****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

しもべなるキリスト <2>

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C-05. しもべなるキリスト <2>



(2) 完全なしもべ、キリストの二つの面

  • 預言者イザヤは「主のしもべの歌」の中で、やがて来られるメシア、すなわち主イエス・キリストを二つの面から描いている。ひとつは〔受動的な面〕であり、もうひとつは〔能動的な面〕である。この二つの面が組み合わされることにより、完全な神のしもべの姿が浮び上がってくる。
    ① 受動的な面 
    a. 自分の苦難を忍耐をもって忍ばれた。
    b. 私たちの身代わりとしての罪を負われた。
    ② 能動的な面
    a. 神のみこころを行なうため、神に栄光を帰すために選び召し出された方に従われた。
    b. 弱い者に対して情け深く、憐れみ深い方である。
    c. 疲れた者に励ましのことばを語られる。
    d. 盲人であり、囚人に対しても霊的な助けをもたらす。
    e. 反抗に直面してもゆるがない。

(3) 新約聖書における「しもべ」としてのイエス・キリスト

  • イエスはその生涯とその働きにおいて、奉仕(ディアコ二ア)の完全な模範を与えられた。イエスは御足の跡を踏み従うようにと模範を残された。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕える(ディアコ二ア)ためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10章45節)と語り、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。人の上に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」(マルコ10章43、44節)と教えている。
  • 福音書でディアコ二アを「給仕をする」という意味で使われている箇所は、他にルカ12章37節、ルカ17章8節、ルカの福音書22章27節、ヨハネ12章2節である。

〔検証〕その1・・・ルカ17章7~10節

  • 「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」
  • ここに登場するしもべは、当時のしもべと主人の関係をよく表わしている。当時のしもべは普通、畑仕事と家事の両方をあわせ持っていた。一日中畑で仕事をし、ひと息する間もなく、帯を締めて主人の食事の給仕に当らなければならなかった。「帯を腰に締める」ことは主人のしもべとしての関係を表わしている。しもべの務めは、主人の所有物であるため、当然のこととして報酬を考えずに、ただひたすら主人の意志に従い、主人に仕える存在であった。このようなしもべと主人の関係を表わすことばが「給仕する(ディアコ二ア)」という言葉である。ところが、この関係を逆転する話がルカ12章に登場する。

〔検証〕その2・・・ルカ12章36~38節

  • 「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。」
  • ここには、婚礼から突然帰ってきた主人を、目を覚まして迎えたしもべたちに「主人のほうがが帯を締めて」進みよって給仕をしてくれるということに驚かされる。なぜなら、それは当時全く考えられないことだったからである。立場の大逆転が起こっている。
  • 主人自ら彼のしもべの給仕人となるということは、主人がしもべのものとなり、主人がしもべに自分自身をささげ尽くすことを意味する。これこそ、イエスが死の前夜、最後の晩餐の談話の中で語ったことであった。ルカ22章27節。

〔検証〕その3・・・ルカ22章26~27節

  • 「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」
  • 給仕される者(接待される者)は、給仕する者(接待する者)よりも上の立場にあるということはこの世の人間関係の常識である。ところがイエスはこの世の権威と支配の常識を真っ向からくつがえし、神の国における真の偉大さの基準が実に「給仕すること(ディアコ二ア)」であると主張された。それゆえ、イエスは、だれが一番偉いだろうかと議論していた弟子たちに、「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」(ルカ22章26節)と言われたのである。まさに、「仕えることは、支配すること」である。これが御国の原理である。

〔検証〕その4・・・ヨハネの福音書13章の〔洗足の行為〕

  • 「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。・・夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。『主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。』イエスは答えて言われた。『わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。』ペテロはイエスに言った。『決して私の足をお洗いにならないでください。』イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』・・イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。『わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。』
  • ルカはイエスが「給仕をする」ということばで仕えることを表わしたが、ヨハネはイエスが自ら弟子たちの足を洗うという行為でそのことを表わした。足を洗うのは当時、奴隷の仕事であった。イエスは、弟子たちに模範を示された。そしてそれを行なうなら祝福されると約束された。ディアコ二アのライフスタイルは、単に、主に従う個人の生き方のみでなく、教会そのものが、ディアコ二ア共同体とならなければならない。

おわりに

  • 「給仕する」というディアコ二アの本来の意味をまとめてみると、・・
    ①ディアコ二アは給仕すること、すなわち手、足、体を使っての全身的・具体的行為。
    ②完全に他者中心の行為、生き方を現わす。()
    ③仕える根拠は主の贖いに対する感謝のゆえである。それゆえ、仕えるとき人からの感謝も報酬も期待しないで為すことである。

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  • 日本において15年ほど前から「モノからココロの時代」と言われて久しいが、最近、こうした考え方は「ホスピタリティ・マインド」(Hospitality Mind)として注目され始めてきている。これまで企業は製品志向であったが、今や、顧客志向に移行して生きている。このことに無関心な会社は生き残れないとさえ言われる。これからの教会においてもホスピタリティ・マインドはキー・ワードである。それは神の「もてなしの精神」であるから。


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