****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

なぜ、詩篇の瞑想なのか(続)

なぜ、詩篇の瞑想をするのか (続)


  • 「なぜ、詩篇の瞑想をするのか」―その問いは、私にとっていつも大きな問いです。
    それは相撲で言うところの「四股を踏む」ことにたとえられます。なぜ、相撲の力士たちが、しかも幕下の力士から横綱に至るまで、みな同じく四股を踏むのか、単なる準備運動だというだけでは済まない奥の深いものがあるのだそうです。四股を踏むのは相撲の基本中の基本であるといわれながら、きちんと四股を踏める人は少ないそうです。
  • きちんとした力士が一日にどのくらい四股を踏んでいるかというと、200~300回だと言われます。これを日々繰り返すことが基本なのです。単調な行為の繰り返しーそこには口では説明しきれない深さと相撲の基本があると言います。
  • 詩篇を瞑想することは、神とのかかわりにおいて、人とのかかわりにおいて、自分とのかかわりにおいて、そして敵とのかかわりにおいて、力士が四股を踏むような鍛練と似ています。「幸いなことよ。まことに、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむその人。」(詩篇1:3)とあります。「昼も夜もその教えを口ずさむ」-これが霊的な意味で、四股を踏むことです。「口ずさむ」と訳された原語はハーガーהָגָה(hagah)で、詩篇における瞑想用語の一つです。この場合の瞑想とは、単なる頭だけの問題ではなく、心も体も、生活すべてを含めたライフスタイルを含んでいます。詩篇はまさに神の民が生んだ瞑想の産物なのです。
  • イスラエルの民はその歴史において、神の教えであるトーラーを中心としたライフスタイルを持っていませんでした。それゆえに、イスラエルは神の民としての在り方から脱線し、バビロン捕囚という経験を余儀なくされました。しかしその苦しみを通して、彼らははじめて神の教えを日々瞑想することを神によって修練させられ、身につけることができました。
  • 信仰の世界においても、瞑想は神の恩寵の世界を引き出していく修練だと信じます。地道な瞑想の修練を通して、次第に、神の民は「主の教えを喜びと」感じようになり、「幾千の金銀にまさるもの」、「密よりも甘く」感じられ、ついには「あなたのみことばは私を生かします」と告白できる経験を豊かに味わえるようになっていったのです。多くの霊想書を書いたアンドリュー・マーレーという人ははっきりと述べています。「教会が衰退するのは、神を瞑想することをおろそかにしたからである。」と。
  • 相撲の力士たちが例外なくみな四股を踏むことが基本中の基本として伝えられ実践されているように、詩篇を瞑想することは、神を信じる者にとって、いつの時代においても基本といえるのではないかと思います。キリスト教の歴史の中で、ベネディクトをはじめとする修道院の系譜において、あるいはキリスト教神学の父アウグスティヌスや宗教改革者のルターやカルヴィンたち、および大衆伝道者のスポルジョンらも、いかに詩篇の瞑想を大切にしてきたかを考えるとき、今日のキリスト者たちも、再び「詩篇の瞑想」の伝統を回復し、実践する必要があるのではないかと思います。
  • 詩篇の世界には旧約と新約を通して流れる神の救いの計画の全貌があり、神と人、あるいは敵とのかかわりの妙のすべてがあります。そこには、いつの時代の人々においても、汲みつくすことのできない霊的な富が隠されています。それゆえ、霊性の回復への道は地道な取り組みこそが鍵だと信じます。早道はないようです。


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