****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

みこころの奥義

第6日目 みこころの奥義

  • 〔聖書箇所〕1章8~10節 【新改訳改訂第3版】

    1:8
    この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、

    ἧς ἐπερίσσευσεν εἰς ἡμᾶς ἐν πάσῃ σοφίᾳ και φρονήσει


    1:9
    みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、

    γνωρίσας ἡμῖν το μυστήριον τοῦ θελήματος αὐτοῦ、 κατὰ τὴν εὐδοκίαν αὐτοῦ ἣν προέθετο ἐν αὐτῷ


    1:10
    時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

    εἰς οἰκονομίαν τοῦ πληρώματος τῶν καιρῶν, ἀνακεφαλαιώσασθαι τὰ πάντα ἐν τῷ Χριστῷ, τὰ ἐπὶ τοῖς οὐρανοῖς καὶ τὰ ἐπὶ τῆς γῆς: ἐν αὐτῷ,


    ●原文によれば、8〜10節の主文は、8節の「神は・・・あふれさせた」です。この構文の中に、「何を」(恵みを、みこころの奥義を)、「どのように」(あらゆる知恵と思慮深さをもって)、「誰に」(私たちの上に)と説明され、9〜10節では「みこころの奥義」についての説明文が挿入されています。

    ●「奥義」と訳された原語は「ムステーリオン」(μυστήριον)で、神の秘められたご計画を意味します。これは「天の御国の奥義」でイエスはたとえをもって語られました。神の秘密は自ら求めることがなければ秘密のままですが、「求める(求め続ける)」ならば、だれにでも「与えられ、見出し、開かれる」のです。使徒パウロは神の秘密(奥義)を求めたことで知らされたのです。パウロのヘブル名は「サウル」ですが、「サウル」という名前には「尋ね求める」という意味を持っているのです。そのパウロが「奥義をぜひ知ってほしい」と声を大にしているのです。



はじめに

  • 「贖い」ということばは聖書の専門用語です。どの領域にも、どの分野にもそれぞれ専門用語というのがあります。その用語が分からないと通じないことがたくさん生じます。例えば、コンピューターは今日なくてはならないものですが、コンピューターの分野にも専門用語があります。ですから、専門用語に拒絶反応を示すことがないように、できるだけ理解していくように心がけなければなりません。
  • ここでは、「贖い」のもう一つの面について取り上げます。英語では贖いという言葉として、以下の二つのことばが使われます。
    画像の説明
  • ひとつは、リデンプション(Redemption)です。「買い戻す」こと、そして権利を回復するという面です。買い戻しする人を「リディーマー 」(Redeemer)と言います。。
  • しかし「贖い」にはもう一つの意味があります。英語では「アトーンメント」(Atonement)と訳されます。At-one-mentの合成語です。つまり、これは、キリストにあって、すべてのものがひとつにされ、いやされ、回復し、調和と平和を取り戻すことを意味しています。

1. キリストにあって一つに集められる

  • 神がこの世界を造られた時、神はご自分の造られたものを見て、「よし」とされました。創世記には「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。」(創世記1:3-4)とあり、それに続いて、陸と海を造られた時も、植物を造られた時も、また、天体を造られた時も、さまざまな動物を造られた時も、それぞれ「神は見て、それをよしとされた。」と記されています。神は、最後に人間を造り、この世界の全てが完成しました。聖書は、神の創造のわざを、「そのようにして神はお造りなったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)ということばで結んでいます。このように、神が造られた最初の世界には、すべてのものに一致と調和があったのです。
  • 神と人とはかつて愛においてひとつでした。神は人に語りかけ、人も神と語り合いました。アダムとエバは、身も心もひとつでした。また、自然は人に優しく、人も自然に優しくありました。人と人はひとつ、自然と人もひとつでした。
  • ところが、人が罪を犯し、神に背いて、神から離れた時、アダムとエバは互いに相手を非難し、自分の罪を他のせいにしました。アダムとエバの子、カインは弟のアベルをねたみ、そのねたみのために弟を殺してしまいました。人は自然を痛めつけ、自然もまた人間に牙をむくようになりました。こうして神と人とが分離し、人と人とが分裂、自然と人とが不調和な関係になってしまったのです。この不調和、不一致をいやし、もう一度元に戻して一つにすることが、キリストの「贖い」です。9節によれば、このことを「みこころの奥義」だとしています。そして、10節「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」とあります。
  • 「キリストにあって一つに集められる」(キリストの奥義 = ミステリー)を、諸聖書の訳で見てみましょう。

    「一つに集められる」 (新改訳)
    「一つにまとめられる」 (新共同訳)
    「一つに帰せしめる」 (口語訳)
    「統べ括める」 (永井訳)
    「帰一せしめる」 (柳生訳)

  • 「一つに集める」とは、合計する、要約する、統合する、従属する、支配の下に服する、焦点を合わせる、一心同体といった意味合いがあります。エペソ書に見られる奥義の諸表現としては以下のとおりです。

    (1) 平和 平和のきずなで結ばれる
    (2) 二つのものを一つにする、和解
    (3) 一致を保つ
    (4) ひとつのからだ 「新しいひとりの人」という概念 
    (5) ともに

  • こうしたことば(思想)がエペソ書を占めているのです。

2. 「ワンボイス」(One Voice)の祝福・・・「一つになる喜び」

  • 「ゴスペルを歌っていくと、必ず訪れる瞬間がある。歌うみんなの思いがひとつの声の固まりになる瞬間、魂を揺さぶられる瞬間、これを“One Voice”と呼んでいる。・・音楽的な完成度としてはそんなに高い点数がつけられないような演奏の中でも、その瞬間は訪れるという。・これは、いくら練習を積んでも、それだけでは訪れない。」―そんなOne Voice の祝福があるようです。それは「一つになる喜び」ということができます。
  • 共感、共生の喜びの世界、共有、共働、共栄の喜び・・・ともいうべき世界です。
  • 山や森にあって、みんなの家の庭にないものはなんでしょうか?それは、菌根菌(きんこんきん)という土の中にいる微生物たちです。菌根菌は植物につく微生物です。菌根菌は植物の根につくと、土壌中に菌糸を伸ばし、リン酸などのミネラルや水分を効率よく吸収できるようにして植物に与えます。その代わりに、植物が光合成で生産した糖分を与えられるのです。この持ちつ持たれつの関係を<共生>と呼びます。菌根菌と植物とは、<絶対的な共生関係>にあるのです。創造者である神はそのようにして自然界の中に、いのちの共生のシステムを形作られました。
  • 植物にとっての菌根菌は、人間にとっての大腸菌にあたります。人間は、大腸菌が体内に共生してくれないと、食物を分解できずに消化不良を起こしてしまいます。もし、分解しなければ、サプリメント等の栄養剤を摂取しなければならなくなります。本来、大腸菌は人間にとって必要な栄養を摂取しやすくする大切な働きをしているわけです。O-157のように、大腸菌を破壊する菌に冒されると、死に至る病いになることがありますが・・・。
  • 菌根菌は、栄養分が少ない土壌であっても、植物が自分自身では十分にとれない栄養素(特に、リン酸とかミネラル)、そして水を補給してくれる存在です。そのことによって、
    ①生育が促進され、
    ②植物が健康にされて病気に対する耐性が向上します。
    ③また同時に、さまざまな環境ストレスにも強くなるのです。過酷であっても生存率は高くなります。
    ④しかも大量の二酸化炭素が酸素に変換されて、今日、問題になっている地球温暖化に対する利点が高まります。
  • このように、植物と菌根菌は何億年もの間、気の遠くなるような時間をかけながら、互いに助け合ってきたのです。そのような<共生>がこの自然に土、つまり土壌をもたらしたのです。
  • 庭の木よりも山の木のほうが早く大きくなるのはなぜか? それは、土の中の微生物との共生関係が妨げられているために、植物自体の栄養吸収能力が劣っているからです。土壌が過栄養になると多くの土中有用微生物は繁殖できなくなるのです。一見、化学肥料や化学薬品が植物の成長、健康を助けているように見えますが、実際には有用微生物がいなくなることによって、その健康状態を見えないところで大きく損なっているのです。人間のすることの多くが、このように神が創造したすばらしい自然のシステムを理解することなく、むしろ破壊していることが多いのではないでしょうか。
  • 「森は海の恋人」ということばを聞いたことがありますか。これは運動にもなったキャッチフレーズです。ホタテとか牡蠣(カキ)がすきな人はいますか。それは海が栄養豊かでないと育たないといわれています。ホタテや牡蠣を育てているのは、実は、森なのです。漁師が良い漁場を保つには、森に行って、植林しなければなりません。森と海、それをつなぐ川はみなつながっているのです。自然の生態系・・・その神秘は見えざる「かげ」の世界です。私たちは普段、見える部分でしかものごとを考えていません。ですから、自分本位になってしまうのです。
  • この自然は人間が誕生する前から、何百万年という年月をかけて造られてきたものなのです。この地球全体の営みのすべてがひとつにつながっているのです。CO2の増大による地球温暖化現象、それに伴う異常気象、それによる多くの死者・・・これらはすべて多くの森林を伐採したことによってもたらされている現象と言われています。

3. 「彼らが一つとなるように」というイエスの祈り

  • イエス・キリストが十字架にかかられる前の晩に、弟子たちと共に食事をとられたあと、御父に向かって弟子たちのために祈られました。その祈りの大切な部分は「彼らが一つとなるように」という祈りでした。ヨハネの福音書17章にあります。しかもこの祈りをイエスはなんと5回も祈られたのです。この祈りは「みこころの奥義」そのものであり、神のご計画の究極です。そのご計画の源泉は、「わたしと父とは一つです」(ヨハネの福音書10章30節)とイエスが言われたことばの中にあります。御父と御子とは永遠に一体です。この一体を「永遠のいのち」と言います。その中に私たちは創造の冠として造られたのです。しかし、人間の罪によって、この永遠のいのちを喪失してしまったのです。すべての一致と調和を失ったのです。
  • イエスの「彼らが一つとなりますように」という祈りはいまだ完成されていません。しかし必ず実現する祈りなのです。私たちはこの祈りの実現に向けてかかわるようにと召されているのです。
  • 私たちは、キリストによって神に帰ることができ、キリストによって一つになることができます。使徒パウロという人はこのイエスの祈りのヴィジョンをそのまま受け取って、その計画を人々に知らせ、実現のために力を尽くしました。
  • パウロはエペソ書2章13〜15節でこう言います。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身にお いて『新しいひとりの人』を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」

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  • 私たちは、罪のために、自分を傷つけ、人を傷つけ、そして、なによりも、神の栄光を傷つけてきました。罪が赦され、罪から解放されるだけでなく、罪の傷からのいやしと回復とが私たちには必要です。そしてそれを与えるのが「御子の血による贖い」です。神は、イエス・キリストによって私たちに必要なすべてを備えてくださいました。イエス・キリストの救い以上の救いが、この世にあるでしょうか。この救いを受け入れ、救いの喜びの中にしっかりととどまり、ひとつりなる喜び(One Voiceの祝福)を祈り求めていかなければなりません。



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