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ことばは人となって私たちの間に住まわれた

9. ことばは人となって、私たちの間に住まわれた

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はじめに

  • 今回の「アドベントの瞑想」の最後は、受肉の神秘に思いを馳せたいと思います。特に、ヨハネ福音書はその神秘をことごとく解き明かし、御子を信じる者が永遠のいのちを得ることができるようにと記された福音書です。ここで取り上げるヨハネの福音書1章14~18節は、その「受肉の神秘」の序文と言えます。

1. 私たちの間に住まわれたひとり子としての神

  • 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)ということばの中の「住まわれた」ということばを、岩波訳では「幕屋を張った」と訳しています。「住まう、幕屋を張る」ということばはギリシャ語の「スケーノー」σκηνόωです。黙示録での4回使われている外は、ヨハネの福音書のここ1回限りです。
  • ところで「幕屋を張る」とはどういうことでしょう。そもそも神がモーセを通して造らせた「幕屋」建造の目的は何であったのでしょうか。それは出エジプト記25章8節にはっきりと記されています。それによれば、幕屋(あるいは聖所)の建造目的は「わたしは彼らの中に住む」ということでした。彼らとは神によって贖われたイスラエルの民です。神ご自身が、幕屋の中に住み、そこにご自身を現わされたのです。また神は至聖所の中でモーセと会い、彼を通して民に語られました。神は大祭司アロンを通して民が神に近づき、神を礼拝することができるようにさせられました。
  • このように、「ことば」である神のひとり子である方が「幕屋を張られた」ということは、私たちの間に肉体という形をとって私たちの間に住まわれ、御父のことばを語り、また、私たちを御父に近づけることができるように大祭司としての役割を果たされたことを意味します。つまり、「住む」とは親しいかかわりを持ってくださったということが言えます。
  • この「スケーノー」σκηνόωは、ヨハネ福音書のキーワードである「とどまる、つながる」メノーμενωと同様に重要な言葉です。

2. 御父を説き明かされるひとり子としての神

  • 1:18 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(新改訳) ここには、「ことば」が「父のふところにおられるひとり子の神」として言い直され、その使命が記されています。「父のふところにおられるひとり子の神」は、柳生訳では「父のお傍(そば)にいる神の独り子」、岩波訳では「父の胸中にいる、ひとり子なる神」とそれぞれ訳しています。「ふところ」「お傍」「胸中」という表現は、いずれも御父と御子との親密なかかわりを表現しています。
  • 「ふところ」と訳されたことばは、ギリシャ語で「コルポス」κόλποςです。ヨハネの福音書では他に1箇所、13章23節に「弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。」と記していますが、「右側」と訳されたことばが「コルポス」です。新改訳の脚注には直訳で「御胸のそばで」とあります。「イエスの愛しておられた者」とはヨハネ自身です。御父と御子にあった親密なかかわりが、ここではイエスと弟子のヨハネにもあったことを示唆しています。他の箇所としては、ルカ16章22, 23節にある「アブラハムのふところ」も味わいがあります。そこは貧乏人ラザロが御使いたちによって連れて行かれた場所(パラダイスと同義)です。そこは最も安全な場所です(使徒27:39)。
  • 神のひとり子である方は、神と私たちとを結ぶ架け橋的存在です。三位一体なる神の中で人となられたのは第二位格の御子イエスのみです。この御子は永遠に御父のふところ(傍、胸中)におられた方ですが、一時的に人となられて、ありのままの御父を私たちに啓示してくだった方です。つまり、御子は人となってこの世に来られ、「私たちの間に住み、神を説き明かされた」のです。ここにこそ「ひとり子としての輝かしい栄光」があるのです。
  • ヨハネの福音書は、御父を解き明かす御子としての栄光が強調されている福音書です。御父と御子のその麗しい永遠のゆるぎない愛のかかわりーまさに「受肉の神秘」―が説き明かされている福音書と言えます。

3. ひとり子を私たちに賜った御父の愛

  • ヨハネの福音書には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいちのを持つためである。」(3:16)という有名なみことばがあります。「実に、そのひとり子をお与えになったほどに・・愛された」ということはどういう事でしょうか。それは「ひとり子という代価を払った」ことを意味します。
  • 御子イエスが語った「天の御国のたとえ」にこういう話があります。マタイ13章44~46節。

44天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(新共同訳)

  • このたとえ話の焦点は、「すべての持ち物を売り払って、買う」という行為です。「すべての持ち物を売り払って」という表現は、マタイ19章21節(マルコ10/ルカ18:18~30)の「ひとりの人」(青年、金持ち)にも使われており、永遠のいのちを得ることと関連づけられています。永遠のいのちを得るためには、貧しい人のためにすべての持ち物を売り払って施すことが律法の求めるところでした。「ひとりの人」は永遠のいのちを求めながらも、あまりに裕福だったためにイエスの言われることに従うことができませんでした。マタイ18:25にも、負債を支払うために、すべての持ち物を売り払ってでもそれをするようにと求められています。これが律法の精神です。しかし、この律法の精神を完全に実現したのは御子のほかにはおりません。
  • あるものを「買う」ために「すべての持ち物を売り払う」ということがここでは重要なのです。「買う」と訳されたギリシャ語は「アゴラゾー」αγοραζωで、Ⅰコリント6章20節, 7章23節には、「あなたがたは代価を払って買い取られた。」とあります。Ⅱペテロ2章1節にも「自分たちを買い取ってくださった主」という表現が出てきますが、もし、それを否定するならば滅びるとあります。「代価を払って買う」という思想は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」ということと結びつきます。それは御子を信じる者が永遠のいのちを得るためです。
  • 御父が御子をこの世に人として遣わされたのは、畑に隠された宝のごとく、また良い真珠のごとく、私たちを価値あるものとして愛して、神ご自身が、すべての持ち物を売り払って、私たちを買い取る(「贖う」こと)ためでした。御子という「代価を払う」というのは、御父にとって「すべての持ち物を売り払った」ことと同義です。どんな商人もそのようなリスクを犯すようなことはしません。なんとすばらしい神の愛でしょうか。「すべての持ち物を売り払って、私たち買い取って下さった」御父、その御父のみこころのためにご自身のいのちのすべてを代価としてささげられた御子、ここに御父と御子の栄光が如実に示されています。

最後に

  • クリスマスは、単に、神が人となったことだけが問題なのではありません。そうではなく、神がそこに何を私たちに見せてくださったかということが問題なのです。ヨハネははっきりと「私たちはその方の栄光を見た」と断言しています。アドベント、およびクリスマスは、私たちの一人ひとりが、自分のうちに与えられている神のいのちを刷新するために、「御子の栄光―そこには御父の栄光も含まれますーを仰ぎ見る」ために、静まり、受肉の神秘を思い巡らす大切な時機と言えないでしょうか。この世の喧騒なクリスマスとは異なる聖なる静けさの中に、神の栄光を見たいと思います。


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