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どのように、あなたは私たちを愛されたのですか

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1. どのように、あなたが私たちを愛されたのですか

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【聖書箇所】 1章1~5節

ベレーシート

  • マラキ書の瞑想の第一回目は、「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」というイスラエルの民の声に耳を傾けたいと思います。「どのように」という民から神への問いかけは、マラキ書の重要な鍵語です。その問いは、1章2節、6節、7節、2章17節、3章8節に繰り返されています。ちなみに、「どのように」と訳された「バンマー」(בַּמָּה)は、前置詞「バ」(בּ)と疑問代名詞の「マー」(מָה)が結びついている語彙です。
  • 「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」という問いの背景には、単なる鈍感さではなく、神の愛を感じられないという現実から来る思いが存在しているのだと考えます。ユダヤ人にとってこの問いは「主の日」まで、絶えることのない「問い」ではないかと思います。ユダヤ人は神の民でありながらも、バビロン捕囚以降はかつての王制がなくなり、名目は神政国家ではあってもペルシアやギリシアの支配における属国でした。また、ローマ時代以降には世界各地に離散を余儀なくされ、その後のキリスト教の歴史において教会から多くの迫害を受け、さらに、本来キリスト教会のルーツであるユダヤ的伝統までもが断ち切られてしまいました。1948年5月14日に、イスラエルは再び国家として独立しましたが、建国直前にはナチスのヒットラーによるホロコーストを経験し、建国後も周辺諸国との戦いが絶えず続いています。「主の日」によるメシア王国の実現までは、「主が私たちを愛しておられること」を実感できない日々が続くことを余儀なくされています。それゆえ、「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」という問いは、彼らにとって今日的な問いなのだと思います。
  • この問いを、同じく主にある者たち(異邦人)もすることがあります。主から「わたしはあなたを愛している」と言われても、現実の困窮した状況に置かれている者にとっては、そのようには感じられないからです。もし主に愛されているというアイデンティティが確立されていなければ、すべての歩みが歪曲されてしまうのです。同様に、ユダの民もそのような歪曲が始まっていたのです。

1. 「愛する」という「アーハブ」の意味

  • 1944年にノーマン・H・スネイスは「旧約聖書の特質」という本を著しましたが、日本語訳はその20年後の1964年に出版されています。その書の中で最も強調されているのは、「神の約束に対する真実な契約の愛」を表わすヘブル語の「ヘセド」(חֶסֶד)と、「神の選びの愛」を意味する「アーハヴ」(אָהַב)とは区別すべきだということです。この動詞「アーハヴ」(אָהַב)の主語は神にも人にも用いられますが、主体が人である場合には「偏愛的な愛」を意味します。その良い例が、創世記25章28節です。

【新改訳改訂第3版】創世記25章28節
イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた


●父イサクはエサウを愛し、母リべカはヤコブを愛していたとあります。いずれも「アーハブ」(אָהַב)という動詞が使われていますが、その愛の性格は偏愛的、寵愛的です。父がエサウを愛したのは獲物の肉が好みだったからですが、母リベカの偏愛の理由は記されていません。おそらく、二人の子がまだ胎内にいる時に、兄が弟に仕えるという啓示を神から受けたことが理由かもしれません。いずれにしても、この「アーハヴ」は主体の意志とその好みが先立っているのです。客観的な立場から見るならば、不公平に見える愛なのです。

  • この「アーハヴ」(אָהַב)の主語が神になるとき、それは神の主権的な選びの意味を持ちます。神の一方的な選びの愛、だれも文句の言えない愛、神のお気に入りとしての愛(「アハヴァー」אֲהַבָה)です。その愛を人間の視点から見るならば「無条件の愛」ということになります。すべてのかかわりの本源の主体は選ぶ側にあるのです。それに対して「契約の愛」を意味する「ヘセド」(חֶסֶד)は条件的であり、しかも合意に基づく愛です。したがって、その一方が約束を破るならばペナルティが科せられる愛なのです。双方に、相手に対する誠実な、確かな、確固とした、ゆるぎない愛のかかわりが求められます。客観的な立場から見るならば、「ヘセド」にはかかわりの公平さと忠実さが存在します。「ヘセド」が人と人との間に用いられると、ダビデとヨナタンの関係になり、双方の忠誠を表わすものとなります。
  • マラキ書に戻ります。1章2節には、三度、神がヤコブを「愛した」という意味で語られています。


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2. 「わたしはエサウを憎んだ」

  • 「わたしはヤコブを愛した」というフレーズの対立定式として、3節では「わたしはエサウを憎む」という表現があります。「憎む」(憎んだ)のヘブル語は「サーネー」(שָׂנֵא)です。「寵愛する」に対して「冷遇する」という意味で、神の主権的な意志です。エサウは、オバデヤ書で瞑想したように、歴史におけるすべての反ユダヤ主義勢力の象徴的な存在なのです。「エドム」はそのエサウの系列にある者たちです。やがてその系列の中からイドマヤ出身のヘロデ家が登場してきます。彼はユダヤの王として生まれたイェシュアを殺そうとした最初の人物です。それゆえ、3~4節では彼らを「悪の国」、「主のとこしえにのろう民」と記しています。たとえ、彼らが廃墟を建て直したとしても、主はそれを打ちこわされるとあります。そのようにして、ヤコブに対する主の愛が示されるというのです。
  • ちなみに、ヤコブとエサウのネーム・セオロジー(名前神学)として、彼らの名前のそれぞれの文字の意味を考えてみましょう。

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①最初の文字「ヨッド」(י)は、神の「手」(「ヤード」יָד)を表わします。それは神の主権的な力やわざを意味します。
②次の文字「アイン」(ע)は、神の「目」(「アイン」עַיִן)を意味します。それは神の視点(ヴィジョン)を意味します。
③第三番目の文字「コーフ」(ק)は、神のご計画の実現を待ち望む希望を意味します。
④最後の文字「ベート」(בּ)は、御子を表わす「ベーン」(בֵּן)とも、あるいは神の家を表わす「ベート」(בֵּית)とも言えます。いずれにしても、神はご自身の御子をとおして神の家を建てるということが神のご計画なのです。
①~④の文字を総合すると「ヤコブ」という名は、神がその主権と視点(ヴィジョン)をもって、ご自身の家を建て上げる希望の存在という意味になります。事実、救い主イェシュアはこのヤコブの子孫なのです。ヤコブは兄エサウのかかとをつかんで母の胎から出て来たような、狡猾な性格をもった人でした。しかし彼は、神の目には、神ご自身のご計画を実現する希望の存在として愛されたのです。


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①最初の文字は「アイン」(ע)で、これはヤコブにもあります。「目」を意味します。
②次の文字「スィーン」(שׂ)は、神の領域ではなく、人間的な領域をどこまでも求めることを意味します。この文字が中央に置かれていることが問題です。
③最後の文字は「ヴァヴ」(ו)で、本来は、天からの一筋の光を意味しますが、それを人間的な視点にしてしまうと、自分の力で未来を自分のものとしようとする意味となります。


  • したがって、なぜエサウが主に「憎まれる」のか容易に理解することができます。

2015.7.8


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