****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

その他Ps115

Ⅴ/A(107~150篇) | テキストPs115 | 原典テキストPs115 | 瞑想Ps115/A | 瞑想Ps115/B |

その他Ps115

  • 「エジプト・ハレル」という詩篇(113~118篇)が、イエスがゲッセマネに向かわれる時に歌われたとするならば、それを歌う意味がいかなるものであったかを瞑想してみたい。もともとこの「エジプト・ハレル」はユダヤの三大祝祭日に歌われたものだと言われてます。イスラエルの民が自分たちの拠って立っている歴史的出来事を回顧するこれらの日において、詩115篇が意図するところは何かを瞑想してみたいと思います。
  • この詩115篇は、虚しい「偶像」を警戒し、主のみを信頼して、その祝福が末広がりに増し加わることを願った詩篇と言えます。「偶像」「信頼する」「主を恐れる」「祝福」ということばが特徴的です。
  • 聖書には「偶像」を意味する言葉が旧約で8種類ほど、新約でも5種類ほどあります。旧約聖書の十戒の第一戒に登場する「偶像を拝んではならない」という「偶像」は、ぺセルで、イザヤ書の特愛用語でもあります(40:19, 20/42:19/44:9, 10, 15,17/45:20/48:5)。詩篇では97:7に使われています。ところで詩115篇に使われている偶像はア―ツァーヴעָצָבです。詩篇ではここ以外に106:36, 38/135:15で使われています。動詞のアーツァヴעָצַב「痛めつける」(56:5)「悲しませる」(78:40)という意味で、偶像に頼るならば、必ず、「痛み」と「悲しみ」をもたらすということになります。ぺセル(偶像)は「自分のために」、自分の都合のいいように、自分の理解の型紙に入るように造られた神を意味します。
  • バビロン捕囚の経験はイスラエルの民が犯した偶像礼拝の罪の結果でした。しかし彼らはバピロンにおいて自分たちのライフスタイルを主にあって一新し、神の律法(トーラー)を中心とする生き方を目指すようになりました。バビロンからの解放後は目に見える偶像を拝むことは一切なくなりました。その虚しさをとことん身につまされたからです。そして、1節にあるように、主にのみ栄光を帰すことが、彼らの祈りの中心となったことは言うまでもありません
  • さて、主を信頼する(バータハבָּטַח)ことは「主を恐れること」であり、主は祝福して(バーラフבָּרַך)くださいます。その結果、子孫が繁栄すること、つまり「ふやされる」ことは当然です。「ふやす」と訳されたヘブル語はヤーサフיָסַףです。その名詞形はヨセフです。母ラケルはヨセフを産んだときに、「もうひとり加えてください」と願って「ヨセフ」と名付けましたが、その祈りは聞かれて、ベミニヤミンが与えられました。祝福は単に個人的な枠にとどまることなく、末広がりに増し加えられていくものです。どこまでも「主」を信頼すること、この課題を一身に背負って、イエス・キリストはゲッセマネの園で御父のみこころを受け入れ、毅然とした態度で十字架への道(ヴィア・ドドローサ)へ向かって行かれました。それとは反対に、祭司長たちや律法学者たちは、自分の作った目に見えない偶像の型紙に神を押し込め、それから逸脱した真のメシアを拒絶し、死へと追いやったのですから。
  • イエス・キリストの最後の一週間のすべての行動には深い意味が隠されています。無駄な動きも行為も言葉も一切ありません。ですから、イエスが弟子たちとともに「賛美の歌を歌われた」ということにも意味があります。それは実際、どこまでも御父を信頼していく決意を自分自身にうながすことであったのだと考えます。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional