって最高の愛の対象なのである。御父はその御子さえ惜しむことなく、私たちのために死に渡されたのである。何という驚くべき愛であろうか。そしてさらに驚くべきことに、御父も御子も、その愛の交わりの中に私たちを招き入れようとしておられるのである。
- 「神は、あなたを、御子の姿に似た者にあらかじめ定められた」(ローマ8章29節)とあるように、御父が御子に対して語られたように、あなたに対しても、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と言ってくださるかけがえのない存在なのである。神にとって喜びの存在なのである。その証拠に、あなたは創造され、贖われたのである。