もし、あなたが私の兄弟であったなら
雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。
21. もし、あなたが私の兄弟であったなら
【聖書箇所】 8章1〜2節
ベレーシート
- 8章1節にはこれまでにない思想(花婿と花嫁の比喩とは異なるもの)があります。それは「もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら・・」という花婿に対する花嫁のことばです。このことばは預言的です。なぜなら、これは花婿になるイェシュアの受肉によって実現するからです。まずは、1節を見てみましょう。
【新改訳改訂第3版】雅歌8章1節
ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても、だれも私をさげすまないでしょうに。
●「さげすむ」と訳された「ブーズ」(בּוּז)は、「いやしめる、とがめる、侮る、軽んじる」という意味です。そんな周囲の視線に気兼ねすることなく、兄弟として(本当の兄として)の親しいかかわりを持つことができることを花嫁は願っています。この思想は神の家族としての教会をイメージさせます。
1. 神の家族における長子の存在
- 新約聖書においては、教会が神の家族としての比喩で語られることがあります。その場合、天の父なる神を父とした家族です。母は教会であり、御子イェシュアはその家族の長子という立場です。
- ローマ人への手紙8章には次のように記されています。
【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙 8章29節
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
●この箇所は、神によって定められたキリスト者の救いのプロセスにおいての最終の栄化について述べられています。御子の復活に基づいて、御子につながる多くの者たちが「終わりの日」に死からよみがえり、あるいは朽ちないからだに変えられるという、「神の子とされる」終末論的祝福が記されています。そこでは、御子イェシュアは兄弟たちの長子的存在として高い地位と身分を持つことが示されています。
- ちなみに、「長子」と訳された「プロートトコス」(πρωτότοκος)、ヘブル語では「ベホーラー」(בְּכוֹרָה)は、文字通り、最初に生まれた、初子ですが、ここでは復活の初穂(死者の中から最初に生まれた者)としての意味で語られています。そのためには、受肉と死というプロセスが前提となります。
2. 長子としての責任
- 長子としての権利は、責任を伴う地位と務めを意味します。
【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙 2章10~12節
10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
- 「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされた」という意味は、以下の通りです。
(1) 受肉
「多くの子たち」が「みな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。」(ヘブル2:14)
(2) 苦難と死
「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(同2:14~15)
- そして、今や御子は死から復活して神の右の座において大祭司としての務めを果たしておられるのです。これが長子的存在の意味です。
3. 神の家族であることの要件
- イェシュアは弟子たちに次のように語られました。
【新改訳改訂第3版】マタイの福音書 12章50節
天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。
- 神の家族であることの唯一の要件はただ一つ。それは「天におられる父のみこころを行う」ことです。天の御国は「父のみこころを行う」ところです。そこではみなイェシュア(メシア)の兄弟姉妹であり、また母なのです。イェシュアは復活された後、自分の弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼んでいます。
- 母なる教会とは、長子であるイェシュアとその兄弟姉妹たちの共同体であり、その家族は長子とのゆるがない関係に支えられているのです。花婿と花嫁とは少々異なる概念ですが、いずれも共通していることは、一つになることです。
- 最後に、主にある兄弟姉妹たちが一つになる祝福を歌った詩篇があります。
【新改訳改訂第3版】詩篇133篇1~3節
1
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
2
それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。
それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
3
それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
●この詩篇133篇については、こちらを参照。
2015.9.16
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