****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

そしてついにその声が勝った

69. そしてついにその声が勝った

【聖書箇所】 23章13節~25節

はじめに

  • 今回の聖書箇所の中で、特に、23節のことばにフォーカスしたいと思います。

【新改訳改訂第3版】ルカ 23:23
ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。
そしてついにその声が勝った。

  • ピラトがイエスの無実を何度も訴えながらも、彼ら(祭司長たち、指導者たち、民衆)が「イエスを十字架につけよ」という声の方が優勢になって、結局、ビラトが彼らの要求に応じることを決定してしまいます。まるで、だだをこねる子どもの声にとうとう根負けして、子どもの言いなりになってしまうような親のようです。
  • 民衆の要求の声に使われている原語はいくつかあります。
    (1) 18節「声をそろえて叫んだ」の「叫ぶ」は「アナクラゾー」ανακραζωで、「大声を上げる、絶叫する、わめき散らす」
    (2) 21節「叫び続けた」の「エピフォーネオー」έπιφωνεωで、「わめき立てる」ことを意味します。
    (3) 23節「大声で要求した」の「大声」は、「大きな数々の声」ですが、その「大」は「メガス」μέγαςで、「大きな、激しい」を意味する形容詞です。大声を上げて自らの主張や要求を通そうとするときは、ほとんとせその根底にその内容(根拠)がない(薄い)ことが多いものです。大きな声で説教する場合もしばしばそうです。
  • 不当な裁判、理不尽な要求、不条理な決定が渦巻くなかで、イエスは十字架へと向かっていきます。地的現実は、不当、理不尽、不条理が満ちている現実ですが、天的現実は、すべてそのことが決定づけられています。つまり、イエスが地的現実による十字架によって死ぬことが定められているのです。何者もこの天的決定を妨げることができないのです。神の子イエスは、十字架という呪われ者として死ぬことがすでに神によって定められていたからです。この天的現実が、地的現実の中で如実に表わされているのが、今回の聖書箇所と言えます。

1. イエスを無罪としようとするピラトの努力

  • 聖書箇所(23:13~25)には、ピラトの方が彼ら(祭司長たち、指導者たち、民衆)を呼び集めます。その目的は、彼らが訴えているような罪をイエスのうちに何も見出せないということを伝えるためでした。以下のように、ピラトの口から三度、イエスが無実であることしています。

イエスの無実
14
私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。
15
見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。
22
あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。

  • ピラトがイエスの無実を訴え、三度にわたってイエスを「釈放」しようとする努力が見られます(16、20、22節参照)。しかし、反対に民衆の「バラバを釈放しろ」という要求に屈して、心ならずも、ピラトはバラバを釈放し、イエスを彼らに引き渡します。この展開はピラトにとって想定外のことだったと思われます。イエスを祝砲するにあたって、彼はイエスを「懲らしめうえで、釈放する」ということも不条理なことです。罪がないとしながらも、「懲らしめる」ことで民衆わ説得できると考えていたのです。しかしそうした思惑はすべて失敗に終わり、ピラトが考えてもいなかった方向に流れが展開していきます。
  • 天的現実では、イエスは十字架によって死ぬことは決定済みです。それをだれも阻止することができないことを、ルカは私たちに訴えようとしています。もし、イエスが十字架の上に死ぬことがなかっとしたら、つまり、ピラトがイエスの無罪を訴えて釈放することができたとするなら、イエスはメシアではなかったということになってしまうのです。イエスの十字架への道は、だれも阻止することのできない神の事柄なのです。

2. 十字架は闇の支配の力のコンデンス的象徴

  • イエスの「十字架」には、この世におけるあらゆる「不当さ、理不尽さ、不条理さ」の闇が支配がコンデンスされています。人間の多くの悩みの原因は、この闇がその人の中に支配してしまっていることから来ます。私たちは、「なぜ」、「どうして」、「いつまで」という答えのない闇に置かれるときに、悩みの淵に置かれるのです。イエスが十字架の上で叫ばれた「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」ということば、イエスが人として、理不尽な、不条理な、不当な極限的な仕打ちに置かれた時の叫びです。どんな人間も同じ叫びをするはずです。
  • しかし、イエスの十字架の上での叫びが叫びで終わっていません。先の叫びは詩篇22篇の作者が口にしたものですが、その詩篇の後半には、神への信頼によって勝利が告白されています。地的現実だけをみるならば、それは不当で、理不尽で、不条理のように見えますが、天的現実の視点から見るならば、そこにはとても深い意味が隠されているのです。もしその意味を知るなら、地的現実がもたらす闇の支配から解放されるはずです。
  • 旧約聖書のヨブは誰よりも神を恐れる人物でしたが、サタンは神の許容の中でヨブからすべてのものを失わせます。ヨブはなぜ自分がそのような不幸に遭うのか分かりません。ヨブの友人はそれは自分の犯した罪のゆえだと言いますが、ヨブにはそれが納得できません。なぜ、どうして、いつまでこんな状況が続くのかという悩みは、自分だけでなく、ありとあらゆるかかわりに不信と破壊をもたらします。こんな不幸な自分にした者、境遇を赦すことができず、最終的には神に対しても敵対するようになります。
  • 悩み続けるヨブに神は現われて、ヨブには理解できないことが多くあることを教えます。そのことに目が開かれたヨブは、神と戦うことも、また人とも戦う事をやめて、神への信頼を取り戻します。
  • イエスの十字架での戦いは、最後まで御父を信頼することでした。その十字架の死の先にあるのは、この地上のすべての不当な経験、理不尽な経験、不条理な経験のすべてを償ってくださる世界があるのです。そのことが信じられなければ、この世において勝利はないのです。
  • イエスの十字架の宣告には、この世におけるすべての不当な裁判、理不尽な訴え、不条理な現実を真っ向から引き受けることを意味しています。それは闇の世界です。人はその闇の中におられる神を信じることができません。その闇は神への信頼による信仰の戦いの場でもあるのです。イエスはその闇の中に置かれることを通して、神への信頼を通して、闇に勝利する方として定められたメシアなのです。それゆえイエスの無罪を訴えるビラトの努力も無にされなければならなかったのです。イエスは私たちを闇の力から救うために、どうしても十字架にかからなければならなかったのです。

2012.10.11


a:2180 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional