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わたしは破れ口に立つ者を尋ね求めた

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107. わたしは破れ口に立つ者を尋ね求めた

【聖書箇所】 エゼキエル書 22章30節

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【読み】
ヴァーヴァーシュ ーヘム ーシュ ゴーール・ガーール ヴェオーード バレツ レファーナイ ベド ハーレツ レヴィレティ シャハーッハ ヴェー マーツァーティ

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。
【口語訳】
わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。
【新共同訳】
この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。
【岩波訳】
彼女を破滅させまいとして、わたしは彼らの中に、この地のため、わが前に石壁を築き、裂け目に立つ者を尋ね求めたが、(誰も)見つからなかった。
【NKJV】
So I sought for a man among them who would make a wall, and stand in the gap before Me on behalf of the land, that I should not destroy it; but I found no one.
【NIV】
I looked for a man among them who would build up the wall and stand before me in the gap on behalf of the land so I would not have to destroy it, but I found none.

【瞑想】

「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」

「破れ口を修理する者」とは「破れ口に立つ者」のことです。
「破れ口に立つ者」とは、神と人との間に立って、その裂け目で神にとりなす者のことです。聖書の中から「破れ口に立った」模範的な人物を取り上げてみることで、「破れ口に立つ」とはどういうことかが分かります。

(1) アブラハムの場合

アブラハムがソドムにいる甥のロトとその家族のために、神にとりなしの祈りをしたことがありました。ソドムとゴモラの町は暴力と淫乱に満ちた町で、その罪は非常に重いものでした。神のさばきを受けるかもしれないとを知ったアブラハムは、主の前に立ち、近づいてこう言いました。
「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者と悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」(創世記18:23~25)。
このアブラハムの訴えに対して、主は「もしソドムでねわたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのめに、その町全部を赦そう。」(つまり、この主のことばはその町に五十人の正しい者がいないという答えでした。アブラハムは食い下がり、やり取りは続いていき、五十人から十人まで絞られいきましたが、そこにはもはや正しい者が十人もいなかったのです。ソドムとゴモラは一瞬にして滅ぼされましたが、主はアブラハムのとりなしを覚えておられて、ロトの一家は滅びから免れることができたのです。

アブラハムのように、「もし、さばきをくい止められるものならくいとめたい」という思いで、主にくい下がっていく者を「破れ口に立つ者」というのです。まさにアブラハムはその最初のモデルと言えます。

(2) モーセの場合

モーセはイスラエルの民をエジプトから救い出す指導者として神に用いられた人物です。モーセが神からの律法を受け取るために山に行っている間に、民たちは金の子牛を鋳物を造り、それを伏し拝みました。モーセは罪を犯した民のために次のようなとりなしをしました。

「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出32:31~32)

このモーセの祈りはまさにいのちがけのとりなしです。そのとりなしによって民全員が滅びることはありませんでしたが、三千人の者はその罪のために倒れました。(※後に、律法が与えられたとされる五旬節の時に聖霊が注がれたとき、三千人の者が救われています。非常に対照的な出来事です。)

(3) 使徒パウロ

モーセのような自分のいのちをかけたとりなしは、使徒パウロに受け継がれています。パウロは異邦人の救いのために福音を伝えるよう死湯に召された人物です。自分の同胞であるユダヤ人にも福音を語りましたが、なかなか信じる者は少なかったようです。パウロのこのことに心を痛めていたのです。そのパウロが次のような祈りを記しています。

「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。」(ローマ9:2~5)

特に、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」というところは、モーセと同じ心です。それほどにパウロはユダヤ人の救いを願っていたのです。

(4) 「破れ口に立つ」究極的な存在は主イエス・キリスト

エゼキエル書22章30節には、主は破れ口に立つ者を熱心に捜し求められました。しかし、だれひとりとしてそのような者はいなかったのです。それゆえユダとエルサレムは滅びました。この真理は今日においても有効な真理です。主イエスもたとえ話を用いながら、とりなしの祈り(務め)の重要性について語っています。たとえば、ルカの福音書11章の「友人にパンを借りに行く」たとえ話や、18章の「やもめの執拗な祈り」のたとえ話です。そして、教えるだけでなく、イエスご自身が私たちのために破れ口に立ち、十字架の上で身代わりの死を遂げられました。このことによって、私たちの罪に対する神のさばきがなされたのです。


いつの時代においても神が求めておられるのは、「礼拝者」と「破れ口に立つ者」です。「あらゆるときに主を賛美し、礼拝する者たち」と「絶えず破れ口に立ってとりなす者たち」、この二つの面を兼ね備えた者を神は探し求めておられるのです。神はご自身のみこころを実現するために人を求められるというのは、不変の真理です。というのも、本来、神は人を通して地を支配するように定められたからです。そのための権威を神から与えられていることを今一度じっくりと思い巡らす必要があるのです。


2013.6.7


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