みことばによる神の民の育成
ネヘミヤ記の目次
8. みことばによる神の民の育成
【聖書箇所】 8章1節~12節
ベレーシート
- ネヘミヤが「とびらを取り付けた」(7:1)という表現で、城壁の再建工事が完成したことを示しています。その日は「エルルの月」の25日であったと聖書は記しています。「エルルの月」とは第六の月のことです。ところが、翌月の第七の月(現在の10月頃)が近づいたとき、エルサレムでは不思議なことが起こりました。そのことを記しているのが、ネヘミヤ記8章です。
1. みことばに対する飢え渇き
- 8章1節をみると「民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書をもって来るように、学者エズラに願った。」とあります。
- 上から一方的にエズラがモーセの律法を教えたのではなく、民の方からそれを求めたというのです。「願った」(新改訳)、「求めた」(口語訳、新共同訳)と訳されていますが、原語は「言う」を意味する「アーマル」(אָמַר)です。「アーマル」は旧約聖書の動詞の中で最も多く使用されている語彙です。
- 祭司であり、律法の学者であるエズラは彼らの要求どおり、第七の月の第一目に律法を持ってきて水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、それを朗読しました。「すべて聞いて理解できる人たちからなる集団」という表現は、まず大人であり、しかもそれを慕い求めている者たちだということが推察されます。彼らは「夜明けから真昼まで」立ちながら、それを聞いたとあります。これは一種の霊的覚醒、リバイバルの現象です。霊的な覚醒が起こっているときには、肉体的な疲れは感じないものです。なぜなら、霊的な渇きの満たしの求めが先行しているからです。
- この現象がリバイバルだということのさらなる証拠は、律法が朗読され、またそれをレビ人たちが説明したので、聞いていた者たちがそれを正しく理解して、悔い改めの涙を流したことから分かります。民が律法を聞いて総崩れを起こしたのです。
- 人々が集まった場所が「水の門」の広場であったということは「渇き」ということを匂わせるきわめて象徴的な場所です。この「水の門」の外には有名な「ギホンの泉」があります。やがてメシア・イエスが仮庵の祭が終わった大いなる時に、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書か言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)と言われましたが、霊的覚醒にはいのちの水(聖霊)が必要なのです。
- 神の律法が朗読された第一日目は聖別された特別な日です。「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である」(8:9, 10)とあるからです。ですから、ネヘミヤは「悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」(8:10)と言い、レビ人たちも、民全部を静めながら、「静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。」と言って、ごちそうを食べるように勧め、人々は、大いに喜んだのです。
- ちなみに、10節の後半を、口語訳は「主を喜ぶことはあなたがたの力である」と訳しています。この箇所を原文で見てみると以下のようになっています。
- ここには動詞がないために、以下のように、自由な訳になっています。
【口語訳】
主を喜ぶことはあなたがたの力です
【新改訳改訂3版】
あなたがたの力を【主】が喜ばれるからだ。
【新共同訳】
主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。
【バルバロ訳】
主の喜びはあなたたちを支える力である。
【新改訳2017】
【新改訳2017】
【主】を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」
訳だけを見ると、動詞があるように思えます。
- いずれにしても、この喜びは、律法を聞いてその意味するところを悟ったからです。真の喜びは、みことばが開示されることから来ると信じます。エマオの途上のイエスの弟子たちが、イエスから聖書を解き明かされていたとき、「心が燃えるのを覚えた」というまさにその経験です。霊的覚醒は罪に対する悲しみをもたらしますが、同時に、神とのかかわりにおける霊的な喜びがわき起こるのです。
2. みことばをより深く知ろうとする熱意
- もう一つの驚くべきことは、二日目に、律法のことばをさらに深く知るために、一族のかしらたちとレビ人たちが、学者エズラのところに集まったことです。そして、モーセの律法の中に主の例祭の一つである「仮庵の祭り」のことが記されているのを見つけ出したのです。この箇所も原文で見てみます。
【新改訳改訂3】
律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まって来た。
【口語訳】
律法の言葉を学ぶために学者エズラのもとに集まってきて、
【新共同訳】
エズラのもとに集まり、律法の言葉を深く悟ろうとし、
【バルバロ訳】
律法学士エズラのもとに集まったのは、律法のことばを深く知るためであった
- 驚くべきことは、神の律法(みことば)を聞くだけにおさまらず、それをより深く知ろうとする熱意が生まれていることです。まさに、これは「ベレヤの人々」のようです。ベレヤの人々は「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17:11)からです。
- これからイエスをメシアとして信じる人々の中から、新しい世代の中から、このような人々が輩出して来なければ、明日のキリスト教会はありません。ベレヤの人々のようにみことばを自ら検証できる者たちが生まれてくることです。しかし、そのような人々はすぐには育たないのです。人材育成には時間がかかりますが、とても重要な取り組みです。神の働きは人を通してなされていく面があるからです。それゆえ、キリスト教会は慣習的な行事に多くの時間や財を費やすことなく、神のみことばを熱心に求め、それを検証できる人材が育成することに、より多くの時間と財を投資しなければならないのです。とりわけ、今、神のことばを取り扱っている者たちの中にこの霊的覚醒が求められていると信じます。
3. 主の例祭である「仮庵の祭り」の復活
- 熱心に神のことばを悟ろうとした者たちによって、第七の月には「仮庵の祭り」をしなければならないことを、彼らは知らされました。彼らはエルサレムに帰還した時から、80~90年も経つにもかかわらず、それをして来なかったことに気づかされたのです。
- そのことを知らされたイスラエルの民は、神の律法に従って、律法に記されたとおりに仮庵を作りました。そしてエズラはその祭りをしていた七日間、毎日続けて主の律法の書を読み上げたのでした。まさに、みことばの回復です。人の熱心さではなく、主のみことばから何かが始らなければならないのです。そのためには多くの時間、静まって、みことばを聞く姿勢が必要なのです。マルタではなく、マリアのように。真の喜びの源泉はそこに隠されているからです。
2013.11.6
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