****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

しかし、娘シオンは残された

1. しかし、娘シオンは残された

【聖書箇所】イザヤ書 1章1~18節

ベレーシート

●イザヤ書は66章からなる壮大な預言書であり、分量的にも、また内容においても、偉大な書であると言えます。この書に真に向き合って取り組むことを通して、神の救いのご計画の全貌を知ることができるのです。今回は、イザヤ書1章から三つの箇所を取り上げます。最初は1章2~3節にある「神の訴え」について、一見、バビロン捕囚とそこからの解放を預言していると思われますが、実は、神が語られることばは「最後のこと」を語っているのです。バビロン捕囚とそこからの解放の出来事は、その型(予型、ひな型)です。

●「最後のこと」とは、イスラエルの民を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる時のことで、国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時のことです。なにゆえにそのような苦難が起こるのかといえば、イスラエルの民が神に対する罪(獣と呼ばれる反キリストをメシアと信じる偶像礼拝)を犯すからです。神はその中から、真のご自身の民である「イスラエルの残りの者(シェエーリート:שְׁאֵרִית)」を起こされるのです。

【新改訳2017】ダニエル書12章1節
その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。

●ここでの「あなた」とはダニエルのことで、「あなたの国の人々」とは「イスラエルの民」のことです。「国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難」とは未曾有の苦難です。その時とは、獣と呼ばれる反キリストが立ち上がって来る時です。その時、イスラエルの民の中で、あの書(=いのちの書)に記されている者はみな救われる(=永遠のいのちに与る)とあります。あの書(=いのちの書)に記されている者こそが「イスラエルの残りの者」です。エレミヤもミカも、このことを祈り、かつ預言しています。

①【新改訳2017】エレミヤ書 31章7節
まことに、主はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらに向かって叫べ。告げ知らせよ、賛美して言え。『主よ、あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』

●「あなたの民」とは「主の民」、つまり「イスラエルの残りの者」のことです。この「イスラエルの残りの者を救ってください」と主に祈り、ヤコブ(イスラエル)に対しては「喜び歌い」、国々(ハッゴーイム:הַגּוֹיִם)の支配者たちに向かっては「叫び」、かつ「告げ知せよ」・・・「祈りも、喜び歌うことも、叫び、告げ知らせること」のすべてが「イスラエルの残りの者」についてです。なぜなら、それほどに彼らが重要な存在となるからなのです。しかしその理由については語られていません。隠されているのです。

②【新改訳2017】ミカ書 2章12節
ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。・・・・

●原文の「集めに、集めて」が「必ずみな集め」と訳されています。重ねられている動詞は「アーサフ」(אָסַף)です。同じく原文の「呼び寄せ、呼び集める」が「必ず呼び集める」と訳されています。その動詞は「アーサフ」と同義の「カーヴァツ」(קָבַץ)です。そのようにして、神を敬う「イスラエルの残りの者」を囲いの中の羊のように「一つに集める」(ヤハド・スィーム:יַחַד שִׂים)ことが預言されています。ことごとく確実になされるという預言が、「必ずみな集め」「必ず呼び集める」「一つに集める」で表現されています。これほどに強調された表現は、ミカ書以外にはありません。特に「集める」を意味する「スィーム」(שִׂים)の初出箇所の創世記2章8節ではエデンの園に「(人を)置く」となっていますが、「集めて、置く」ということがエデンの園の回復である「御国」において成就するのです。このことが、今回のタイトルにある「娘シオンは残された」が意味することです。すべての預言は、イェシュアが王として治める「御国」(千年王国)において成就するのです。


1. 神の訴え(リーヴ:רִיב)

【新改訳2017】イザヤ書1章2~3節
2 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。
「子どもたちはわたしが育てて、大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。
3 牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉桶を知っている。
しかし、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

●2節以降では神の法廷が開かれる設定がなされています。原告は「イスラエルの聖なる方」(1:4)であり、被告人は「神の民イスラエル」です。そして法廷の証人は「天と地」です。「天と地」は「神と人がともに住む神殿」を表していますが、その訴えの内容も「天と地」に関するものです。しかも、神の訴えの基準は、アブラハムに対する無条件的契約、および神とイスラエルの民が合意によって結んだシナイ契約の神のみおしえ(トーラー:תּוֹרָה)に基づいています。トーラーとは単なる戒律や規則ではなく、「神と人とが正しいかかわりをもって生きるための教え」です。神の訴えの内容は「子どもたちはわたしが育てて、大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた」というものです。

●神の訴えの方法は、2節の「わたしは~~をしたのに、彼らは~~をした」と反義的です。3節の「牛、ろばは~~をしているのに、わたしの民は~~をしない」も2節と同様、反義的です。しかし2節と3節は同義的パラレリズムとなって神の訴えがより強調されています。「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」という表現の中に、主の心の痛みが訴えられています。神の訴えの背景には、燃えるような愛に裏付けられた失望と嘆きがあります。

2. 神とのかかわりを示す語彙

(1)「育てた」

●「子どもたちはわたしが育てて、大きくした」にある「育てた」と「大きくした」という語彙に注目してみたいと思います。まず「育てた」と訳されたヘブル語は「ガーダル」(גָּדַל)のピエル態で、初出箇所は以下の通りです。

【新改訳2017】創世記12章2節
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

●「大いなる」は「ガーダル」の形容詞「ガードール」(גָּדוֹל)で、「大いなるものとする」が動詞「ガーダル」です。その目的は、アブラムを通して多くの者たちを祝福する源とするため、あるいは多くの者たちの祝福の基とするためであったことが分かります。「源」も「基」も「ローシュ」(רֹאשׁ)的存在でなければなりませんが、神はアブラム(イスラエル)をそのような存在となるべく、選び、育てたということです。

(2)「大きくした」

●「大きくした」と訳されたヘブル語は「ルーム」(רוּם)で、「ガーダル」と同様のピエル態の強意形です。その初出箇所は以下です。

【新改訳2017】創世記7章17節
大洪水は四十日間、地の上にあった。水かさが増して箱舟を押し上げたので、それは地から浮き上がった。

●「大きくした」は「ルーム」(רוּם)で、初出では「押し上げた」と訳されていますが、「高く上げられる」ことを意味します。神はイスラエルを他の民よりも「押し上げて、高く上げられる」ようにするために、そのように民を育てられたのです。その目的はひとえに「多くの民を祝福するため」に他なりません。とするなら、「育てる」(גָּדַל)も「大きくする」(רוּם)も、神から与えられる祝福をもって他者を祝福するという使命を表す同義的語彙と言えます。

(3)「背いた」

●そのような神の大いなる期待を裏切る語彙が、「彼らはわたしに背いた」の「背いた」と訳された「パーシャ」(פָּשַׁע)です。その名詞が「ぺシャ」(פֶּשַׁע)で、神に対する「背きの罪」を意味します。

【新改訳2017】イザヤ書53章5節
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちののために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

●5節には二つの「罪」に関する語彙があります。一つは「背き」と訳された「ぺシャ」(פֶּשַׁע)、もう一つは「咎」と訳された「アーヴォーン」(עָוֹן)で「違反、誤ち」を意味します。5節の「彼」は「神のしもべ」であるイェシュアを指しています。その彼が「刺され」「砕かれた」のは、イスラエルの背きのためであり、イスラエルの咎のためにです。つまり身代わりとしての代償的受難です。ところが多くの人々は、彼が神から罰せられ、神に打たれ苦しめられたのだと思い込んだのです。しかし事実は全く異なっていました。二つの動詞「刺され」(ハーラル:חָלַל)と「砕かれ」(ダーハー:דָּכָא)は、いずれも残忍で苦痛に満ちた死を意味します。神がその死を、イスラエルの民のすべての背きと咎の身代わりとして彼に負わせたのです。「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」とある通りです。ちなみに「罪」を表すもう一つの語彙に「ハッター」(חַטָּא)があります。これは根源的な罪、すなわち原罪を表します。ダビデは「ヒソプで私の罪(חַטָּא)を除いてください。そうすれば私はきよくなります。」(詩篇51:7)と祈りました。

(4) 「飼い葉桶」の奥義

「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉桶を知っている。
しかし、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」(3節)

●3節の「ろばは持ち主の飼葉桶を知っている」、しかし「わたしの民は悟らない」という意味について取り上げたいと思います。神の民に対する辛辣な非難として、「飼葉桶」(エーヴース:אֵבוּס)というメタファーが登場しています。これは神の御子がこの世にお生まれになった時に寝かせられた「飼葉桶」とつながります。なにゆえにイェシュアは「飼葉桶」に寝かせられたのでしょうか。イェシュアの周辺にある(起こる)すべてのことは決して偶然ではなく、すべてに神の必然性があります。イェシュア誕生の時代もイザヤの時代と同様、強力な異邦人の国(ローマ)に支配されていました。イスラエルの民(ユダヤ人)はそうした支配の中で翻弄され、いつしか自分たちの神を見失い、主を「知ることも、悟ることもない」時代だったのです。そうした時代に御子イェシュアが遣わされたのですが、そのことを表現する象徴の一つに「飼葉桶」があるのです。

●教会のクリスマスで必ず歌われる有名な讃美歌に「きよしこの夜」があります。♬
「きよしこの夜 星は光り 救いの御子は まぶねの中に 眠りたもう いとやすく」
「まぶね(=飼葉桶)の中に 眠りたもう いとやすく」という歌詞は、眠っておられる幼子に「かわいさ」や「ぬくもり」が漂っているようなイメージです。またこのシーズンに必ず読まれる聖書箇所の一つに、以下の箇所があります。

【新改訳2017】ルカの福音書2章6~7、10~12、16節
6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。

●御使いは羊飼いたちに対して、「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」―「それが、あなたがたのためのしるし」だと言いました。「しるし」は英語で言うと「サイン」(a sign)です。それはある事を伝える「合図」を意味します。ギリシア語では「セーメイオン」(σημεῖον)と言い、ヘブル語は「オート」(אוֹת)です。「飼葉桶(ファトネー:φάτνη)に寝ているみどりご」が「あなたがたのためのしるしだ」と御使いは言いました。この「しるし」には、より深い霊的な意味が込められています。これはどういう意味でしょうか。「飼葉桶」が伝えようとしていることは、その幼子が多くの人々から拒絶されるサインだということです。たまたま宿屋がいっぱいで、仕方なく家畜小屋で出産せざるを得なかったので「飼葉桶」に寝かせただけということではありません。イェシュアとその周辺に起こる出来事には偶然がなく、すべてが旧約からの必然性をもっているのです。聖書の中で「飼葉桶」について記されている箇所はわずかですが、とりわけイザヤ書1章3節にある「飼葉桶」が指し示しているメッセージは辛辣です。

●神の訴えの焦点は「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉桶を知っている」「しかし、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」ということにあります。「知らないだけではなく、自ら悟ろうとすることも理解しようとすることもない」と訴えられているのです。イザヤ書1章2~3節にある主の訴え(告発)を【七十人訳ギリシア語聖書】(秦剛平訳)から引用します。

2 天よ、聞け。 地よ、耳を傾けるのだ。 主が語られるからだ。
「わたしは子らを育て大きくした。 しかし、彼らはわたしを無視した
3 牛はその飼い主を知っている、 驢馬はその飼い葉桶を(知っている)。
だが、イスラエルはわたしを知らず、 民はわたしを理解しなかった」と。

●物言わぬ動物(家畜)でさえ分別があるのに、神の民は悟らないという驚くべきメッセージが「飼葉桶」に象徴されています。イェシュアが誕生した時代の神の民(ユダヤ人)は、イザヤが預言した時代の人々と何ら変わりませんでした。神の律法を重んじるパリサイ派や律法学者たちは、神のみおしえを禁止や規則や罰則に変質させ、民衆を支配する道具としていたのです。これは神の側からすると本末転倒の事態でした。それを変革すべく、神の最後の切札として遣わされた預言者が御子イェシュアだったのです。ですから、「まぶねの中に 眠りたもう いとやすく」というほのぼのとしたイメージにはなりません。イザヤ書の視点から「飼葉桶に寝ているみどりご」を見るなら、これから起ころうとする象徴的な光景が浮かんできます。ヨハネの福音書1章9~11節にこうあります。

【新改訳2017】ヨハネの福音書1章9~11節
9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった
11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった

●すべての人を照らすまことの光(=イェシュア)が世に来た時に、世はこの光であるイェシュアを知らない、神ご自身が育てられたご自分の民であるユダヤの人々からイェシュアが拒絶されるというしるしが、ルカのいう「飼葉桶に寝ているみどりご」なのです。ここでの「世」とは一般的なこの世ではなく「ユダヤ教」、あるいは「ユダヤ教の宗教指導者たち」のことです。彼らはイザヤの時代の宗教指導者たちと驚くほど似ています。イザヤが登場した時代の社会構造とイェシュアが登場した時代の社会構造は、以下のようにとても似ていました。ユダヤ人たちを支配するローマ帝国の勢力、ユダヤ教の宗教指導者の勢力、そしてイェシュアという神の勢力、これら三つの嵐が「パーフェクト・ストーム」(Perfect storm―完全なる嵐)のように激しくぶつかり合った時代でした。イェシュアの語ったことばの中にはイザヤが語ったことばが多く引用されていますが、その中に当時の宗教指導者たちの偽善を糾弾することばがたくさんあります。「偽善」とは外側と内側が異なること、つまり人に見えることと、実際やっていることに整合性がないということを意味します。目に見える宗教的行為(礼拝、ささげ物)は変わりなく保持されながら、実際の生活がそれに矛盾していることなのです。前後しますが、その偽善がイザヤ書1章11~17節に記され、それに対する主の心が記されています。

3. 宗教指導者(祭司)たちの偽善に対する神の拒絶

【新改訳2017】イザヤ書1章11~17節
11 「あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう。──主は言われる──
わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない
12 あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよとあなたがたに求めたのか。
13 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない
14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む
それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた
15 あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。
16 洗え。身を清めよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪事を働くのをやめよ
17 善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなしごを正しくさばき、やもめを弁護せよ。」

●イザヤを通して神は、ユダの民の礼拝でのささげ物に対して、「飽きた」「喜ばない」「来るな」とし、例祭を始めとする集会にも「耐えられない」「憎む」「疲れ果てた」としています。祈りさえも「目をそらす」「聞くことはない」としています。これは形骸化した礼拝、心のこもらない礼拝ということではなく、偽善に対する神の拒絶が語られています。この偽善こそ「悪い行い」であり、「悪事を働く」ことなのです(16節)。そして、それを取り除くようにと命じています。積極的命令は17節だけで、あとはすべて消極的命令です。イェシュアも当時の律法学者やパリサイ人の偽善を鋭く断罪しています。「偽善」ということばは、マタイの福音書では15回。マルコの福音書では1回のみ。ルカは4回です。神との縦の関係が崩れはじめると、それは必ず横の関係にも影響を与えます。順序が逆になりますが、偽善ゆえに神のわざわいが臨むのです。

【新改訳2017】イザヤ書1章4~7節
4 わざわいだ。罪深き国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り背を向けて離れ去った
5 あなたがたは、反抗に反抗を重ねてなおも、どこを打たれようというのか。頭は残すところなく病み、心臓もすべて弱っている
6 足の裏から頭まで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。
7 あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は火で焼かれている。土地は、あなたがたの前で他国人が食い荒らし、他国人に破壊されたように、荒れ果てている

●「主を捨て(アーザヴ:עָזַב)、イスラエルの聖なる方を侮り(ナーアツ:נָאַץ)、背を向けて離れ去った(ザーダル:זָדַר)」、これらは同義的パラレリズムの一種ですが、神への離反を重ねる「漸層的パラレリズム」とも言われます。神への離反の結果もたらされるのは、地が他国人によって荒れ果てることです。「荒れ果て」「荒れ果てている」と訳されたヘブル語は動詞のように見えますが、実は名詞の「シェマーマー」(שְׁמָמָה)で、「荒れ果てた地」を意味します。それは「偽善」のみならず「主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った」結果もたらされたものです。それは後にバビロン捕囚や世界離散として実現されます。

4. 「しかし、娘シオンは残された」

●ところが8節で「娘シオンは残された」とあるのです。「娘シオン」とは、9節に「万軍の主が私たちに生き残りの者をわずかでも残されなかったなら」とあることから「イスラエルの残りの者」と同義です。

【新改訳2017】イザヤ書1章8~9節
8 しかし、娘シオンは残された(ヤータル:יָתַר)。あたかも、ぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。
9 もしも、万軍の主が私たちに生き残りの者(サーリード: שָׂרִיד)をわずかでも残され(יָתַר)なかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じになっていたであろう。

●「あたかも、ぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように」という表現は、国中が荒廃しているにもかかわらず、かろうじてエルサレムだけが守られている様子を表す比喩です。ただしそこに人間が住んでいる気配がなく、荒れ果てた状態を表しています。本来ならば、イスラエルはソドムとゴモラと同じように完全に滅ぼされてもおかしくありません。「ソドム」と「ゴモラ」は神のさばきの比喩として使われています。ところが、「娘シオン=イスラエルの残りの者」は、神の一方的な恩寵によって残されるのです。「残された」は預言的完了形です。つまり「娘シオンであるイスラエルの残りの者は必ず残される」という意味です。イザヤ書において「残りの者」の思想とメシアの関係はきわめて重要です。神の契約を破棄した神の民には神の審判が臨みます。しかし、あたかも切り倒された木々の間に切り株が残るように、そのさばかれる民の中から少数の真のイスラエルが生じて「聖なる裔(すえ)」となるのです(イザヤ6:13)。この「聖なる裔(すえ)」こそ「イスラエルの聖なる方、主(=イェシュア)に真実をもって頼る」(イザヤ10:20)者、それが「残りの者」(シェアール:שְׁאָר)なのです。「残りの者」は集合名詞単数で表されており、「シェアール」(שְׁאָר)は男性名詞、「シェエーリート」(שְׁאֵרִית)は女性名詞です。彼らはやがてメシア王国の主要メンバーとなるのです。その「残りの者」に、本来ならば絶対にあり得ないようなことが起こることが、以下に約束されています。

(1)「罪の赦し」

【新改訳2017】イザヤ書1章18節
「さあ、来たれ。論じ合おう。──主は言われる──
たとえ、あなたがたの罪がのように赤くても、雪のように白くなる。
たとえ、のように赤くても、羊の毛のようになる。

●ここにも同義的パラレリズムがあります。それによって罪の赦しが強調されているのです。「」と訳された「シャーニー」(שָׁנִי)は二度染めした真っ赤な色(血の色)です。それが「雪のように白くなる」という約束です。「」と訳された「トーレーアー」(תּוֹלֵעָה)は、えんじ虫の一種の昆虫で、雌は赤い物質を含んだ卵を産みます。それを染料に用いるとき「トーラアット・シャーニー」(תוֹלַעַת שָׁנִי)と呼ばれます(出25:4/26:1, 31, 36/27:16など)。紫に近い深紅の色です。それが「羊の毛のようになる」という約束です。新約時代において、神の御子イェシュアを信じる者に約束されている罪の赦しは、まさにここに表現されるような約束であり、無条件の恵みです。そしてイスラエルはやがて終わりの日に、神の一方的な恩寵により「残りの者」として初めて、これまでの大いなる背信の罪(偶像礼拝の罪)に対する全き赦しが与えられるのです。

(2)「恵みと嘆願の霊」

神の悲願の結晶は「恵みと嘆願の霊」(ルーアッハ・ヘーン・ヴェタハヌーニーム: רוּחַַ חֵן וְתַּחֲנוּנִים)によって生み出されます(ゼカリヤ12:10)。「恵みと嘆願」の「恵み」は「ヘーン」(חֵן)で、「あわれむ」を表す動詞「ハーナン」(חָנַן)の名詞です。「嘆願」も「神のあわれみの数々を表す「タハヌ―ン」(תַּחֲנוּן)で、これも語源は「ハーナン」(חָנַן)です。ですから、「恵みと嘆願」とは「ハーナン」が幾重にも重なった語彙なのです。神のあわれみは盲人の目が開かれることで最も良く現されます。終わりの日の「残りの者」の開眼はまさに神のあわれみの極みと言えます。まさにそれは復活されたイェシュアの「いのちを与える霊」(Ⅰコリント15:45)によってのみなされるのです。

べアハリート

●イザヤ書1章にはイザヤ書で展開される重要な要素が登場しています。それゆえイザヤの幻を私たちの脳裏に焼きつける必要があります。神の悲痛な訴え、それは神ご自身が懇ろに育てたイスラエルの民の限りなき背反とそれによる地の荒廃です。しかしその地から出る若枝としてのメシア、および「残りの者」の存在、それによって神のご計画が完成されるという神の揺るがない真実が、歴史の舞台を通して証しされるのです。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにあります。

2025.4.27
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