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その日、ダビデの倒れた仮庵は建て直される

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10. その日、ダビデの倒れた仮庵は建て直される

【聖書箇所】アモス書9章11~15節

ベレーシート

  • アモス書の最後の箇所です。これまでずっとアモスは諸国に対して、また、北イスラエルに対して神のさばきを預言して来ましたが、最後の最後に回復の預言がなされています。この箇所はやがて到来するメシア王国の祝福がいかなるものかを知る上でとても重要な箇所の一つです。
  • 書かれている内容から、この部分はやがて捕囚と帰還を経験した者たちが、かつての神のさばきと滅びの預言がいかなる意味をもつかを信仰的の理解して「あとがき」として書き加えたものであるとする見解があります。内容的はその通りです。ただしそれは時系列として考えればのことです。ところが、ヘブル的表現の特徴は時系列を無視する傾向があり、時系列よりも必ず起こる出来事を中心にすることがあります。そうした視点から預言者は預言しているとも考えられます。神のご計画においては神の民がさばきで終わってしまうことはなく、必ず、救いがセットとなっているのです。審判なき安易な救いがないように、救いのない審判もないのです。その配分が預言者によって異なるのです。アモスの場合は徹底した神の審判の方がドミナント(支配的、優勢)なのです。


1. 倒れたダビデの仮庵とは何か

  • 「仮庵」と訳されたヘブル語は「スッカー」(סֻכָּה)です。その語彙は「茂み、仮小屋、仮庵、幕屋」などを意味します。いわば、粗末な掘っ建て小屋です。昔のようなダビデ王国の栄光と麗しさが全く失われた状態を「スッカー」という言葉で表しているのです。「ダビデ王国」と言えば、イスラエルの歴史の中で最も輝かしい黄金時代と言われた栄光の王国でした。それはダビデから息子ソロモンに受け継がれました。しかしその王国は、ソロモンの罪のゆえに北イスラエル10部族と南ユダ2部族の二つに分裂をもたらしました。二つに裂かれた「ダビデの王国」は今や倒れようとしており、やがて廃墟と化す運命にある状況をアモスは「倒れたダビデの仮庵」と言っているのです。
  • 「倒れている」と訳されているヘブル語は動詞「ナーファル」(נָפַל)の分詞で、今にも倒れかけている状態、壊滅寸前の状態を意味しています。

2. 昔の日のように、建て直す

【新改訳改訂第3版】アモス書9章11節
その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。

  • 「昔の日のようにこれを建て直す」の「これ」とは「仮庵(幕屋)」のことです。「ダビデの家」と書いていないことが重要です。かつて見られたような王家としての「ダビデの家」の回復ではなく、神のみを王とするイスラエルの回復が目指されています。神の民がただ神にのみ拠り頼んで生きるという、神と人とが共に住むべき「幕屋」(仮庵)を建て直すというのがここで語られている預言と言えます。
  • ここで「昔」と訳された原語は「オーラーム」(עוֹלָם)という「永遠」を表わす語彙です。神によって回復される幕屋を「オーラーム」と同義に考えていたことはまさに預言的です。確かにユダの「ダビデ王国の栄光」が、今や無力にも風前の灯となってしまったのですが、「その日」(終わりの日)には、「昔の日のように」、神と人(イスラエル)の幕屋(=メシア王国)が、神の主権によって回復されることをアモスは預言していると言えます。
  • 11節は、パラレリズムを用いて、主による回復が強調されています。

    ①「(倒れている仮庵を)起こす」・・「クーム」(קוּם)
    ②「(その破れを)繕う」・・・・・・「ガーダル」(גָּדַר)
    ③「(その廃墟を)復興する」・・・・「クーム」(קוּם)
    ④「(これを)建て直す」・・・・・・「バーナー」(בָּנָה)

  • 「クーム」(קוּם)のギリシア語訳は「アニステーミ」(α∨ιστημι)で、復活を表わす動詞です。「ガーダル」(גָּדַר)は破れた城壁を修復することで、「バーナー」(בָּנָה)の「建て直す」と同義です。すべて神がなされることで、私たち人間の努力によってなされることはありません。それが「その日、わたしは、倒れている仮庵を起こす(復活させる)」という主の回復の宣言です。「その日」とは、メシアの再臨によって成就するメシア王国の到来です。

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3. ダビデの仮庵を建て直す目的

  • 12節では、神がダビデの仮庵を建て直される目的を述べています。ただし、流れとしては神の主権によって倒れたダビデの仮庵が回復されることが強調されていることから、この箇所は新改訳よりも新共同訳の方が分かりやすく思います。つまり、主語が「主」であることが明瞭に訳されているからです。

    【新改訳改訂第3版】アモス書 9章12節
    これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。──これをなされる【主】の御告げ──


    【新共同訳】アモス書 9章12節
    こうして、エドムの生き残りの者と/わが名をもって呼ばれるすべての国を/彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。

  • 「エドム人」はイスラエルの人々から憎まれている人々です。彼らはヤコブの兄エサウの子孫であり、いわば同族関係ですが、ヤコブの子孫とは常に敵対関係にありました。幼子イェシュアを殺そうとしたヘロデ王はエドム人の末裔です。かつてエドム人は、エルサレムがバビロンによって破壊された時に「破壊せよ。破壊せよ。その基までも」と罵りました。そのエドム人の仕打ちに対して、バビロンの捕囚となった人は「主よ。エドムの子らを思い出してください。」と祈っているほど憎んでいるのです(詩篇137:7)。しかし「その日」には、人間的には和解できないと思われる者同士が平和を分かち合う存在となることを、「手に入れる」「所有させる」(「ヤーラシュ」יָרַשׁ)というヨシュア記のキーワードであった「占有用語」で表現しています。また、主の名を信じた「異邦人」とも平和を分かち合うそのような時が来ることをアモスは預言しています。
  • 初代教会のエルサレム会議において議長を務めた主の兄弟ヤコブが、アモス書のこの箇所を引用して、異邦人を受け入れるべきことが主のみこころであることを提案したことは有名です。その箇所は以下の通りです。

    【新改訳改訂第3版】使徒の働き 15章15~19節
    15 預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。
    16 『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
    17 それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。
    18 大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』
    19 そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。


4. アモス書におけるメシア王国の祝福

  • 旧約の預言者たちはメシア王国の祝福をさまざまな視点から語っていますが、アモスはメシア王国について、すでに述べたように、イスラエルの民が同族のエドムの残りの民と、また主と契約を結んだ異邦人たちとも和解する(ただしイスラエルの民はその支配的位置にあります)だけでなく、地の呪いが解かれて、予想をはるかに超えるような収穫がもたらされる日が必ず来ることを預言しています。

【新改訳改訂第3版】アモス書9章13~15節
13 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。
14 わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。
15 わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない」とあなたの神、【主】は、仰せられる。

  • 12節の「耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る」とは、収穫があまりにも多いために処理しきれないほどであることを表現しています。チェーン式バイブルでは「前の刈り入れが終わらないうちに、次の種まきのための耕作を始めなければならない状態。通常、収穫は七月、耕作は十月であった」と説明しています。収穫されたぶどうを酒ぶねに入れて踏む時期は八、九月頃ですが、それが耕された地に種を蒔く十一月頃まで続くほどにぶどうの実りが多いのです。また、「山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す」とは、神の祝福があまりにも豊かであることを表現しています。
  • 甘いぶどう酒」はヘブル語で「アーシース」(עָסִיס)です。ヨエル書3章18節(=4:18)にも「その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり」と同じ表現があります。「甘いぶどう酒」とは「良いぶどう酒」のことです。良いぶどう酒ができるためには、単に甘いだけでなく、色つや、水分、酸味、甘味、新鮮度、房のつき具合など、すべて整っていなければならないようです。つまり品質が極上であることを意味します。そんなぶどう酒がしたたるほどに豊かなのです。
  • 14節には「わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。」とあります。ここでの「ぶどう酒」は「ヤイン」(יַיִן)の複数形が使われています。こちらの方が「ぶどう酒」を表わす一般的な語彙です。ノアが飲んで酔いつぶれた時の「ぶどう酒」も「ヤイン」です。
  • 聖書において「ぶどう酒」は、神と人とのかかわりの喜びを象徴するものです。イェシュアが最初にカナの婚礼において水をぶどう酒に変えられました(ヨハネの福音書2:1~11)。その奇蹟は最初の「しるし」としてなされたものですが、この箇所の「良いぶどう酒」をヘブル語に戻すと「ハッヤイン・ハットーヴ」(הַיַּיִן־הַטּוֹב)です。メシア王国における祝福は「甘いぶどう酒がしたたる」世界、「良いぶどう酒」を味わうことのできる世界です。それは神と人との麗しい愛の世界の回復です。しかしそれはまだ「天の御座」の写し的祝福でしかないのです。

最後に―アモス書の瞑想を終えるに当たってー

  • 最後に、イェシュアが過越の祭りの食卓で、パンとぶどう酒で弟子たちに「新しい契約」について説明しました。特に、「ぶどう酒」の箇所に注目してみましょう。

【新改訳改訂第3版】ルカの福音書22章14~18節、20節
14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。

20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

  • 杯に盛られたぶどう酒は私たちのために流されたイェシュアの血の象徴です。しかしそれは同時に「終わりの日」(メシア王国)において味わう喜びの「ぶどう酒」でもあるのです。それは今の私たちが十分に飲み、味わうことはできません。味見程度です。
  • 今日のキリスト教会は過去になされた十字架の死と復活は強調しますが、やがて訪れるメシア王国における喜びの食卓について、明確に強調されているかどうかは疑問です。信仰の土台ばかりに関心が行き過ぎて(もちろんそれはきわめて重要なことなのですが)、これから主がなそうとしておられる将来的展望について、大いなる期待をもって取り上げているようには思えない気がします。聖餐の意義は、すでになされたことを思い起こすだけでなく、そのことを土台としながら(むしろ当然のこととしながら)、より多くの時間をとって私たちに与えられている希望について説明を求める人に対して、だれでにでもいつでも弁明できるように用意することです(Ⅰペテロ3:15)。
  • 今日、多くの教会で聖餐式を執行できるのは教職にある者たちです(そうでない見解を持つ教会もあるかもしれませんが)。いわば、洗礼と聖餐は教職者の特権事項です。その部分において責任を十分に果たさなければならないと信じます。今日、「再臨待望の聖会」が持たれている背景には、聖餐に込められた大切な希望のメッセージが軽んじられていることの何よりの証拠ではないかと思います。この種のテーマを目的とした集会は、本来、教会の中でもたれ、語られるべきものです。
  • 今日のキリスト教会の閉塞感を打ち破るには、「御国の福音」に語られている未来的展望が不可欠です。「神の恵みの福音」はどちらかと言えば過去に起こったキリストの十字架の死と復活の出来事に目を向けさせます。しかし「神の恵みの福音」は、常に「御国の福音」という枠の中で位置づけられ、かつ意味づけられなければなりません。この視点の欠落は「置換神学」「個人的救いの強調」「伝道至上主義」によってもたらされた弊害によるものです。
  • 「御国の福音」は「神の恵みの福音」のように自分の体験をもってあかしすることは出来ません。ただ神のご計画のヴィジョンを聖書によってその確かさを論証するだけです。しかし「御国の福音」のすばらしさは、その福音を聞く者以上に、その福音を語る者に対して不思議と特別な力を与えるということです。その力とは「喜ばしい将来のおとずれを語ろうとする力」です。その力が聖霊によってのみ与えられるのは、聖霊の働きが神を知るための「知恵と啓示の御霊」であるからです(エペソ1:17)。聖霊の賜物としての働きは多くありますが、その働きのリストのトップに来ているのが「知恵のことば」であり、「知識のことば」です(Ⅰコリント12:8)。メシア王国においては、「人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。」とあります。なぜなら、だれもが聖霊によって「主を知る」ようになるからです(エレミヤ31:34)。

2015.2.27


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