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すべての良い贈り物は、上から来る

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2. すべての良い贈り物は、上から来る

【聖書箇所】1章9~18節

ベレーシート

  • 前回の2~8節と<今回の9~18節はどのようなつながりになっているのでしょうか。コンテキスト(文脈)をまず見てみましょう。そこには共通する構文があります。それは「・・・しなさい」という命令と「そうすれば」「なぜなら」という接続詞があって、「・・となる」「・・だからです」という構文です。


「この上もない喜びと思いなさい。」(2節)
「その忍耐を完全に働かせなさい。」(4節)
そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となります。」(4節)

「知恵の欠けた人がいるなら、その人は神に願いなさい。」(5節)
そうすればきっと与えられます。」(同)

「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」(9節)
「富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。」(10節)
なぜなら、・・」(直接的には10節ですが、18節につなげて考えることも可能です。つまり「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになった(から)」

  • 前回も学んだように、このヤコブの手紙は主にある者たちが成熟したキリスト者となることを目的として書かれた「知恵の書」であるということです。どのようにして神は私たちを成熟させてくださるのか、それは「さまざまな試練」によってですが、その試練を耐え抜くために、神からの知恵を求めるようにとヤコブはこの手紙で教えようとしているのです。救いのための書ではなく、救われた者が成長し、成熟するための書なのです。

1. 自分を誇りとせよ

【新改訳改訂第3版】ヤコブの手紙1章9~11節
09 貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。
10 富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。
11 太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。

  • 9~11節では、「貧しい境遇にある兄弟」と「富んでいる人」(=「富んでいる境遇にある兄弟」)が対照的に取り上げられています。前者は「自分の高い身分」に対して「誇りとしなさい」とし、後者は「自分が低くされること」に対して「誇りを持ちなさい」と命じています。この世においては出発点(社会的な立場)が異なったとしても、やがて神によって同じ立場に置かれるからです。
  • 「誇りとしなさい」の「誇る」とは「カウカオマイ」(καυχάομαι)は、1章2節にある「喜びと思いなさい」という表現が言い換えられたものです。なにゆえに「喜びと思える」のでしょうか。なにゆえに「誇りとする」ことができるのでしょうか。イェシュアは次のように言われました。「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:12)と。
  • これは逆説的な表現ですが、御国の福音の一つの現われです。自分を低くする「貧しい者」は、御国において神の子どもという高貴な身分が与えられるゆえに、そのことを「誇りとしなさい(喜びと思いなさい)」と言われています。また「富んでいる者」は高慢になることが多いはずですが、そのような人の立場や働きは、草の花のように消えていく運命にあります。ですから、空しい運命をもたらす高慢が打ち砕かれて、謙遜にさせられて高くされるゆえに、「喜びと思える」ようになるのです。つまり、「貧しい境遇にある者」が高められ、「富んでいる者」も低くされることで、同じく高められるのですから、主にあって、自分を誇ることができるのです。
  • 特に富んでいる人の立場は、草の花のように過ぎ行く運命にあることが10節と11節で強調されています。11節の「太陽が熱風を伴って上って来る」というたとえは、「草を枯らし」「花は落ち」「美しい姿は滅び」させる「試練」を意味しています。そしてその「試練に耐える人は幸いです」(12節)と続きます。

2. 試練に耐える人は幸い

【新改訳改訂第3版】ヤコブの手紙1章12節
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

  • 12節にある「試練に耐える人」と「耐え抜いて良しと認められた人」と「神を愛する者」は、同義的パラレリズムです。ここでの「試練に耐える」とは、2節にあるように「数々の試練をこの上なく喜びとする」ことを意味します。これこそ聖書的な「ポジティヴ・シンキング」(Positiv Thinking)です。そのような人がなぜ「幸い」なのかと言えば、やがて「いのちの冠を受ける」ことになるからです。試練は、神が私たちを主にある成熟した者にするための最善な配慮と言えるのです。それゆえ、「試練に耐える人は幸いです」と述べられているのです。
  • 神を愛する者に約束されている「いのちの冠」とはどういう冠でしょうか。聖書にいろいろな冠が登場します。「いばらの冠」をかぶせられたイェシュアは、復活後に「栄光と誉れの冠」を受けられました。それは、やがてキリストの再臨によって主にある勝利者に与えられる「しぼむことのない栄光の冠」(Ⅰペテロ5:4)であり、金の冠、王の冠です。

3. 「試練」と「誘惑」

【新改訳改訂第3版】ヤコブの手紙1章13~16節
13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
16 愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。

  • ところで、「試練」と訳された原語は「ペイラスモス」(πειρασμός)という名詞です(ただし2節は複数、12節は単数という違いがあります)。13節の「誘惑に会う」(=試みられる)と訳された原語の「ペイラゾー」(πειράζω)は、名詞「ペイラスモス」(πειρασμός)の動詞(受動態)です。
  • 13~16節には、「試練」と「誘惑」の原語が同じ語幹であるゆえに、神からの「試練」を神から「誘惑された」「試みられた」と言う者がいることを想定して、ここでは「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された(=試みられた)、と言ってはいけません。」と命じています。なぜなら、神は悪に(導くために)誘惑されることのない方であり、ご自分でだれをも誘惑なさることはありません。「誘惑」は神からのものではなく、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびきよせられて、誘惑される」のだとヤコブは説明しています。さらに「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生む」とあります。
  • 神は「悪」(原文は「カコス」κακόςの複数形)に導くために「試み」を与えるわけではありません。創世記22章で、神はアブラハムに愛するひとり子をささげるようにと命じて、アブラハムを試みた話は有名です。このとき神はアブラハムを悪に導くために試みたわけではありませんでした。むしろ、アブラハムの信仰を成熟させるための試練であったのです。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑される」とあるように、誘惑となる元凶は、「欲」「欲望」(「エピスミア」ἐπιθυμία)です。それは神のみこころや思いに沿ったものではなく、自己本位のさまざまな願望を意味します。したがって、「誘惑」とは、自己本位な「欲」に「引かれ」(=「外に引きずり出すこと」)、「おびき寄せられて」(=えさで釣られて)、「誘惑される」(=自己本位なさまざまな願望を満たそうとさせられる)ことです。しかも、そうした「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(15節)と説明しています。このように、「誘惑」についての説明が14~15節に記されて、16節で最終的に「だまされないようにしなさい」と命じて、人間の責任の重要性が強調されています。

4. すべての良い贈り物は上から来る

  • さまざまな試練によって成熟した信仰を育てるすべての良い贈り物は「上から来る」、つまり「父から来る」ことが教えられています。

【新改訳改訂第3版】ヤコブの手紙1章17~18節
17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。
18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

  • 新改訳聖書では「すべての良い贈り物」、すなわち「すべての完全な賜物」は、「上から来る」、「光を造られた父から来る」とあります。この訳文だと、「光」は父によって造られたということになりますが、新共同訳聖書では、この部分を「光の源である御父から来る」と訳しています。聖書の意味する「光」とは、光源としての「光」ではなく、「神のご計画、みこころ、御旨、目的」を意味します。神はその「光」をやみの中から呼び出されて、天と地を創造されたのです。ですから、「光を造られた父」ではなく、「光の源である御父」と理解する方が、誤解せずにすみます。
  • さてヤコブは、私たちの天の父が良い方であり、良いものしか与えることのできない方であることをここで述べようとしています。御父は私たちに「すべての良い贈り物」、「完全な賜物」を与えたいと願っておられるということです。天の父が変わることのない方であるならば、天の父が持っておられる「すべての良い贈り物」、「完全な賜物」を与えたいという願いも不変だということです。このような御父に対する信仰は、神と私たちのかかわりを根底から強固なものとすることができます。
  • 小冊子「いのちのことば」2017.1月号の中に、「豊かな信仰を目ざして」という表題(連載の最終回「教会学校・キャンプで何がー子どもに伝えたい神さまイメージ」)の文書を読みました。執筆者は、現在、牧師であり、インマヌエル聖宣神学院院長をしておられる河村従彦(かわむらよりひこ)師です。河村師は臨床心理士でもあり、神のイメージ理論について研究した博士論文を書いておられます。月刊誌「いのちのことば」の小冊子の中に掲載された文書(24~25頁)の中の提言は、この論文に基づいているようです。聖書から離れますが、河村師が提言しておられることを、以下に引用して紹介したいと思います。

●私たちは、いつ、どのような神さまイメージを取り込むのかを自分で選択できません。しかし、次の世代にバトンを渡すときには、そのあたりのことを意識する必要があります。

●回心を大切にする宗派では、対象が子どもであっても、人間に罪があること、十字架がその解決であることを示し、決心を促すことがあります。これを「あがない主アプローチ」と呼ぶことにします。ところが、神さまイメージ理論からすると、このアプローチには考えなければならない微妙な点が残ります。幼少期に「あがない主」を提示された場合、「あがない主」と「裁判官・王」がドッキングして、否定的なイメージとして取り込まれる可能性があるということです。さらに、これが深刻なのですが、幼少期に否定的な神さまイメージを取り込むと、心理的発達にとって重要な基本的信頼感が低下し、逆に劣等感は高くなる傾向があります。そうすると、アイデンティティーのプロセスにギクシャクが生じます。・・教会学校やキャンプで、・・子どもに罪人であることを教え、決心を促すような方法は、やりようによってはその子の発達に負の影響を与える可能性があることを心に留めておく必要がありそうです。

●少し発想を変えて、「あがない主」より前に「父・牧者」のイメージを提示するほうがよいかもしれません。これを「父・牧者アプローチ」と呼ぶことにします。肯定的な神さまイメージは自己肯定感と基本的信頼感を高め、その後の心理的発達を促します。そして、人生のしかるべき時に、背伸びをしない、ありのままの状態で「あがない主」である神さまに出会うことができれば、人間形成という点でバランスがよいのではないかと思います。

  • 上記の河村師の言う「父・牧者」のイメージは、ヤコブが示す成熟へのアプローチの根幹に横たわっているものと同じではないかと思います。つまり、成熟への道は、御父(親)との基本的信頼こそ鍵だということです。

2017.11.23


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