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どこから落ちたかを思い出し、悔い改めよ

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24. どこから落ちたかを思い出し、悔い改めよ

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【聖書箇所】 2章5節

【新改訳改訂第3版】
それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

【新共同訳】
だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。


ベレーシート

  • 5節には、三つの命令形があります。小畑進師は「三発の弾丸が撃ち込まれる」と記しています。主の熱い燃えるような思いが込められた命令のことばです。
    (1) 「思い出しなさい」(現在形)
    (2) 「悔い改めなさい」(アオリスト形)
    (3) 「行いなさい」(アオリスト形)

1. 思い出しなさい

  • 七つの教会の筆頭に上げられたエペソの教会は、判断力・実行力・忍耐力においては優等生的教会でしたが、今や、「あなたは初めの愛から離れてしまった」という致命的な欠陥が指摘されました。そのため、どこから落ちたのか、堕落したのかを「思い出しなさい」と主は命じておられます。この命令は現在時制ですから、「思い出し続けなさい」という意味です。
  • 宗教学的な視点からすれば、どんなにいのちに満ちた教会と言えども、必ずや、そのいのちは枯渇する運命にあります。正統的信仰、正統的な教えを堅持するための戦いをし、教会の制度が整えられれば整えられるほど、霊的ないのちは枯渇していくことを歴史が教えています。エペソの教会も例外ではありません。成長すればするほど、高く育てば育つほど、その落下の幅は大きいと言えます。どこから下降線を辿ったのかを冷静に考えることは、とても重要なことです。問題はそう簡単なことではありません。
  • 「思い出し続ける」ということは、本質的な「いのち」が何であるか、その「いのち」に対する渇きがあるかどうかを自らのうちにあるのかどうかも問い続けることになるからです。「いのち」に対する渇望がなければ、次の段階に進むことは困難です。現状に甘んじ、現状維持だけを考えているならば、主の言われていることを正しく理解していないからです。「思い出し続ける」とは、自らに対して、「問い続ける」姿勢があるかどうかが問われているのだと思います。いのちが枯渇していく原因を正しく認識すること、そしてそれを謙虚に受け留めることを意味しています。

2. 悔い改めなさい

  • いのちが枯渇していった原因を正しく認識することと、主に立ち返り、「悔い改め」ることとは別の事です。ですから、主イエスはここでアオリスト時制で「悔い改めなさい」と命じています。つまり、それはきっぱりとした決意、思い切った決意をもって、現状から決別することを意味します。主にあって生き方や方針、考え方の方向転換を含んでいます。主とのかかわりにおいて、優先すべきことを優先させる決心があるかどうかが問われます。これまでの流れを英断を持って断ち切る勇気が求められます。
  • それは、マルタの生き方からマリヤの生き方への転換を迫られることかもしれません。聖書のそれまでの理解が全く変えられることかもしれません。ともかく、それまでの習慣的な考え方や行動がひっくり返ることを恐れない心が求められます。ですから、いのちへの渇望(渇き)がなければ、立ち返ることはではないのです。

3. 初めの行いをしなさい

  • 前者の「悔い改め」があって、初めて、これまでとは異なった「行い」がはじまります。ここの命令もアオリストです。新しい心をもって、恐れることのないパイオニア的精神による断乎たる実践です。それは決して華々しいものではなく、むしろ目立たない実践であり、しかも着実に、地道な、継続的な実践を積み上げていく営みとなるはずです。人の目線や人からの評価ではなく、常に、主の目線に合わせて生きることを選び取り、それを続けていく歩みが求められます。

4. 警告

  • 主が非難されたことに対して、私たちが真摯に受け留めなかった場合には、「わたしは、あなたのところに行って。あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう」と警告されています。これはどういう意味の警告なのだろうか。ひとつの見方は、エペソはドミチアヌス皇帝の時代に皇帝崇拝を行なっていた中心地であり、また小アジアの母教会でもあったことから、その中心的な地位から落とされるというものです。
  • しかしここでの見方は、どんなに立派な建物としての教会があったとしても、組織や制度がしつかりとした教会があったとしても、どんなに正統的な信仰の立場が表明されていたとしても、いのちが枯渇したままの教会は、やがて低落することが警告されていると理解したいと思います。それゆえ、エペソの教会に対する主の非難は、いつの時代の教会も、心に留める必要があるからです。


2013.12.27


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