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わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者

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45. わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者

【聖書箇所】51章12~23節

ベレーシート

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  • 40章1節で「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と語った主は、51章12節で「わたしこそ、わたしこそ、あなたがたを慰める者」だと宣言します。そして同19節では、「わたしはどのようにしてあなたを慰めようか。」と語ります。「慰め」とは「回復」と同義です。「慰める」という動詞「ナーハム」(נָחַם)の三つの文字の一つひとつの意味を組み合わせると、「水を得た魚」という意味になるようです。神である主はご自身が選ばれた民をどのようにして「水を得た魚」とするか、今回の箇所にはそのための神の計画が記されているのです。

1. しいたげる者の憤りを恐れるシオンに対して

【新改訳改訂第3版】イザヤ書51章12~16節
12 わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。
13 天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った【主】を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか。
14 捕らわれ人は、すぐ解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠かない。
15 わたしは、あなたの神、【主】であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の【主】。
16 わたしは、わたしのことばをあなたの口に置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、「あなたはわたしの民だ」とシオンに言う。

  • 新改訳では、まず「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める」と訳されていますが、原文では「慰める」は分詞形で名詞化されて、「あなたがたを慰める者」となっています。その方こそ創造主です。その方が「あなたは、何者なのか」と問いかけ、なにゆえ、「草にも等しい人の子を恐れる」のか問いかけています(12節)。ここでの「人の子」とは、彼らをしいたげる者のことであり、その者の「憤りを恐れて」「まるで滅びに定められているかのよう」な惨めなご自身の民を叱責しています。
  • ここで「あなた」と呼ばれる者たちは「捕われ人」です。神のご計画では、その捕われ人は、すぐに解き放たれ、死んで穴に下ることなく、パンにも事欠くことなく、神に対する信仰告白のことばを口に置き、主がその手の陰に彼らをかばうと約束しています。神の歴史の中で、神の民が「捕われる」事態になったのは、エジプトやバビロンにおける捕囚の時です。しかし、それらの出来事は神の歴史においては「型」としての出来事です。「本体」は、これから起こる「終わりの時」に反キリストが支配する時にもたらされる出来事です。神の民は「一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている」状況になるのです。しかし、神はそうした者の支配から解放し、生存と防衛の保障を約束しています。しかも「すぐ解き放たれ」とありますから、バビロンの捕われのような長い期間ではなく、反キリストが支配するときの大患難からの「速やかな救い」の預言と考えられます。キリストの再臨による反キリストに対する勝利は、「すぐに」「すみやかに」なされるのです。

2. 「さめよ、さめよ。立ち上がれ。エルサレム」

  • 「さめよ。さめよ。」という「目覚めのテーマ」がすでに9節にありましたが、17節で再び登場します。そして、52章1節にも登場します。新改訳ではすべて「さめよ。さめよ。」と訳しています。原文ではすべて同じ動詞(「ウール」עוּר)ですが、51章9節と52章1節は「ウール」の基本形が使われ、51章17節は「ウール」の強意形のヒットパエル態が使われています。ヒットパエル態は自発的、主体的な行動を意味しますが、それが命令形で使われる時、そのニュアンスをどれだけ表現できるかという、難しさがあると思われます。多くの聖書はこの違いをなんとか訳し分けていますが、新改訳では敢えてみな同一に「さめよ」と訳しています。
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箇所新改訳新共同訳岩波訳フランシスコ会訳ATD関根訳中沢訳
51:9さめよ奮い立て起きよ目覚めよ喚び起こせ起きよ起きよ
51:17さめよ目覚めよ起立せよ起きよ奮起せよ目をさませ起きよ
52:1さめよ奮い立て起きよ目覚めよ喚び起こせ起きよ起きよ
  • 17節の「さめよ」「目覚めよ」「起立せよ」「起きよ」「奮起せよ」の背景には、エルサレムを見舞う二つの出来事があります。ひとつはエルサレムに指導者がいなくなること。もうひとつは滅亡と破滅で、ききんと剣によって現わされる「主の憤りの大杯」を飲まされることです。この二つの出来事が主によって解決されるために、信仰による目覚め(奮起)が促されているのです。
  • 「主の憤りの大杯」を「二度と飲むことがない」というのは、歴史において最後となる主の憤りが前提とされています。神の歴史の中でこのようなことが起こるのは、キリスト再臨の時です。神の民は反キリストをメシアとして受け入れたことで、主の手から「憤りの杯」「よろめかす大杯」を飲み干します。そのことで神の最終的なさばきと救いのチャンスがもたらされます。それが大患難の時です。しかしそこにキリストが再臨することで、主の憤りは「もう二度と」なくなるのです。そして王なるメシアによる統治がなされることで、エルサレムははじめて「慰め」を得るのです。


2014.10.28


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