****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

めのう

文字サイズ:

1. 大祭司の胸当てに埋め込まれている12の宝石

(8) 「めのう」ー「 マナセ部族」

画像の説明

画像の説明

ベレーシート

画像の説明
  • 新改訳、新共同訳で「めのう」と訳された「シェボー」(שְׁבוֹ)は、口語訳では「赤めのう」、岩波訳では「瑪瑙」と難しい漢字が当てられて訳されています。それは石の外観が馬の脳に似ているためだと言われます。エポデに埋め込まれている12の宝石の中には「赤めのう」「めのう」「しまめのう」という名前の三つの宝石があります。今回はその中の「めのう」という宝石です。
画像の説明
  • 「めのう」と訳された「シェボー」(שְׁבוֹ)の語根がשׁבであるならば、そこからいくつかの語彙が考えられます。一つ目は「とりこにされる」の「シャーヴァー」(שָׁבָה)、その受動態の「とりこになる」の「ニシュバー」(נִשְבָּה)、そしてその名詞「とりこ」の「シェヴィー」(שְׁבִי)。二つ目は「帰る」の「シューヴ」(שׁוּב)だとすれば、捕らわれ人を帰らせて、神とのかかわりを回復することと関係してきます。神に帰ることで捕らわれの状態から解放され、神と人とのかかわりが回復することを意味します。三つ目は「住む、とどまる」の「ヤーシャヴ」(יָשַׁב)。四つ目は、詩篇147篇18節に「主が・・、ご自分の風を吹かせると、(氷を溶かして)水は流れる」とあるように主の主権的な力を示唆する「ナーシャヴ」(נָשַׁב)です。そして五つ目は、水を「汲む」の「シャーアヴ」(שָׁאַב)などが考えられます。
  • 特に最後の「シャーアヴ」は、イザヤ書12章3節「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む」という比喩的表現で終末のメシア的祝福を表わしています。「救いの泉」とは主こそ生ける水の源であることの表現であり(エレミヤ2:13/17:13)、神の祝福が無尽蔵に蓄えられていることを意味しています。その泉から水を「汲む」ことが「シャーアヴ」(שָׁאַב)です。これらはすべてが親語根であるשׁבとつながっているのです。
仮庵の祭(3).JPG
仮庵の祭(2).JPG
  • ちなみに、このイザヤ書12章3節の歌は仮庵の祭りと関係しています。祭の最後の日に、かつて神がイスラエルの民を荒野において助けて下さったことを感謝し記念するために、シロアムの泉から水を汲み上げて、神殿に運び、その水を注ぐという儀式がなされていたようです。つまり、シロアムの泉から水を汲んで神殿まで行く途中で、イザヤ書12章を歌いながら行列が進んだと言われています。それは、仮庵の祭りの中でも、最後をかざる最高潮の喜びの時でした。しかし、イェシュアが立ち上がって語られたのはその祭りの終わりの時でした(ヨハネ7章37~39節)。この歌が真の意味で実現(成就)するのが、仮庵の祭りの頃に、メシアが地上再臨してからのことです。
  • 親語根であるשׁבの秘密は、親語根に関連する語彙のみならず、語根自体の配列にも秘められています。最初の「シン」(שׁ)の文字は「歯」を意味し、そこから「食い尽くす」、「(神を)食い尽くす」、「熱心に神を尋ね求める」意味へと広がって行きます。と同時に、その次に来る「ベート」(ב)の文字は「子」を意味します。つまり、神の御子イェシュアを指し示しています。つまり、神の御子イェシュアが神(御父)を熱心に尋ね求めることによって実現する事柄、その事柄の語根としての〔שׁב〕であるとも理解できるのです。
  • 前置きが長くなりましたが、では、なぜ、「めのう」の宝石にマナセの部族の名前が刻まれているのでしょうか。その隠された秘密はいったい何なのでしょうか。

1. 「マナセ」の語源は「忘れ去る」という動詞「ナーシャー」を名詞化したもの

  • マナセの兄はエフライムです。エフライムの名前の意味は「豊かな実り」でしたが、マナセの名前の意味は「忘却、忘れ去ること」です。本筋としては、「実り豊かな」人生を送るためには、「忘却」が必要なのです。「忘却、人の罪を赦すこと」が先で、そのあとに「実り豊かな」人生が約束されているのです。
  • 「マナセ」(מְנַשֶּׁה、正確には「メナッサー」)という名前は「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」という意味です。名前の語根としては、「忘れる」を意味する「ナーシャー」(נָשָׁה)に、それを名詞化する「メーム」(מ)が接頭辞として付けられて「マナセ」となっています。「ナーシャー」(נָשָׁה)それ自体は、創世記41章51節で「忘れさせる」という意味で、強意形のピエル態で使われています。
  • 「忘れる」を意味する語彙としては、例えば、ヨセフのことを忘れた献酌官長の場合(創世記40:23)には「シャーカハ」(שָׁכַּח)が使われています。こちらの方が一般的で、旧約では120回の頻度で使われています。
  • ヨセフのこれまでの生涯を振り返るならば、運で言うならばアップダウンを繰り返しています。子どもが生まれた時が人生の最も祝福された時とヨセフは感じていたようです。しかし、ヨセフの良い時にも悪い時にも、いつでも「主はヨセフとともにおられた」のです。その歩みを貫いているのは神のご計画であり、すべての出来事が一本の線でつながっているということです。
  • 「マナセ」という名前の中に、ヨセフはこれまでの自分の経験した苦しみの中に、自分の父のことや兄弟たちにされたことを忘れさせるほどの、帳消しにするほどの、神の臨在の祝福とご計画を見出したことを示しています。自分が受けた苦しみを凌ぐほどの神のご計画という摂理がそこにあったことを受け止めたことを意味しています。

2.「マナセ」の精神

  • マナセは私たちの罪を十字架においてすべて忘れて下さったキリストの型です。キリストはその十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。」と祈られました。神の「赦し」は「忘却」と同義です。それは神の記憶から消されることです。それゆえ、古いものはすべて過ぎ去って、すべてが神の御前において新しくされています。私たちはいつも「真のマナセである方」を絶えず見つめながら、そのご性質にあずかる必要があります。
  • 詩篇45篇10~11節には、王の妻となる花嫁に対して、自分の民と自分の父を忘れるように勧めています。

    娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。
    そうすれば王は、あなたの美を慕おう。
    彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。

  • 花嫁は肉親の愛にも勝る花婿に対する愛が求められています。王である御子イェシュアの花嫁としてふさわしく生きるためには、まず、花嫁が花婿である方の声に耳を傾けて聞くこと。その方の声で心を満たすことです。そうすることで、花嫁ははじめて花婿のご性質を帯びるようになるのです。私たちもキリストの花嫁として、花婿の声を聞くことに専心しなければなりません。終わりの日は近づいています。それゆえ、花嫁の霊性の回復がよりいっそう求められているのです。


2014.5.6


a:2739 t:3 y:6

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional