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ほむべきかな、神(1)

第2日目 ほむべきかな、神 (1)

  • 〔聖書箇所〕1章3節
    【新改訳改訂第3版】では、3~14節の各節が改定されています。

1:3
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

Εὐλογητὸς ὁ θεὸς καὶ πατὴρ τοῦ κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ, ὁ εὐλογήσας ἡμᾶς ἐν πάσῃ εὐλογίᾳ πνευματικῇ ἐν τοῖς ἐπουρανίοις ἐν Χριστῷ,

  • 1:3の聖句を他の聖書の訳でも見てみたいと思います。

    〔口語訳〕
    「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、」


    〔新共同訳〕
    「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」


    〔エマオ出版訳〕
    「私たちの主イエス・キリストの神であり、かつ父であられる御方こそ誉め讃えられるべきです。神は私たちを、キリストにおいて、天にあるあらゆる霊的祝福をもって祝福してくださいました。」


1. パウロの神への賛美

  • さて、手紙の冒頭の挨拶に続いて、いよいよ手紙の内容に入っていくわけですが、そこでパウロが最初にしていることはなんでしょう。特に注目したいことは、パウロが神をほめたたえ、神を賛美していることです。神を賛美することーその重要性について考えます。新改訳、新共同訳では、いずれも「ほめたたえられますように」という願いの形で訳されていますが、口語訳では「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの父なる神」としています。「ほめたたえよ」(Praise the Lord)と命令形で訳している聖書もあります。原語のギリシャ語は「ユーロゲートス」εὐλογητὸςです。
  • 詩篇には「ほむべきかな、神」というふうに訳されたものが多く出てきます。「ほむべきかな」という意味は、「賛美されるにふさわしい」「たたえられる価値がある」「あがめられるべき方である」という意味です。「だれが」、それは「私たちの神、つまり、主イエス・キリストを通して啓示された父なる神」です。
  • 私たちが神を礼拝するために教会に集まるとき、最初にすることは、お願いではなく、神を賛美することです。

(1) 賛美と感謝の違い

  • 感謝と願いの違いはだれでもわかります。感謝は「・・・してくださってありがとうございます」ということで、願いは「・・・してください。」「私を祝福してください」ということです。しかし、賛美は、「あなたは・・の方です」「あなたは・・・にふさわしい方です」「ほめたたえられるべきです。」「賛美されるべき方です。」「あなたをほめたたえます」という表現です。そしてその後に、神を賛美する理由がつけられます。その偉大さのゆえに、その愛と恵みのゆえに、その真実さのゆえに・・・というふうに、です。
  • 賛美とは、私たちの神がどのような方であるかを告白することです。神は私を造られた創造主で、栄光に満ち、力に満ち、あわれみ深く、恵みに満ちた方、しかも変わることのない真実な方であることを、口で告白することです。
  • 感謝は、賛美という土台から生まれるものです。パウロが神に感謝する前に、その感謝を生み出す神ご自身を賛美しているのです。「ほむべきかな。神」「あなたは・・・・の方であり、・・・のことを私たちのためにして下さった」と告白するなら、感謝はおのずと口から出てきます。賛美と感謝は密接な関係をもっているのです。

(2) 賛美の優先性

  • 私たちの礼拝も、私たちが恵まれることが先に来るのではなく、主である神がどのようなお方かをほめたたえる賛美から始まります。私たちがまず、神をほめたたえ、神を神とし、すべての栄光を神に帰す結果として、神が私たちを祝福して下さるのです。神の臨在がよりはっきりと私たちの心に刻み込まれます。この優先順位をもっと意識的にするようにしましょう。
  • 太陽は、晴れの日ばかりでなく、曇りの日も、雨の日にも存在しているように、神も、私たちの感情にかかわりなく存在しているのですから、感情に流されることなく、神をほめたたえるべきです。雨が降ろうとやりが降ろうと、神が永遠に良い方であることには変わりないからです。賛美することは、私たちの信仰に安定さ、ゆるぎなさをもたらします。感謝が先立つと、感謝できないと思うときには、感謝ができなくなりますが、賛美が先立つと、感謝できないような状況でも、感謝できるようになるのです。このことはとても重要です。
  • 手紙やメールをするとき、なかば、「栄光在主」、「主の御名を賛美します」「ほむべきかな、われらの神」と意識的に使うようにしましょう。意識的に使う時、使う者のうちに賛美した神の臨在があらわされます。なぜなら、私たちの神は、私たちのする賛美の中に住んでくださるからです。
  • 私はローマ時代の映画が好きでよく観ますが、ある競技場で大勢の観客が集まったところに、最後に登場するのがローマ皇帝です。群衆はこぞって皇帝をほめたたえ、歓迎します。それから競技が行われます。日本でも、大きなスポーツ競技のイベントなどでも、すでに観客が集まったところに、天皇陛下や皇太子といった方を拍手をもって歓迎するシーンがあります。それと同様に、私たちも一同に集まって神を礼拝する場合、神を賛美しながら、神を迎えるのです。
  • この方はローマ皇帝よりも、天皇陛下よりも偉大な権威をもった方なのです。その方を歓迎する一番の方法は、願い事をすることではありません。手をたたきながら、あるいは手を上げながら、神をたたえることです。賛美することです。そのことによって、神が神としてあがめられます。遅刻することなく、まず私たちが一同に集まって共に賛美をもって神を歓迎しているところに、神様は大きな祝福を注いでくださると思いませんか。神がすでに歓迎されているところに遅刻してくることは、自分が神よりもえらい者だということになります。礼拝というのは、そうした意味で、神を神とする私たちの生きた信仰の表明なのです。

(3) 賛美はあなたに信仰を倍増させ、勝利をもたらします

  • 賛美は、私たちが神の子どもとして勝利の生活をするための重要な鍵です。なぜなら、神が働かれるからです。聖書には、賛美が神の力を現わした出来事が多く記されています。

①ヨシャパテの戦い(Ⅱ歴代誌20章)
「モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部が、ヨシャパテと戦おうとして攻めてきた」ことがありました。外から戦いを仕掛けられるという試練にあったのです。「ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主を求め、ユダの全国に断食を布告しました。」つまり、国家存亡の危機に際して、王は民たちに祈るように呼びかけたのです。ユダの人々は、大人も子どももみな、共に集まって祈りました。ところが、神の預言者がこう語りました。
「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」と。

  • ヨシャパテは、その主の励ましに従って行動しました。そして翌朝の出陣に際して、その先頭に主を賛美する聖歌隊を配置したのです。武器をもった者たちではなく、楽器をもって主を賛美する聖歌隊です。非常識にみえます。ところが、聖歌隊が、
    「主に感謝せよ(主を賛美せよ)。その恵みはとこしえまで」と賛美し、その歌声が響きわたるやいなや、ユダに敵対する連合軍は打ち破られたのです。その分捕りものはあまりに多く、それを整理するのに三日も要したとあります。そして、四日目に彼らは「ベラカの谷」(ベラカとは、祝福、ほめたたえるという意味です)で主をほめたたえました。戦いの先にも後にも主を賛美したのです。
  • 訓練された聖歌隊が歌った賛美だから力があったとお思いですか。いいえ、違います。イエスは詩篇の中のことばを引用しながら、父にこう祈りました。「あなたは幼子と乳飲み子の口に賛美を用意されました」と。賛美は勝利をもたらす神の力なのです。

②使徒の働き16章 パウロとシラスの獄中での賛美
ピリピの町で、パウロとシラスが占いの霊につかれた若い女奴隷を解放したことによって、その女奴隷の占いによって多くの利益を得ていた主人たちが訴えました。そのためにパウロとシラスは捕えられ、牢獄に入れられました。神の導きでピリピにやってきたのに、これでは何の活動もできません。二人は足かせをかけられ、牢獄の奥の方に入れられました。しかし、二人は真夜中ごろに、「神に祈りつつ、賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」とあります。不条理な事態にふさぎこんでいたのではありません。神に賛美の歌を歌っていたのです。・・・・すると不思議なことが起こりました。「突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。」のです。目をさました看守は、扉があいているので、囚人たちが逃げてしまったと思い、剣を抜き、責任をとって自殺しようとしました。・・・そのとき、「自害してはならない」というパウロのことばをその看守は聞きました。・・・このことから、この看守はパウロの話を聞くようになり、すぐに主イエスを信じました。そして自分も家族も全員バプテスマを受けたのです。そしてピリピの教会の核が与えられたのです。

  • 八方塞がりの中で突然の奇蹟をもたらした要因はなんだったのでしょう。それは神への賛美でした。賛美はあらゆる困難な事態を打ち破る力だということです。これは今日でも変わることのない真理であると信じます。「神ヘの賛美を栄光に輝かせよ」と詩篇の中にあります。この呼びかけは、賛美の力を経験した者でなければ言えないことばではないでしょうか。その意味するところは、「神への賛美を真に賛美たらしめよ」ということです。単なる、習慣としてではなく、なんとなくではなく、意識的に、自覚的に、神を賛美することです。

2. 神を賛美する理由

(1) 神が天にあるすべての祝福をもって祝福してくださったから

  • さて、パウロの手紙に戻りましょう。1章3節の後半では、神を賛美する理由がまとめられています。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」これが神を賛美する理由です。「天にあるすべての霊的祝福」の具体的な内容については、そのあとにひとつひとつパウロは書き記していきますが、この3節では総論的に述べています。
  • 実は、この3節には、祝福を意味することばが3回使われています。一つは前半の「ほめたたえられますように」・・これはもともと神を祝福するという意味で、私たちが神を祝福するということはできないわけですから、神の場合は祝福ではなく賛美、ほめたたえるという形になります。二つ目は、「天にあるすべての霊的祝福」、三つ目は「祝福してくださいました。」・・・私たちの神は祝福の神です。与えることを何よりも喜びとしておられる神なのです。

(2) 私たちは神を賛美するために造られたから

  • 神が私たちを祝福してくださる目的は何でしょうか。それは、私たちを通して神の栄光がほめたたえられるためです。

    ① 6節 「それは、神がその愛する方によって、私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
    ②12節 「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。」
    ③13節 「また、・・神の栄光がほめたたえられるためです。」

  • 私たちは主イエス・キリストにあって、父なる神から祝福されているのです。その祝福された私たちの存在目的は、ひとえに、神をほめたたえる者となることなのです。ですから、神への賛美を栄光に輝かせましょう。賛美することを学びましょう。生活のすべての領域においても、どんな状況の中にあっても、まず、神を賛美することを誓いましょう。神を賛美し、たたえることを通して、神の力が私たちの上にあらわされるならば、そのことによって、「神への賛美を栄光に輝かせる」ことになるのです。

    ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。
    私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。



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