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もし・わたしを捜し求めるなら・見つける

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114. もし・・わたしを捜し求めるなら、わたしを見つける

【聖書箇所】 エレミヤ書29章13、14a節

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【読み】
ウーヴィッカシェム オーティー ウーメツァーテム キー ティドゥレシュー ベル レヴァヴム ヴェニメツェーティー ラー

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。14 わたしはあなたがたに見つけられる。
【口語訳】
13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、14 わたしはあなたがたに会う
【新共同訳】
13 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、14 わたしに出会うであろう
【岩波訳】
13 あなたたちがわたしを探し求めるなら、わたしを見出すだろう。もしあなたたちが全心をもってわたしを尋ね求めるならば、14 わたしはあなたたちに見出されるだろう。
【NKJV】
And you will seek Me and find Me, when you search for Me with all your heart. I will be found by you,
【NIV】
You will seek me and find me when you seek me with all your heart.  I will be found by you,

【瞑想】

すでにこの箇所は扱っていますが、再度、このみことばが意味することを思い巡らしたいと思います。この箇所はエレミヤがバビロンに捕囚となった人々ヘ宛てた手紙の中にあります。エルサレムに残った民ではなく、バビロンへ連れて行かれた者の中に、神は希望をもっておられたからです。捕囚となった人々はそこで二世代、三世代かけて神を熱心に尋ね求めるようになったのです。そして神が彼らに与えられていた「トーラー」の価値に目が開かれ、トーラー・ライフスタイルを築いたのでした。そのことによって以前住んでいたイスラエルへ帰還することができました。

新改訳は原文にある渇望用語の「バーカシュ」(בָּקַשׁ)と「ダーラシュ」(דָרַשׁ)の動詞をひとまとめにして「捜し求める」としています。しかしこの二つの動詞はニュアンスが少々異なります。「バーカシュ」が「求める、慕い求める」といった感情的・心情的な意味合いが強いのに対して、「ダーラシュ」の方は「捜し求める、捜す、探り出す、探る、慕う、調べる、問う、問い尋ねる、尋ね求める」といった理性的意味合いが強いように思えます。実は、この両方の動詞が共に13節で使われていることが重要なのです。しかもそれを「心を尽くして」「一心に」することが条件です。なぜなら、この渇望なしに将来と希望の約束はあり得ないからです。

ここで重要なことは、神を見出すために、熱心に捜し求め、尋ね求めるということです。神を見出すということは、神の懐にある心を知ることを意味します。しかしそれは自ら熱心に捜し求めなければ見出せないということです。

イエスは、神の国の秘密を語るときにたとえを用いられました。なぜたとえを用いられたかといえば、それは分かりやすくするためではありません。むしろ、それを聞く人々をして、自らその真意を尋ね求めさせるためでした。弟子たちが近寄ってイエスに尋ねました。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか」と(マタイ13:10)。それに対するイエスの答えはこうでした。「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ13:13)

つまり、ここでイエスが言おうとしていることは、自らその真意を尋ね求めて悟ろうとしなければ、それは決して明かされることはなく、神を見出すことはあり得ないということなのです。

この対話がなされた時のたとえ話は「種蒔く人のたとえ」でした。蒔かれた種とは、みことばの種のことです。その種が「良い地」に落ちて豊かな実を結ぶためには、三つのことをクリアする必要があるのです。

(1) 地が柔らかであること
それは真理に対していつもオープン・マインドであることです。また理解の型紙を破る勇気を持っていることでもあります。確かに、捕囚の民は神のみおしえについてかなり目が開かれました。しかし、イスラエルの全家が諸国の民の中から帰還してくる終わりの日が近づくにつれて、エゼキエルが36章26節で預言しているように、「新しい心、新しい霊が授けられて、石の心を取り除かれ、柔らかな肉の心が与えられ」て、霊的な目が開かれてくるのです。人間的な努力だけでは地(心)が柔らかくなることはないのです。

(2)根が深くなければならないこと
地が柔らかくなるためには、語られるみことばに対して熱心に問いかけたり、調べたりという求道心が必要です。また、みことばの真意を悟る力を持つ必要があります。その力がなければ、教えの風(流行、ムーブメント)に流されてしまうからです。神の国の宝はいつも隠されています。ですから、その隠された宝を見出そうとする熱心さとみことばに対するさまざまな解釈を検証する力を養う必要があります。それはひとえにみことばを瞑想することです。瞑想は聖霊の助けによって神(御父)の心を熱心に探し求める営みです。それによって神のことばに隠されている真意を悟ることが出来るようになり、聖書全体がひとつにつながっていることを見出すようにもなるのです。

(3) 神をどこまでも信頼する心
この心は私たちの生存と防衛の保障を完全に神にのみ置くことを意味します。イスラエルの歴史を学ぶならばそれがいかに難しいかを知るはずです。「言うは易し、行うは難し」なのです。神にのみ信頼することは、私たちの肉が最も嫌うことであり、「心をかたくなにする」メッセージなのです。

これらの三つは互いに連動しています。これらの関門をすべてパスしてはじめて驚くべき豊かな結実が保障されることを、このたとえは語っています。ここでは、特に(2)の部分に注目してみます。「岩地に蒔かれた種」は、芽を出しますが、根が浅いためにすぐに枯れてしまいます。根が浅いために結実しないということが指摘されていますが、「根」を深くするためには、熱心に神のみことばの真意を自ら尋ね求めることが必要なのです。そのことによって、神は「わたしは見出される」と約束しています。ここで言われる「根」(ルーツ)とは、イスラエルの歴史の中に流れているもののことです。もし、このイスラエルの歴史(物語)を断ち切ってしまうなら、多くの結実を得ることはできないとも言えます。


エレミヤ書29章13節の「バーカシュ」(בָּקַשׁ)をLXX(70人)訳聖書は「エクゼーテオー」(εκζητεω)と訳し、「ダーラシュ」(דָרַשׁ)を「ゼーテオー」(ζητεω)と訳しています。いずれも熱心に尋ね求め、捜し求めることを意味しています。
●マタイの福音書6章33節「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい(ζητεω)。」
●同、7章7節「求めなさい(ζητεω)。そうすれば与えられます。」
●同、13章45節「天の御国は、良い真珠を捜して(ζητεω)いる商人のようなものです。」

実は、「熱心に捜し求めている」のは人だけではありません。神も人を熱心に捜し求めているのです。「人の子は、失われた人を捜して(ζητεω)救うために来たのです。」(ルカ19:10)「彼は、イエスがどんな方か見ようとした」という「人のゼーテオー」と、「人の子は、失われた人を捜し出して」という「神のゼーテオー」が出会う時、大きな祝福(救い)が臨むのです。取税人ザアカイとイエスの出会いはまさにその例証と言えます。


2013.6.29


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