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ねたみによる引き渡し


119. ねたみによる引き渡し

【聖書箇所】マタイの福音書27章11~26節

ベレーシート

●今回の聖書箇所は、ローマ総督ピラトの前に引き渡されたイェシュアが死刑に確定されてしまうという場面です。その箇所を読んでみることにしましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書27章11~26節
11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」
12 しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。
13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」
14 それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
15 ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。
16 そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。
17 それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
19 ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
20 しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。
21 総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」 彼らはみな言った。「十字架につけろ。」
23 ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」
しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
24 ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で 手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」
25 すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」
26 そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。

●ここには、ローマの総督ピラトが祭司長たちや長老たちが訴えているイェシュアに無罪を確信しつつも、十字架につけるために引き渡した経緯が記されています。無罪と知りながら死刑にするために引き渡すということは、犯罪の一つです。しかしなぜそうなってしまったのかを考えるならば、それは法や論理を越えた要因、すなわち、ユダヤの宗教指導者たちによる「ねたみ」(18節)です。このねたみこそがピラトを脅かしてその権限を拘束し、また群衆を巻き込んでイェシュアを十字架へと追いやった動因だったと言えます。今回はそこにフォーカスしたいと思います。

1. 「ねたみ」という力

●「ねたみ」という語彙は、英語では「ジェラシイ」(jealousy)、ギリシア語では「フソノス」(φθόνος)、そしてヘブル語では「キヌアー」(קִנְאָה)です。「キヌアー」の語源は「カーナー」(קָנָא)です。特にヘブル語の「キヌアー」は「熱意、熱心」をも意味し、やはり人にも神にも使われます。サタンにもこの感情があります。

●「ねたみ」という感情は人間の場合、個人レベルだけでなく、イェシュアを取り囲む当時の宗教指導者に見るように社会的レベルでも起こります。集団的な衝動にひとたび巻き込まれることによって、「十字架につけろ」「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」(「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」)というような付和雷同の言動となってしまうのです。

●ねたみの感情はさまざまなかたちによって表されます。あるときは「反抗」という形で、あるときは「しかと、無視、無関心」という形で、最悪なのは「殺人」という形で表されます。ねたみの構造は三角関係が存在しなければ起こり得ません。聖書においての三角関係の始まりは、神と御使いと人間の関係です。神によって最初に造られた被造物は御使いたちですが、その御使いたちの頭は「全き者の典型であり、知恵に満ち、美の極み」(エゼキエル28:12)であり、「暁の子、明けの明星」(イザヤ14:12)と呼ばれた存在で「ルシファー」とも呼ばれています。それがなぜ「私は天にのぼろう」という野心と神への反抗心を持ったのでしょうか。それは彼が高慢だったからとされていますが、私は彼が「神がご自分に似せた、神のかたちに人間を造ろうとする神の計画を知ったから」ではないかと思っています。つまり神への反抗は、「栄光と誉れの冠を与えられた人間」とその人間を愛そうとする神を知った時に生じたものであったと考えられます。それゆえ彼は天から落とされてサタンとなり、蛇に化身して、神に愛された人間をだまして不従順の罪に陥れたのです。この出来事は神とサタンと人間という三者の関係がなければ起こり得なかったことです。それ以来、私たちは否応なく「妬みの構造」の中に置かれることになってしまったのです。道徳倫理を学ぶことによっては、人が「ねたみの構造の力学」から逃れることは絶対に不可能なのです。聖書には、サタンが人に対するねたみの例(例えばアダムやヨブなど)、人が人に対するねたみの例(カインがアベルを、兄たちがヨセフを、ミリアムがモーセを、サウロがダビデを、・・)など、枚挙にいとまがないほどです。

●この世で最も知恵者とされたソロモンでさえ、次のように述べています。

【新改訳2017】伝道者の書 4章4節
私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。

●「私は・・をねたんでいます」とは言わなくても、「悔しい」とか「羨ましい」いうことばには、ねたましく思う心があるのではないでしょうか。私たちは人と自分を比較しながら生きるとき、そこには「ねたみ」が起こりやすいのです。そのねたみが自分の成功の原動力となっていることがあるのですが、その成功は簡単に上書きされてしまいます。それゆえ知者ソロモンは「これもまた空しく、風を追うようなものだ」と言っているのです。

●神を信じていようが、信じていまいが、私たち人間はだれ一人として「ねたみの構造」から免れることはできません。それも神のみこころによるものなのです。この「ねたみの構造」から解放されるためには、天と地が新しくされなければならないのです(黙示録21~22章)。ちなみに、神ご自身の「三一」の世界には、唯一「ねたみの構造」が存在しませんが、人との関係においてはねたみの感情が発動されるのです。

2. 「ねたみ」と「熱愛」は同じ語彙

●「ねたみ」という語彙「キヌアー」(קִנְאָה)の初出箇所は以下の箇所です。

①【新改訳2017】出エジプト記 20章5節
それら(=偶像)を拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

●この言葉が示すように、イスラエルの民が荒野のシナイ山の麓で「金の子牛」の像を作ってそれを拝んだとき、彼らのうちの三千人が死ぬということが起こりました。そのときに神はこう言われたのです。

②【新改訳2017】出エジプト記 34章14節
あなたは、ほかの神を拝んではならない。【主】は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。

●神が「ねたみの神」であるということを聞いてどう思われるでしょうか。人が他の神に拝む時、神はねたまれるのです。それは神の愛がとても真剣だからです。ですから、「ねたみ」と訳されたヘブル語の「キヌアー」(קִנְאָה)は「熱愛、熱心」という意味を持っているのです。動詞の「カーナー」(קָנָא)も「ねたむ」と同時に「熱中する・熱愛する」いう意味をもっています。

●一つの語彙が両義性を有するのはヘブル語の特性の一つです。たとえば、

(1) 動詞「カーラー」(כָּלָה)がそうです。この語彙は「完成する、成就する、達成する、~を成し遂げる」という面と、「滅ぼし尽くす、絶ち滅ぼす」という意味を合わせ持っています。その名詞の「カッラー」(כַּלָּה)も同様に「花嫁、切望、完成」という面と、「滅亡」という面を持っているのです。それは神がご計画を完成する時には、神に反抗する勢力は滅亡するからです。

(2) 名詞に「イズレエル」(יִזְרְעֶאל)があります。「イズレエル」の語幹は動詞「ザーラ」(זָרַע)で、本来「種を蒔く」という意味ですが、「散らされる」という面と「実を結ぶ」という面があります。これも真逆の意味です。前者はさばきとしての離散を意味し、後者は神のあわれみによる回復を意味しています。ホセア書1章4~5節の「イズレエル」は前者の意味で使われ、11節の「イズレエル」は後者の意味で使われています。

(3) 名詞の「エーシュ」(אֵשׁ)も両義性をもった語彙です。レビ記10章1~2節の出来事は、その前に記されている9章23~24節と対照的です。「主の御前から出て来た火」(9:23~24)は主の栄光として現わされたにもかかわらず、もう一方(10:1~2)では神のさばきとして現わされました。「栄光」と「さばき」は、「火」(「エーシュ」אֵשׁ)ということばに表わされた神の聖の両義性です。

●このように、「キヌアー」は「ねたみ」と「熱愛」は両義性をもった語彙なのです。聖書の預言の中に「万軍の主の熱心」というフレーズがあるのを読んだり、聞いたりしたことがあるでしょうか。これはイザヤ書独自の語彙で、他の預言書には一切使われていません。

①【新改訳2017】イザヤ書 9章7節
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

②【新改訳2017】イザヤ書 37章32節
エルサレムから残りの者が、シオンの山から、逃れの者が出て来るからである。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。』

●「熱心」(「あなたの熱心」)ということばも同様、イザヤ書にあります。

①【新改訳2017】イザヤ書 26章11節
【主】よ。あなたの御手が上げられても、彼らは見ようとしません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を見て、恥じますように。まことに火が、あなたに逆らう者をなめ尽くしますように。

②【新改訳2017】イザヤ書 63章15節
どうか、天から見下ろし、ご覧ください。あなたの聖なる輝かしい御住まいから。あなたの熱心と力あるわざは、どこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか。

●このように「ねたむ」という意味と「熱意」という意味を合わせ持っている語彙が「キヌアー」ですが、それを合わせた訳語がないために、文脈によってどちらかに訳されるのです。しかし以下の引用は、神の「キヌアー」(קִנְאָה)が神の「ねたみ」と「熱意・熱心」が入り混じっている箇所です。

①【新改訳2017】ゼカリヤ書1章14節
私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した(「キヌアー・ゲドーラー」קִנְאָה גְּדוֹלָה)。

②【新改訳2017】ゼカリヤ書8章2節
万軍の【主】はこう言われる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。」
(※「ねたむほど激しく愛し」と「激しい憤りをもってねたむ」はパラレリズムで同義)

③【新改訳2017】雅歌8章6~7節
6 封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。
7 大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを(=その愛を)押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。 (※「大水」「奔流」は、神の敵を表す象徴的表現です)

●ヘブル語の学びはこれくらいにして、イェシュアの十字架の死はねたみによるものであったということ、そしてそのことが神のご計画における神の熱意の現われであったとことを見ていきたいと思います。

3. 嫉みによるイェシュアに対する十字架の死は、神の熱意の現われ

●「ねたみ」という感情によって引き起こされるさまざま状況が神の計画の中に取り込まれながら、神の歴史の中で、神の愛を啓示するものへと展開されて行きます。たとえば、アダムとエバに与えられたカインとアベルという双子に起った出来事は、これから展開されていく神の歴史の縮図そのものです。これはアベルのささげ物だけが神に受け入れられたことによってカインがアベルをねたんで殺してしまったという話ですが、これはユダヤの宗教指導者たちが神の御子イェシュアを殺してしまうという「型」です。ここには「ねたみ」という語彙はなくても、その事件の動因が「ねたみ」にあることはだれでも類推できることです。「カインとアベル」だけでなく、「ねたみ」はイスラエルの歴史の中で神の「愛」を啓示する要因ともなっているのです。ここではイサクの場合とヤコブの息子であるヨセフの場合を見てみましょう。

(1) イサクに対するねたみ

【新改訳2017】創世記 26章14節
彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。

●飢饉の時にイサクがペリシテ人の王の支配する地に滞在しました。ここでイサクはアブラハムに対して語られた約束(子孫繁栄、土地の賦与、万民祝福)を啓示されます。と同時に、飢饉にもかかわらず、イサクがこの地に種を蒔くと、百倍の収穫が与えられます。それゆえイサクは富み、ますます栄えて、非常に豊かになります。その結果、イサクはペリシテ人にねたまれ、憎まれるのです。彼らはねたみによってイサクの土地のすべての井戸をふさぐという行動に出ますが、イサクは一切この行動に対して逆らうことなく、そこを去って別のところに天幕を張り、そして湧き水の井戸を掘りあてます。ところが、その地の羊飼いたちと争いが起こり、再びそこを去って井戸を掘ります。そしてまた祝福されて行くのです。まさにこれはイェシュアが山上の説教で語られたように、「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」(マタイ5:5)の良き「型」です。イサクが神に祝福されていることを見たアビメレクは、イサクに対して「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです」と言って自分たちがしたことで害を与えられないようにと互いに平和の契約を結んだのです。つまり、神に祝福された者をねたむことなく、平和の契約を結んだのです。このことはイスラエルを通してすべての国民が祝福されるという神の計画を素直に受け入れることを意味しています。逆にイスラエルの選びにねたみをもつ反ユダヤ主義は神にのろわれることになります。

(2) ヤコブの息子ヨセフに対する兄たちのねたみ

●ヨセフは他の兄たちからねたまれ、憎まれていました。それはヨセフが父から溺愛されていたからです。

【新改訳2017】創世記37章3~4節
3 イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。ヨセフが年寄り子だったからである。それで彼はヨセフに、あや織りの長服を作ってやっていた。
4 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。

●ヨセフの長服だけでなく、ヨセフが夢を父や兄たちに話したことでも憎しみは増大し、殺意が生まれるようになります。ヨセフは二つの夢を見ます。それがどんな夢なのかが以下に記されています。

【新改訳2017】創世記37章5~11節
5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」
彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった
9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。 彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。

●ヨセフは夢見る人です。彼が17歳の時に見た二つの夢が実現されるのは、それから少なくとも20年後以降です。ヨセフは30歳でエジプトの宰相となり、それから七年の豊作と七年の凶作が来ます。ヨセフがかつて見た夢とは、凶作になっていろいろな国がエジプトに食糧を求めて来る時の夢ですから、その夢が実現されるのはヨセフが37歳以降です。ヨセフは夢(神のヴィジョン)を語ることによって、自らを困難の中に導くことになりました。もし夢について語らなかったとしたら、ヨセフは困難に陥ることはありませんでした。ヨセフの兄たちが彼を憎み、奴隷として売ったのは彼が夢について語ったからでした。

ヨセフはイェシュアの「型」です。自分に与えられた夢(啓示)を語ったことで、兄たちからねたまれ、その結果、エジプトに売られてしまいました。それはヨセフが17歳の時のことです。ヨセフはエジプトで濡れ衣を着せられて牢に入れられます(18歳)。長いこと牢で過ごすことになりましたが、10年後にエジプトの高官二人が牢に入れられます。そこで見た彼らの夢をヨセフが解き明かし、それが実現したことで、やがてヨセフは30歳でエジプトの宰相の座に着くようになります。そしてそれから七年以降に彼が17歳の時に見た夢が実現されるのです。ヨセフが経験した不条理な苦難は神が定めたことでした。ヨセフが兄たちに語ったことばがあります。

【新改訳2017】創世記50章20~21節
20 「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。
21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」このように、ヨセフは彼らを安心させ、優しく語りかけた。

●創世記50章は最後の章です。ヨセフ物語の終結の章であり、次の出エジプト記へとつながる重要な連結部分となっています。ヨセフ物語の終結は、ヨセフの兄たちがかつて「夢見る者がやって来る。今こそ・・・あれの夢がどうなるかを見ようではないか」(37:20)と言ったことばに対して、神がそれにどう答えたかをヨセフ自身が答えています。それは、「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」(50:20)とあります。その「良いことのための計らい」とは神のご計画の遂行を述べたものですが、それはいまだ通過点でしかありません。かつて神はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民とする」と約束されました(創世記12:2)。「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる」(13:16)とも言われました。そして彼らに「カナンの地を与える」とも約束されました。ヨセフの物語はそのご計画の中の通過点にすぎません。単に一つの家族の物語、単なる家族の和解の話ではないのです。アブラハム、イサク、ヤコブへと受け継がれてきた神の約束がどのようにして実現されていくかの通過点としての位置づけをもっているのです。家族がひとつの民族として形成されていくその要の部分にヨセフが用いられたのです。すべては神からはじまり、神によって、神へと至っていきます。

ベアハリート

●イェシュアの苦難としての十字架という死の出来事も、神のご計画の究極的な目的における通過点に過ぎません。前も触れたように、受肉された神の御子イェシュアの地上での歩みのすべては、「最初のアダムを終結させ」、神の確約である「三日目に」よみがえらされて、天に昇り、神の右に着座されたことによって、「いのちを与える御霊となられる」ためでした。最後のアダムである御子イェシュアはこの贖いの出来事を通して、私たちを新しく創造されるのです。この出来事の中に「ねたみ」があり、神の「熱意」があります。イェシュアの無罪を主張するピラトの説得にもかかわらず、宗教指導者たちのねたみと脅しによってイェシュアの死刑は確定されました。また彼らによって扇動された群衆の「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」ということばも、文字通りに実現します。ところが万軍の主の熱心は、彼らのことばをはるかに越えて、やがて主の日に聖霊によって再度神への立ち返りを促します。それゆえ「神の熱意・熱心」としての「キヌアー」は、イスラエルの残りの民に「主の御名によって来られる方に祝福あれ」(バールーフ・ハッバー・ベシェーム・アドナイ)と呼ばせるのです。

画像の説明

●このことばは教会である私たちが発するものではありません。イスラエルの残りの民によってそれが発せられるそのとき、復活のイェシュアは再臨されます。携挙されて「御霊のからだ」に変えられた聖徒たち(教会)とともに、王としてイェシュアはこの地上に戻って来られます。このときこそ、God is good !「神は良いことのための計らいしかなさらない」ということが証しされる時です。

●教会の霊的祝福はすべてヘブル的ルーツにあります。私たちクリスチャンは「アブラハム、イサク、ヤコブの神」に接ぎ木されたに過ぎません。イスラエルは聖書全体を支えている基軸です。その基軸によって聖書を解釈して行くことは、「あなたを祝福する者を、わたしは祝福する」という神の祝福の覆いの中にあることを意味します。もし基軸を私たち人間のニーズに置くならば、神のご計画の全体が見えなくなります。創世記から黙示録に至るまで一貫してイスラエルに基軸を置くならば、神のご計画の全体像が明確に浮かび上がってくるのです。そこに私たちは常に目覚めているべきではないでしょうか。

2021.12.12
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