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しかし、今は(恵みにあずかる道)

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7. 「しかし、今は」(恵みにあずかる道)

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はじめに

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  • 今回の礼拝は、教会暦で言いますと「宗教改革記念日」となっています。今から500年前(2017年から数えた場合)、つまり1517年に今のドイツにおいてマルティン・ルターという一人の修道僧がローマ・カトリック教会の「免罪符の販売」に反対して、教会の扉に「95箇条の提題」(公開質問状)を貼りつけたことによって始まった宗教改革の記念日なのです。カトリック教会に対してプロテストしたことから始まった教会を、プロテスタント教会と呼んでいます。
  • ルターは、神の恵みを金銭で買うことのできる免罪符制度と腐敗した権力に対して批判したことにより、教会から異端の疑いをかけられ、カトリック教会の審問を受けることになりますが、その過程の中で彼はますます信仰による救い、信仰によって義とされるという真理を鮮明にしていくこととなります。そして彼は、それまでの聖書と伝統を権威としていたカトリックに対して、ただ聖書のみを唯一の権威とする立場を表明したのです。マルティン・ルターによって再び鮮明にされた「信仰による救い」「信仰による義」という神の恵みは、まさに今回、私たちが学ぼうとしているローマ人への手紙3章において展開されているのです。3章9節から読んでみましょう。

1. 罪の支配下にある全人類

【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙3章9~18節
9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」
13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
15 「彼らの足は血を流すのに速く、
16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
17 また、彼らは平和の道を知らない。」
18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

  • 私たちは自分の謙遜さを表わすために、「私は罪深い者です。小さな者です。」と言うことがありますが、本当のところは、人から「いいえ。あなたはそんな人ではありません。」と言ってもらうのを期待して言っているところがあります。ですから、「そうですね。あなたが言うのは本当です。」と言い返されたものなら、「私は謙遜に自分のことを言っているのに」と気分を害して、おそらく怒ってしまうでしょう。私たちはなかなか本当の意味で、自分のことを「罪深い者だ」とは言えない、いや思えない者なのではないでしょうか。ところが、聖書ははっきりと神の御前ではみな「罪深い者だ」と断定しているのです。
  • 9節を見ると、それほど注意せずに読むなら、「ああ人間って罪の影響を受けているんだなあ~」ぐらいに、受け取ってしまうかもしれません。しかしこの9節のみことばは大変なことばです。「ユダヤ人もギリシヤ人も。」・・・つまり、ユダヤ人に代表されるように、宗教的に優秀な人も、あるいはギリシヤ人に代表されるような、すぐれて文化的に優秀な人たちも、例外なく、「罪の支配の下にある」と断罪されています。「下」とは、一つの権威、力、支配のもとにあるということです。
  • 「罪」ということばも、単数形が使われています。単数形ということは、あれこれの罪、物を盗んだ、嘘をついた、人に悪口を言った、告白した、いじわるをしたというような、これこれ、あれこれの罪ではなく、あるひとつの支配、権威、力のもとにある状態、いつもそのような力が働いているところの状態を意味することばです。
  • マタイの福音書8章で、ある百人隊長がイェシュアに向かってこう言いました。「わたしのしもべが中風やみで、家で寝ていて、ひどく苦しんでいます。・・しかし、イエスさま。あなたに私の家にまで来ていただく資格はありません。ただ、おことばだけをください。そうすれば、私のしもべはなおりますから。」。イエスはこのことばに驚かれました。「先生。私の下には百人の兵士たちがおりまして、わたしが『行け』と言えば行きますし、『来い。』と言えば、来ます。ましてや、イエスさまのいうことばだったら、どんな者でも、病魔であろうが、サタンであろうが、服従するはずです。・・」と言うのを聞いたイェシュアは「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」と言うのですが、この百人隊長が言った「私の下には」という言葉が、先ほどの「罪の下にある」という言葉と同じ言葉が使われているのです。つまり、あるひとつの力、権威、支配のもとにあるということです。
  • 私たちはよく偉そうに「私に言わせれば」とか、「私が」「私が」と言います。あたかも自分は何ものにも束縛されていない存在として考えています。しかし聖書は、すべての者は、だれひとり例外なく、罪の支配のもとに、罪の力に牛耳られている存在だと言うのです。論より証拠、私たちは小さな誘惑にも自分の力で勝つことができないのです。悪いと分かっているけどやめられない。神のもとから離れてしまった人間は、例外なく「罪の支配下にあって」、「私が」「俺が」と言っているけれども、罪という主人のもとで
    奴隷となっているのです。
  • ある人が話したことですが、鉄橋が濁流に流されてしまった。そこへ列車が向こうからやってくる。ところが、列車の中には自慢話をする者がいたり、おしゃべりをしたり、酒を飲んだりしている者もいるかと思えば、まじめに本を読んだり、勉強したり、あるいは人に親切をしたりするやさしい人もいる。しかし何をしていたとしても列車はやがて濁流の中に飲まれてしまう運命にあります。このように人間がたとえ、教育だ、仕事だ、慈善事業だ、文化事業だと叫んでみたところで、列車はいずれ濁流の中に、永遠の滅びの中に突入していく・・・これが人間の姿なのです。
  • 9節で、パウロが「すべての人は罪の下にある」と述べているのは、この現実なのです。19節にも「すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服する」とあります。23節には「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」・・「すべての人、すべての口、すべて、みな」なのです。「例外」はないのです。釈迦も孔子もソクラテスも、二宮尊徳も・・です。実に聖書は思い切ったことを断言しています。
  • パウロはそのことを旧約聖書のいろいろな箇所を引用して論証しています(10~18節)

(1) 罪の下にある人間の状態

① 義人はいない(10節)
② 悟りのある者はいない(11節)
③ 神を求める者はいない(11節)
④ 迷い出て、無益な者となった(12節)
⑤ 善を行なう者はいない、ひとりもいない(12節)

 

(2) 罪の下にある人間から出るもの

① 舌・・不潔、あざむき、死の毒(13節)
② 口・・苦い言葉、のろい(14節)
③ 足・・流血(闘争)、破壊、悲劇(15, 16節)
④ 目・・不敬虔、悪い目つき(18節)

  

(3) 神の律法が与えられた役割

① 律法は人を善に導くために与えられたものではなく、すべての口をふさぐためのものである。
② 律法は人に罪を意識させ、自らの完全な無力さを認めさせるためのものである。それゆえに、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない。したがって、律法は私たちに要求するが、決して私たちを助けることはしない。
③ 律法は人に有罪を宣告し、神に死刑の執行を要求する。

  • このように、律法によって私たちははじめて自分の本当の姿を知らされる。イェシュアは「医者を必要とするのは病人です。」・・自分が病人であることを知って、はじめて医者の必要性を認める。
  • 「義」とは、神と人との関係性を表わす概念です。神との正しい関係、状態です。しかし「義人はいない。ひとりもいない。」のです。・・これに反対する人もいるでしょう。しかし聖書は啓示の書です。神がご覧になった人間の姿です。人が自分をどのように評価しようが、自分が自分をどのように評価しようが勝手です。しかし神の前に正しいとされる者はだれひとりとしていないのです。すべての者が罪を犯したので、だれひとり神のさばきは免れることはできないのです。それゆえ、神の怒りはすべての人に下るのです。このことが、福音を伝えるために、パウロがまず言いたかったことなのです。

2. イエス・キリストを信じる信仰による神の義(提供された神の義=救い)

  • ところがです。21節の「しかし、今や」です。これは、全く新しいことが、新しい時代が始まったことを意味する希望をもたらすことばです。これによって、すべての人が罪の支配から解放され、救いの恵みにあずかる道を明らかにしてくださった偉大な「しかし」です。
  • 旧約時代には「ヨベルの年」という主の定めがあります。「ヨベル」とは、喜びの年、歓喜に満ちた年という意味です。これは50年毎におとずれ、それまでのすべての負債、債務、借金が取り払われるという特別な年でした。とはいってもそれがどの程度なされたのかは明確ではありません。人々はその年が近づくにつれて貸すことをためらったからです。「しかし、今は」、旧約時代のヨベルの年よりもはるかにすばらしいことが始まることを示しています。つまり、神が私たちのすべての罪を赦し、負債の返却を求めないということをなされたからです。21節から読んでみましょう。

【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙3章21~25節
21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。


  • 20節まで「人間とはどのような者で、何をしてきたか」について言及されていましたが、21節以降では、一変しています。

①「神の義」とは、神の救いを意味します。しかしその背後に神の怒りがなだめられたがゆえの救いです。
②「イエス・キリストの贖い」とは「イエス・キリストによる身代わり」という意味。
③「価なしに」とは、「何の理由もなく、何の資格もなく」という意味。
④「その血による」とは、「十字架の上で流された血潮による」という意味。
⑤「なだめの供え物」とは、至聖所のふたの部分に血が注がれたことで、神の怒りがなだめられたと
いう意味。

  • ここではっきりとしていることは、私たちが義とされるためには(=救われるためには)、贖い(=
    身代わり)が絶対に必要であったということです。私たちは罪の下にあり、それゆえに有罪であり、死が宣告された者であり、永遠の死に価する者でした。その罪人が「義とされる」ために、神は御子イエス・キリストを通して贖いをしてくださったのです。
  • 「贖い」について・・神学校のある先生がこんな話をされました。その先生が牧師になりたての頃です。ある古本屋に行ったときに珍しい本を見つけました。どこかで見たことのあるような本でした。その本を手にとってめくってみると自分の名前が記されていたのです。実は盗まれたらしい・・。理由はどうであれ、その本をもう一度自分の所有とするためには、お金を払って買い戻さなければなりません。もともと自分のもので、盗まれたものだと言って、その本を持って来るわけにはいきません。その本につけられた代金を支払わなければ自分のものにすることはできないのです。代価を払って買い戻す。お金と引き換えにその本を自分のものとする。これが「贖い」というわけです。だれが自分の借金を肩代わりしてくれるでしょうか。しかもその額が多ければ多いほど、肩代わりしてくれる人はいなくなります。ましてや、死に価する負債を代わってくれる人などいません。しかし、神は私たちを愛して下さった愛のゆえに、贖いの血(=いのち)を払って贖ってくださったのです。

最後に

  • 私たちが義とされるその土台は、イエス・キリストの流された血潮のみです。イエス・キリストの血潮はそのような力を持っているからです。唯一の条件は、イエス・キリストを信じる信仰だけです。そのことを大胆に信じようではありませんか。「恵みのゆえに、信仰によって救われました。」と、口では言っても、内心信じられず、「こんな罪深いのに、救われていると言ったら、何とあつかましい奴だと思われはしないか」と思ってしまうのです。そこをサタンが突いて来ます。「そうですよ。あなたの思うとおりです。」と。「お前、それでもクリスチャンか。そんな行ないしていて。」
  • もう一度(いえ、いつも)、みことばに帰りましょう。聖書が何と言っているかに耳を傾けましょう。「あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」と聖書が宣言しているなら、そのことを素直に信じましょう。私たちの救いの根拠は私たちの感情によるものではありません。神が「イエス・キリストを信じる信仰によって義と認める」と言ったのであれば、その通りに信じることです。イエス・キリストを信じる信仰を私たちに与えてくださった神に感謝をしたいと思います。

1994.10.30


2017.3.16


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