****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

この時代の無関心さと町々へのさばき

文字サイズ:

45. この時代の無関心さと町々へのさばき

【聖書箇所】マタイの福音書11章16~24節

ベレーシート 

  • マタイの福音書11章16節から終わりの30節までが一括りになっています。しかし今回はそこを二つに分けています。前半のマタイの福音書11章16~24節も二つの部分に分けられます。最初の部分は16~19節で、後の部分は20~24節です。まずは最初の部分の「この時代は何にたとえたらよいでしょうか」を読んでみたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書11章16~19節
16 この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。
17 『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』
18 ヨハネが来て、食べもせず飲みもしないでいると、『この人は悪霊につかれている』と人々は言い、
19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」

  • マタイの福音書11~12章のテーマは「私につまずかない者は幸いです」とイェシュアが述べているように、イェシュアに対するつまずきが述べられています。前回はバプテスマのヨハネでした。続いてイェシュアの時代の人々(16~20節)、および町々(21~24節)がその対象として描かれています。イェシュアが伝えようとした「天の御国が近づいた」というメッセージに対して、当時の人々がどのような反応を示したかといえば、無関心であったということです。そこでイェシュアは「この時代は何にたとえたらよいでしょうか」と言っています。

1. この時代の人々

(1) この時代はな何にたとえたらよいか

  • 「この時代」と訳されたギリシア語の基本形は「ホ・ゲネア・ウートス」(ὁ γενεά οὗτος)で、イェシュアが生きていた時代のユダヤ全体のこと(=世代、「ゲネア」γενεά)を意味します。この表現は12章41節、42節、45節、23章36節、24章34節で使われています。決まってメシアを拒否する面が強調されています。以下、【新改訳2017】マタイからのみの引用です。

①マタイ12:41
ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。・・・
②マタイ12:42
南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。
③マタイ12:45
そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。
④マタイ23:36
まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。
⑤マタイ 24:34
まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。

  • このように、「この時代」ということばが使われる時には、ユダヤ人がメシアを拒絶する結果、何がもたらされるかという意味で使われています。そこでイェシュアの言う「この時代は何にたとえたらよいでしょうか」のたとえを見てみましょう。
  • 16~17節では「広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかている子どもたちのようです。『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』」とあります。前半の『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。』とは結婚式の曲にも反応しなかったことを意味し、後半の『弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』とは葬式の歌にも反応しなかったことを意味します。つまり、バプテスマのヨハネやイェシュアが笛を吹き、歌を歌っているのに、「この時代の人々」は何の反応も起こさなかった、無視し続けた、拒絶したと言っているのです。

(2) 知恵の正しいことは、その行いが証明します 

  • 18~19節では、「この時代」の人々(ユダヤ人)は、ヨハネが断食しているのを取り上げて、『この人は悪霊につかれている』と批判し、イェシュアが食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と非難したのです。このような批判や非難に対して、イェシュアは一切弁明せずに、ただ「知恵の正しいことは、その行いが証明します。」と語られました。
  • 「知恵」とはイェシュアのことで、「その行い(複数)」とはイェシュアがなさっている数々の働きを意味します。ただし、改定されることのないビザンチン・テキスト(TR)では「彼の子どもたち」となっています。つまりイェシュアの知恵ある幼子(弟子たち)のことです。イェシュアのなさっている数々の働きによって正当化されるのか、それとも知恵のあるイェシュアの弟子たちによって証明されるのかといえば、どちらも正しいと言えます。もし後者の方だとすると、知恵の正しさは、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たち(=弟子たち)に現してくださいました。」(11:25)とあるように、弟子たちの存在を通して御国の知恵は証明されることになります。一方、前者の方だとすると、「数々の行い」が正しく証明されるのは「終わりの日」においてとなります。いずれにしても、「知恵が正しいことは証明される」のです。
  • 多くの批判や非難が投げかけられる中で、イェシュアの教えた天の御国の教えはやがて明らかにされるのですが、それが明らかになるということは、それを受け入れなかった人々の報いもはっきりするということです。天の御国のメッセージの真意は「この時代」のユダヤ人だけでなく、今日の時代においても同様に理解されがたいものなのです。つまり天の御国のメッセージはすんなりと受け止められるような話ではないということです。これはイェシュア自身が語られたように、「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。」(マタイ7:17)という教えや、「良い地に落ちた種だけ多くの実を結ぶ」という教え(マタイ13:9)に通じていると言えます。つまり、どんなに努力をしようとも、良いことをしようとも、「良い木と悪い木」、あるいは「実を結ぶ良い地と実を結ばない地」とはどんな時代でも厳然と存在するということなのです。

2. イェシュアが宣教活動をされた町々へのさばき

  • 次に後半の部分を読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書11章20~24節
20 それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。
21 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
22 おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。
23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。
24 おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」

  • 後半の部分では、イェシュアによって神の恵みを受けたにもかかわらず、悔い改めなかった町々をイェシュアは責め始められたとあります。「責める」と訳されたギリシア語は「オネイディゾー」(ὀνειδίζω)で「ののしる」という意味があります。人々がイェシュアやその弟子たちを「ののしる」ことがあっても、イェシュア自身がこの語を使っている箇所はここ(11:20)だけです。しかも町に住む人々ではなくて、イェシュアが宣教活動された町々に対してです。これはどういうことでしょうか。「オネイディゾー」(ὀνειδίζω)のヘブル語訳は「ホーヒーアッハ」(הוֹכִיחַ)で、これは「決裁する、さばく、定める、責める」という審判用語の基本形「ヤーハハ」(יָכַח)の使役形です。イェシュアが活動された町である「コラジン、べツサイダ、カペナウム」の三つの町が取り上げられ、それに対応する形で、異邦人の地である三つの町「ツロ、シドン、ソドム」が取り上げられています。

(1) コラジン(Χοραζίνכּוֹרָזִין)

  • 「コラジン」に対しては「ああ、コラジン」とあるだけですが、ギリシア語では「ウーアイ・ソイ・コラジン」(Οὐαί σοι, Χοραζίν)となっていて、直訳は「わざわいだ、おまえは、コラジン」で、「おまえは不幸だ」、「呪われよ、コラジン」とも訳せます。つまり「ウーアイ」は呪いのことばなのです。「コラジン」は今日存在しません。

(2) ベツサイダ(Βηθσαϊδάבֵית־צַיְדָה)

  • 「べツサイダ」に対しても同様に「わざわいだ、おまえは、ベツサイダ」となっています。「漁師(猟師、食料)の家」の意味です。ペテロ、アンデレ、ピリポの出身地がこの町でした(ヨハネ1:44)。この町付近で「五つのパンと二匹の魚」で五千人の給食の奇蹟がなされました。その奇蹟がもしツロとシドンでなされたとしたら「灰をかぶって悔い改めていたことだろう」とし、「さばきの日」にはコラジンやべツサイダよりはツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだとあります。「耐えやすい」とは、「持ちこたえることができる」という意味です。彼らも神への罪ゆえにさばきは免れませんが、イスラエルの場合は、長い期間にわたって、すべての預言者と律法とがメシアの到来を預言してきたのです(マタイ11:13)。それゆえに、「さばきの日」には、「コラジン、ベツサイダ」の町は「異邦人の町々よりもさばきが重い」と言われているのです。

(3) カペナウム(Καφαρναοuμכְּפַר־נַהוּם)

  • さて、ガリラヤ地方のカペナウムはどうでしょうか。「カペナウムよ。おまえはハデスにまで引きずり落とす」という呪いがイェシュアによって語られています。「カペナウム」は、ギリシア語では「カファルナウーム」(Καφαρναοuμ)、ヘブル語では「ケファル・ナフーム」(כְּפַר נַחוּם)となり、「ナホムの村」(=「慰めの村」)という意味です。もし「ケファル」が「カーファル」(כָּפַר)という動詞から来ているとすれば、イザヤが預言したように、「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」と言えるかもしれません。なぜなら、悲惨と暗黒の地である異邦のガリラヤに希望と慰めが訪れた(=覆う)ということになるからです。イェシュアの公生涯において、イスラエルの中心であるエルサレムではなく辺境のガリラヤで多く働きがなされたことは、全イスラエルの回復を計画しておられる神の熱心(「キヌアー」קִנְאָה)によること以外の何ものでもありません。そのガリラヤの中心地が「カペナウム」だったのです。
  • カペナウムには会堂(シナゴーグ)があり、イェシュアも安息日にはそこで教えていました(マルコ1:21、ルカ4:31)。その会堂でイェシュアは汚れた霊につかれた人を癒やしましたし、百人隊長のしもべが癒やされたのもカペナウムでした。さらにこの町は、「五千人の給食」の奇蹟の意味をイェシュアが語った場所でもあります。多くの人々が会堂でその話を聞いたにもかかわらず、それを悟ることなく、多くの者がイェシュアのもとから離れ去って、もはやイェシュアと共に歩まなかったとあります(ヨハネ6:60~66)。そんなカペナウムに対してイェシュアは「おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみ(=原語は「ハデス」)にまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。」と肉欲の町ソドムと比較されています。カペナウムはイェシュアの奇蹟を目にしながら、そこに神のしるしを認めず、「悔い改める」ことをしなかったからです。
  • ソドムという町は神の前に悪を積み上げたために、神によって火で滅ぼされた代表的な町です(創世記19章)。カペナウムの町が天に引き上げられることなく、ハデス(=「死者が終末のさばきを待つ間の中間状態で置かれる所」)に落とされる運命にあるというのは、カペナウムが神の希望と慰めを与えようとする神のご計画を受け入れなかったからです。つまりイェシュアを拒絶することの方が、さばきは重いということなのです。そのことをベツサイダの町に語られたと同様に、「さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ」と言っています。つまり、ソドムの地の方が神のさばきに「持ちこたえる」という意味です。この厳しさはイスラエルの優位性によるものだと言えます。裏を返せば、イェシュアにとってイスラエルはそれほどまでに妬ましく、愛すべき存在だということです。しかしながら、考古学者によれば、すでにカペナウムの町は廃墟となり、昔あった場所さえも確定できないほどになっていると言われています。

(4) 「町」に対するイェシュアの呪い

  • ところで、人々ではなく、町そのものを呪うとはどういうことなのでしょうか。それは「町がどのようにして建てられるのか」ということに起因します。「町、都市」を意味するヘブル語の「イール」(עִיר)の初出箇所は創世記4章17節です。カインは神から離れてエデンの東のノド(「さすらい、流浪」を意味するנוֹד)の地に住み、町を建てます。その町の名は息子と同名の「エノク」(=「ハノーフ」חֲנוֹךְ)でした。その意味はヘブル語大辞典を見ても知ることはできませんが、ジャック・エリュールという人の『都市の意味』(田辺保訳、1976年、すぐ書房。フランス語原本は『住むに家なく』ー「都市についての聖書神学的試論」)という本の中で、「エノクとは、開始という観念を含んだ『先導』の意味である」としています。つまり、開始すること、端緒となること、先鞭(せんべん)をつける(=他人に先駆けて物事に当たること。いち早くそれを行う)ことを意味します。そもそも「町」は「エデン」に対立するものだったのです。カインは自分を守るために、「町」を建てたのです。もはや神ではなく、人が始めたのです。人間の文明はまさに町が象徴するものによってはじまっているのです。つまり「エノク」という語は一切の被造物を自分の意思に服させ、神の定めさえも奪い取ろうとする行為を含む意味なのです。そのためにカインの子孫は様々な道具を作る技術文明を案出したのでした。
  • 「エノク」という町を建てたカインの末裔はノアの洪水で滅ぼされますが、セム族のノアの息子ハムから出たニムロデが地上の最初の権力者となって多くの町を建てます(創世記10:12)。ちなみに、「ニムロデ」(נִמְרֹד)の語源はヘブル語の「マーラド」(מָרַד)で「反逆する」という意味をもっています。 何に反逆するのかと言えば、神に対して反逆するのです。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」という話が創世記11章に出てきますが、このように神に背いて「町」を建てるという人間の象徴的行為の金字塔が「バベルの塔」でした。そのような意味において、なぜイェシュアが宣教された町々を呪ったのかが初めて理解できるのです。
  • 神であるイェシュアの前に引き出された町(都市)、その結果は呪い(断罪)という形になります。町そのものに対する呪いであり、そこに住む人々に対してではないことに注意しなければなりません。槍玉にあげられているのは、「町」自身に対してなのです。なぜなら、町を支配する人間の力を越えた霊的要塞がそこにあるからです。「要塞」とは、神のご計画と知識に逆らって、悪魔が自分を高めるために築き上げた砦のことです。しかも悪魔はこういった要塞の存在を人間の目から隠そうとするために、普通の人間にはなかなか分かりません。しかし目に見えない霊的次元では二つの王国(神の王国と悪の王国)がぶつかり合っているのです。
  • イェシュアが「町々を呪う」というのは、そこにはサタンの要塞があるからです。使徒パウロは異邦人の地で御国の福音を宣べ伝えていくとき、この要塞があることに気づいていました。事実、エペソの町は当時魔術、魔法、占いの霊に満ちていました。その背後には女神アルテミスの支配がありました。使徒たちはこの霊と戦ったのです。パウロは「私たちの戦いの武器(=祈り)は、肉のものではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです」(Ⅱコリント書10:4)と言っています。その結果、エペソのクリスチャンたちはこのアルテミスによる魔術を拒絶し、自分たちが所有していた魔術の本を火で焼いたとあります(使徒19:19)。しかしそれは一時的なことです。黙示録2章でエペソにある教会が主によって非難されています。その非難とは「初めの愛から離れてしまった」ことに対してです(2:4)。このエペソの町も今や遺跡しか残っていません。この二つの王国の戦いは最後の「終わりの日」まで絶えることがないのです。

3. 主につまずかない者は幸いです

  • イェシュアが町に対して語りかける場合、断罪のことば、つまり「呪い」のことばしか放たれません。それはそこに住む者を滅びの中に引きずりこむ要塞が築かれているからです。それゆえ、安全な街とか、平和な町とか、恒久的な町はあり得ないのです。どんな町(都市)であっても、それが私たちにとって安全とは言えないのです。町や都市が私たちを守ってくれるという保証はどこにもないのです。むしろどんな町(都市)にも種々の災害や事故が起こり得るのです。しかしその原因となっている敵の要塞が打ち破られる時が来ます。それはメシアが再び来る時です。ですから、最後に次のみことばを心に刻みたいと思います。

【新改訳2017】詩篇127篇1節b
【主】が町を守るのでなければ 守る者の見張りはむなしい。

  • 神のご計画において主が守られる町とは一つしかありません。それは聖なる都エルサレムです。そこにこそ神のご計画が実現・完成されるのです。エルサレム(=「イェルーシャーライム」יְרוּשָׁלַיִם)はエデンと繋がる町なのです。したがってそこを私たちの住まいとしなければなりません。なぜなら、エルサレム(シオン)こそ、御の中心であり、御国の王なるメシアが治められるところだからです。なぜなら、主が選び、そこをご自分の住まいとして望まれたからです。そこは主の安息の場所であり、主にある民がいるべき場所なのです。

【新改訳2017】詩篇132篇13~14節
13 【主】はシオンを選びそれをご自分の住まいとして望まれた。
14 「これはとこしえにわたしの安息の場所。ここにわたしは住む。わたしがそれを望んだから。」

【新改訳2017】詩篇87篇1~3、5~7節
1 主の礎は聖なる山にある。
2 【主】はシオンの門を愛される。ヤコブのどの住まいよりも。
3 神の都よ あなたについて誉れあることが語られている。セラ
5 ・・シオンについてはこう言われている。
この者もあの者もこの都で生まれた。いと高き方ご自身がシオンを堅く建てられる」と。
6 【主】が「この者はこの都で生まれた」と記して国々の民を登録される。セラ
7 歌う者も踊る者も「私の泉はみなあなたにあります」と言う。

  • 「聖なる山」「シオンの門」「神の都」・・これらの表現はみな「エルサレム」について言われていることです。エルサレムが神の救いの歴史において中心的な役割を果たすことは多くの預言者たちが述べているところです。神の民はすべてこの都エルサレム(シオン)に生まれた住民として登録されています。ユダヤ人だけでなく、異邦人も含めてです。そこは私たちのルーツであり、かつ目指すべきところなのです。そこには喜びが満ち溢れています。そしてそこに住む者はこぞって「私の泉はみなあなたにあります」と告白するのです。それはすべての祝福の源泉が王なるメシア・イェシュアにあるからなのです。永遠の神の祝福と安息はメシア王国だけにとどまりません。最終の段階である「天のエルサレム」「新しいエルサレム」へと続いて行くのです。そのことを知ることができる者とは、主にある「幼子たち」(主の弟子たち)だけなのです。

2018.12.23


a:349 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional