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わたしの家は、祈りの家と呼ばれる

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54. わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる

【聖書箇所】56章1~8節

ベレーシート

  • イザヤ書56~66章を第三イザヤとする立場もあります。ちなみに、第一イザヤが書いた部分は1~39章、第二イザヤが書いた部分は40~55章、そして第三イザヤが書いた部分は56~66章としています。しかし、鍋谷堯爾氏はイザヤ書はすべて一人の預言者イザヤが書いたという立場を取ります。鍋谷氏は「イザヤ書を味わう」(2014.9.20発行、いのちのことば社)の中で、イザヤの生涯を三つに分け、イザヤの語った預言を三つの生涯ー第一区分を20歳頃~40歳頃、第二区分を壮年期(40~60歳)、第三区分を老年期(60~80歳)ーに分けて、それぞれ語ったメッセージを取り上げるというこれまでにない新しい切り口で執筆しています。いずれにしても、著者が同一人物か、あるいは第二、第三の人物によって書かれたかどうかによって預言の内容が変わるわけではありません。
  • イザヤ書56章はこれまでにもすでに語られていた「救いの普遍性」(49:6イスラエルの民と異邦人の救い)に再び光が当てられています。ただこの章では、異邦人を「外国人」(「ハンネーハール」הַנֵּכָר)と「宦官」(「ハッサーリース」הַסָּרִיס)に分け、「わたしの家」へ招くという終末のヴィジョンが語られています。

1. 「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」

  • この預言は新約聖書の共観福音書に引用されていますが、微妙に異なっています。

    【マルコの福音書】(11:17)は、イザヤ書の預言を正確に引用しています。
    【マタイの福音書】(21:13)は、「すべての民の」のフレーズが省略されています。
    【ルカの福音書】(19:46)は、「~と呼ばれる」の部分が、「~でなければならない」と必然的な表現となっています。

  • イェシュアの時代における神殿は、神のみこころにかなった本来の機能を果たす神殿ではなかったために、イェシュアが「宮きよめ」をなさざるを得なかったと言えます。真の神殿の機能が完全に回復するのは、終末の「メシア王国」の時です。そこでの神と人との交わりの家を「祈りの家」と呼んでいると考えられます。「すべての民」は、All nations、諸国民のことですが、彼らも神の民に加えられるのです。
  • また56章では「宦官」のことが特別に記されていますが、申命記23章1節には「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、【主】の集会に加わってはならない。」とされています。ここでの「宦官たち」とは「去勢された者」のことを意味しますが、「去勢された者」はヘブル語では冠詞付の「ハッサーリース」(הַסָּרִיס)です。しかしこの語彙は王の周辺で働く「侍従長」といった身分の高い者たちをも表わします。社会的地位が高くても、去勢された者は主の集会に加わることができませんでした。
  • ちなみに、聖書で最初に登場する「ハッサーリース」は、エジプトのパロの侍従長ポティファルに使われています。若き青年ヨセフを召使いとして買った人物です。王の側近者である侍従長、宦官の多くは去勢した者たちが多かったと思われます。また、ユダの最後の王であるヒゼキヤ王に対してイザヤが「あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう」と言っています。
  • ところで、新約聖書で登場する「宦官」と言えば、一人しかいません。それはエチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた名前さえ記されていない宦官です。その彼がなぜ使徒の働きの中に登場しているのか、そこには深い秘密があります。主の律法によれば、宦官は主の集会の中には加わることはできなかったはずです。しかしエルサレムに礼拝するためにやって来ていました。その帰途で彼は、主の使いに導かれてガザにやって来た主の弟子のピリポと出会ったのです。その出会いはまさに神の「絶妙な導き」によるものでした。宦官は馬車に乗りながら、イザヤ書53章を読んでいました。宦官はピリポに「預言者はだれのことについて、こう言っているのか」と質問した時、ピリポはそこに書かれている聖句から始めて、イェシュアのことを語りました。すると宦官は信じて洗礼を受けたのです(使徒8:26~39)。
  • この記事は「宦官」が主の家に入ったはじめての記録です。ここに、イザヤ書56章7節の「わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」という預言が成就しています。
  • それゆえ主は、「主に連なる外国人(異邦人)」に、主は「きっと、私をその(主の)民から切り離される」と言ってはならないこと、また「宦官」も「ああ、私は枯れ木だ」とも言ってはならないと語っています。「枯れ木も山のにぎわい」ということわざがあります。それは「つまらない者でも、いないよりはましである」という意味で使われていますが、ここでの「枯れ木」は「無用で、捨てられてしまう」という意味で使われています。そのように思ってはならないということです。「主のしもべ」の代償的受難によって、異邦人も宦官も主に連なり、主に仕え。主の名を愛して、安息日を守り、主との契約を堅く保つ新しい民となることが預言されているのです。
  • 56章8節には、「イスラエルの散らされた者たちを集める神」であるという主の自己宣言があります。すでに「集められた者たちに、さらに集めて加えよう」という語彙の二重表現によってそのことが強調されています。

2. いくつかの「訳語」の脆弱性

【新改訳改訂第3版】イザヤ書56章1~2節

1 【主】はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行え。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現れるのも近いからだ。」
2 幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行う人、これを堅く保つ人の子は。

  • 聖書で訳された言葉のイメージが、必ずしも、正しく認識されていないことがあります。一つの訳語によって、元々の原語の語彙がもつ概念を私たちが正しく理解できないという不具合(脆弱性)を起こしている場合が少なくありません。そのために、束縛的な律法のイメージを抱いてしまいやすいのです。

    (1) 56章1節の「公正」と訳された訳語もその一つです。原語は「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)で、これは神の統治、神の支配概念を表わす語彙です。

    (2) 「守る」と訳された原語は「シャーマル」(שָׁמַר)です。「シャーマル」には確かに「守る」という意味がありますが、「気をつける」「見張る」「心に留める」「保つ」という意味合いもあるのです。つまり、ここでは、あらゆる領域において、神の統治(支配)があることを「気をつけて」それを「見張り」、そして「心に留め」「保つ」ことが求められている動詞と考えます。単に「公正を守る」と訳されても、それがどういうことなのかがイメージできません。脚注

    (3) 「正義を行え」という訳語も「正しいことを行え」ということだと考えると正しい意味ではありません。「正義」(「ツェデク」צֶדֶק)とは、神が喜ばれる神との正しいかかわりを意味します。それは「救い」と同義です。そして「行う」の原語は「アーサー」(עָשׂה)で「築き上げる」ことをも意味します。それゆえ「公正を守り、正義を行え」とは、神の支配に目を見張り、そこに目を留めて、神とのあるべきかかわりを築き上げることを意味していると理解することができるのです。

    (4) 「安息日を守る」という訳も律法的です。十戒には「安息日を守れ」という表現はありません。正しくは、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト20:8)です。そもそも「安息」は神が創造を終えて休まれたことから来ています。しかもその神の安息は、神がお造りになったすべてのものをご覧になられて、「見よ。それは非常に良かった」と、神と被造物との間のかかわりに満足され、喜ばれたことを意味しています。それゆえ「安息日を守る」という訳語は、神とのかかわりを思い起こして、神の愛を確認し、神に信頼し、神を楽しむ日として、とりわけ区別された「聖」なる日として楽しむことを意味します。しかし「守る」という訳語が人の肉によって受け留められてしまうと、どうしても人を縛る規則として理解されてしまうのです。そのような束縛的なものがやがて訪れる世界にあるわけがありません。御国の福音の基調は「喜びと楽しみ」です。御国にはその意味での「神の安息」が備えられているのです。

  • 「わたしは、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とあります。そこに主にある者たちは「連れられて行き」、そこで主にある「楽しみ」(喜び)を味わうのです。これが新しい神の民の姿です。しかもそうしてくださるのは神ご自身なのです。「楽しむ」「喜ぶ」と訳されたヘブル語動詞は「サーマハ」(שָׂמַח)です。そんな喜びに満ちた御国の世界に私たちは招かれていることを、いつも「心に留め」ながら、「見張っている」必要があるのです。そこから、上からの新たな力が注がれるからです。

脚注
以下の二つの訳を見てみましょう。ヨハネの黙示録1章3節のみことばです。

【新共同訳】
この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。

【新改訳改訂第3版】
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。


●新共同訳(口語訳も同様)は「守る」と訳し、新改訳は「心に留める」と訳しています。「守る」と訳されると、何を「守る」ことなのかはっきりしませんが、「心に留める」と訳されると心が引き締まります。ギリシア語では「テーレオー」(τηρεω)ですが、これをヘブル語に変換すると「シャーマル」(שָׁמַר)となります。


2014.11.19


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