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ほむべきかな、神(2)

第3日目 ほむべきかな、神 (2)

〔聖書箇所〕エペソ人への手紙 1章3節

1章3節
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、
天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

Εὐλογητὸς ὁ θεὸς καὶ πατὴρ τοῦ κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ, ὁ εὐλογήσας ἡμᾶς ἐν πάσῃ εὐλογίᾳ πνευματικῇ ἐν τοῖς ἐπουρανίοις ἐν Χριστῷ,


はじめに

  • 引き続き、この1章3節のみことばに注目したいと思います。使徒パウロはこの手紙において、挨拶からはじまり、そのあとに最初にしていることは、感謝やお願いではなく、神への賛美でした。前回は、礼拝における賛美の優位性ということを取り上げました。
  • 私たちが神を礼拝するために教会に集まるとき、最初にすることは、お願いではなく、訴えでもなく、まずは神を賛美することです。しかし、私たちの口は賛美ではなく、願いとか感謝が多いのです。感謝は「・・・してくださってありがとうございます」ということで、願いは「・・・してください。」「私を祝福してください」ということです。しかし賛美は、「あなたは・・の方です」「あなたは・・・にふさわしい方です」、「ほめたたえられるべきです。」、「賛美されるべき方です。」、「あなたをほめたたえます」という表現です。そしてその後に、神を賛美する理由がつけられます。その偉大さのゆえに、その愛と恵みのゆえに、その真実さのゆえに、というふうにです。
    ですから、「賛美」は、神を知ることと深く関係しています。
  • 二つのポイントでお話しします。

    ①神を賛美することは、私たちの想定外の出来事を引き起こすということ。
    ②自分が何者であるかを、外見や感情で判断することなく、キリストにあるものとして認識することを通して、私たちは成熟していくということ。


1. 賛美は勝利に先立つ

  • エペソ人への手紙の前半といえる1章~3章の内容は、パウロの神への壮大な賛美がー徹頭徹尾―最初から最後まで終始ー綴られているといっても過言ではありません。まず、その全体像を見てみましょう。

〔構 造〕
A. 神への賛美 (1:3~14)
(1)「ほむべきかな、・・・父なる神。」

  • 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」 (1:3)

(2)父なる神が私たちを祝福して下さる目的

  • 「恵みの栄光がほめたたえられるため」(1:6)
  • 「神の栄光をほめたたえる者となるため」(1:12)
  • 「神の栄光がほめたたえられるため」(1:14)

B. 感謝ととりなしの祈り <1> (1:15~19)
    ※特に、とりなしの祈りの内容は後の3章14~19節の祈りとともに圧巻です。


C. 神への賛美 (1:20~3:13)


D. とりなしの祈り <2> (3:14~19)


E. 神への賛美(頌栄) (3:20~21)

  • 「・・私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、・・栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」
  • 特に、3章20節のリビングバイブル訳は、私のお気に入りです。
    「どうか、私たちのなしうる限りの祈り、願い、考え、望みを無限に超えて、つまり、私たちが大胆に願い求め、夢見ることもはるかに及ばないすばらしいことを、その偉大な力でなされる神様に、栄光がありますように。 」
  • パウロの賛美の特徴は、きわめて終末論的と言えます。つまり、すべての事柄を神はなされた(あるいは、なされる)大いなるみわざの目的と完成であるという視点から、神を賛美しているということです。このことはとても重要です。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とパウロはローマ書で神を賛美していますが、個々の出来事だけを見るなら、辛く、どうしてこんなことが、と思える事柄でも、神のご計画の全体から見るならば、神はすべてのことを相働かせて、私のために益として下さる方であると告白しているのです。賛美とは「かくあるべし」です。神への訴えやお願い、感謝だけでは、私たちが遭遇するさまざまな状況の中で、勝利を得ることは難しいのです。使徒パウロとシラスがピリピの町で牢獄に入れられて、八方塞がりの状況の中で、彼らがしたことは神を賛美することでした。すると突然、想定外のことが起こりました。
  • 私たちが神を賛美するときには、想定外のことが起こりやすいことを聖書は述べています。ピリピの町で起こったこともそうですし、また、旧約時代、ユダの王ヨシャパテの時代におびただしい敵が押し寄せてきたときにも想定外のことが起こりました。国家存亡の危機に際して、王は民たちに祈るように呼びかけたのです。ユダの人々は、大人も子どももみな、共に集まって祈りました。ところが、神の預言者がこう語りました。「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」と。ヨシャパテは、その主の励ましに従って行動しました。そして翌朝の出陣に際して、その先頭に主を賛美する聖歌隊を配置したのです。武器をもった者たちではなく、楽器をもって主を賛美する聖歌隊です。非常識にみえます。ところが聖歌隊が、「主に感謝せよ(主を賛美せよ)。その恵みはとこしえまで」と賛美し、その歌声が響きわたるやいなや、ユダに敵対する連合軍は打ち破られたのです。このことは先週もお話ししたことです。
  • 私たちの礼拝も、私たちが恵まれることが先に来るのではなく、主である神がどのようなお方かをほめたたえる賛美から始まります。私たちがまず、神をほめたたえ、神を神とし、すべての栄光を神に帰す結果として、神が私たちを祝福して下さるのです。神の臨在がよりはっきりと私たちの心に刻み込まれます。この賛美の優位性をもっともっと意識したいものです。なぜなら、神はどんなときにもすばらしい(トーヴ、グッドな)お方なのですから。
  • 賛美することは、私たちの信仰に安定さ、ゆるぎなさをもたらします。感謝が先立つと、感謝できないと思うときには、感謝ができなくなりますが、賛美が先立つと、感謝できないような状況でも、感謝できるようになるのです。このことはとても重要です。

2. すべての祝福はキリストをとおして

  • さて、パウロの手紙に戻りましょう。
    1章3節の主語は「父なる神」であり、その方が私たちを祝福してくださったと宣言しているわけですが、ここで注目したいことは、祝福の源泉である父なる神は、御子、つまり、イエス・キリストを抜きにしては与えることをされなかったという事実です。すべての天(神)にある霊的祝福は〔キリストを通して〕与えられているという事実が、パウロの脳裏から片時も離れることはありませんでした。
  • ちなみに、1章3節~14節までの最初の一連の賛美の中で、キリストに関係することばをどれだけ見つけることができるでしょうか。

    新改訳聖書第二版
    (1) 「キリストにおいて」 (3節)
    (2) 「キリストのうちに」 (4節)
    (3) 「イエス・キリストによって」 (5節)
    (4) 「愛する方によって」 (6節)
    (5) 「御子のうちにあって」 (7節)
    (6) 「御子において」 (9節)
    (7) 「キリストにあって」 (10節)
    (8) 「キリストにあって」 (10節)
    (9) 「彼にあって」 (11節)
    (10)「キリストに」 (12節)
    (11)「キリストにあって」(13節)

  • 1, 2節の挨拶も含めると、1~14節の段落の中に何と13回も使われています。しかも、ほとんど各節にあります。この語彙の頻度は何を意味するでしょうか。それは、パウロが、すべてのものの源である父なる神から与えられるすべての霊的祝福は、キリストなしにはあり得ないということを誰よりも深く知っていたことを意味します。
  • 御子の心がいつも御父に向けられていたように、使徒パウロの心も父と子のかかわりに向けられていました。御子イエスが御父を信頼しすべてを依存したように、使徒パウロもキリストに依存したのです。ここから、「私は謙遜の限りを尽くし・・主に仕えました」(使徒20:19)と言うことができたのだと思います。

(1) キリストにある自己認識(アイデンティティ)

  • 自己紹介をするとき、どのように自分を紹介するでしょうか。おそらく外見的な自分を紹介するのではないかと思います。外見的というのは、自分の職業とか、年齢とか、家族のこととか、身体的なこと、あるいは嗜好。信仰的な面においては、「・・の教会の教会員」であるとか、信仰をもって何年になるとか、教会でこれこれの奉仕をしていますとか、これこれの団体に属しています・・とか。これらはみな外見的なものです。私たちもそうした外見的なものによって、自分や他人を判断しているのではないでしょうか。
  • 使徒パウロは、コリント人への手紙第二、5章16節でこう言っています。
    「私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつてはそうであったとしても、今はもうそのような知り方をしません。」と。では、どのような標準で自分や人を知ろうとするのかというと、それは「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者」だという基準です。つまり、キリストにあって、全く新しい神の作品という見方をするということです。これは、人に対してのみならず、自分自身に対しても、です。キリストとどのようなかかわりをもっているかどうかという新しい基準で自分自身を自己認識するということなのです。
  • ところで、私たちがクリスチャンとし、神の子どもとして成長し、成熟していく上で大切なことは、「自分とはだれか」という問いです。この問いに対して、単にクリスチャンというだけでは十分ではありません。それは外見的な人間的な標準です。自分が「キリストにあって」どのような者とされているかという自己認識がとても重要なのです。キリストにあって自分がどのような存在とされているかという理解こそが、クリスチャンとしての考え方や行動のあり方を決めていくことになるからです。
  • 神の敵であるサタンは、この点において、私たちを惑わします。サタンは「偽りの父(神)」であると聖書は記していますが、サタンは私たちに「嘘」を吹き込んで、私たちがキリストによって与えられている立場をゆがめようとします。キリストにある私たちのすばらしい価値に気付かせないようにしているのです。実際、どのようにして惑わすかといえば、私たちが見えるものや、感じたり(実感)するものによって判断させることによってです。サタンの戦略は実に巧妙です。たとえば、「私は自分に正直に生きるわ」といったり、逆に、「あなたは自分に正直に生きるといいわ」という場合は、一見、とても良い判断の基準のように見えます。しかし、その背後にはサタンが狡猾に働いています。サタンは私たちの感情や思いに働いて、しかもそれがサタンから来ていることを決して悟らせないようにします。
  • サタンの惑わしは、私たちの思いの中に働いて、決して自分の存在を知られないようにして、私たちが見たり聞いたり、感じたりすることで自分自身を認識するように仕向けるのです。この惑わしによって、キリストにある私たちの真の姿、キリストにある私たちのすばらしい立場に気付かせないようにしているのです。
  • サタンのこうした惑わしから私たちが守られるためには、神のことばである聖書を通して、キリストにある自分の存在のすばらしさをたっぷりと吸収していく必要があります。エペソの1章3~14節は、私たちがキリストにあってどんな立場にされているか、本当の私たちはいかなる存在かを教えていますが、その立場はすべて父なる神が「キリストにあって」「キリストのうちに」「キリストを通して」実現してくださっていることをパウロは告白し、神を賛美しているのです。

(2) 「キリストのうちにある」七つの霊的祝福

(1)「キリストのうちにある選び」 (4節)
(2)「神の子とすること」 (5節)
(3)「罪の赦し」 (7節)
(4)「みこころの奥義の啓示」(9節)
(5)「キリストにある一致」 (10節)
(6)「御国を受け継ぐ者」  (11節)
(7)「その保証としての聖霊の賦与」 (13節)

  • 他にも、私たちがキリストにあって、「神の作品とされていること」、「神の家族とされていること」、「キリストのからだの一つの器官とされていること」・・などがあります。こうしたキリストにある自己認識はとても重要です。私たちがどんな職業についていようと、社会的な立場がどのようであろうと、才能や脳力がどうであろうと、外見がどうであろうと、そうした目で見えるもので判断しないこと、キリストにあって、私がどのようなものとされているかを信じること、これがキリストにある自己認識、アイデンティティ(自己同一性)なのです。祝福の源泉である父なる神は私たちをすでにキリストにある者として祝福してくださったのです。今も、祝福してくださっているのです。そして将来も、キリストにある者として「御前で聖く、傷のない者としてくださるのです。」-これは、地上での人とのかかわりの中で受けたすべての傷がいやされ、やがて、神との完全なかかわり、傷のないかかわり、信頼の絆を結ぶことを意味しています。-
  • 大切なことは、神が私を「キリストにある」者としてくださったことを信じることです。私にかかわるすべてのことがキリストにあってなされ、私に対する神のご計画のひとつひとつが、キリストにあって備えられているのです。このことを信じることです。私たちキリスト者の成長は、まさに、この事実を知ることにあります。私たちが何かをすることによって自分はこういう者だと認識することではなく、神がキリストにおいてすでになしてくださったことを発見し、そこにとどまり続けていくことによって、成熟していくのです。

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