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アサ王の治世 (2)

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39. アサ王の治世 (2)

【聖書箇所】Ⅱ歴代誌 15章1節~19節

ベレーシート

  • 歴代誌におけるユダの歴代の王の評価は、ダビデと心が一つであったかどうかかその判定基準となっています。「ダビデの心」とは、主を求め、主を慕い求めるという霊性です。15章には預言者オデデとその子アザルヤによって語られたことが記されています。聖書で「アザルヤ」という名を持つ人物は多くいます。「アザルヤ」は「主は助け」という意味で、とても一般的な名前だったようです。
  • ダビデとアサには共通する点があります。それはヘブル語でしか分かりませんが、彼らの名前の文字が「トマト」のように、前から読んでも後ろから読んでも同じだということです。ダビデはדוד、アサはאסאです。アサの治世10年間は「平安を保った」(「シャーカト」שָׁקַט)とあります(Ⅱ歴代誌14:1、新共同訳では13:22)。しかしそのあとに、この平安を失ってしまったようです。そこで主の霊が預言者アザルヤの上に臨んだのです。
  • 15章で登場する預言者オデデとアザルヤは、「父と子」の関係です。預言者の系譜としては珍しい例です。彼らが伝えたメッセージは、おそらく同じものではなかったかと思われます。「もしあなたがたが主を求めるなら、主はあなたがたにご自身を現わし」、勝利を得るというものです。このメッセ―ジは士師記に見られるパターンと同じです。イスラエルの民が神を捨てるとそのさばきとして外敵が攻めてきます。しかし民が主に立ち返るだけでなく、主を求めるとき、主が立ち上がって士師を起こして戦いに勝利するというパターンです。
  • これは今日の私たちにも言えることです。主を捨てるまで行かなくても、主のための働き(奉仕)に重点が置かれ、主を求めること(祈りと瞑想)が疎かになとき、恐れに陥り、その結果さまざまな問題が起こって来ます。これは教会に天来のいのちが欠落してしまうためです。
  • 歴代誌15章では、アサの治世の15年の第三の月に、彼はユダとベニヤミンのみならず、エフライム、マナセ、イメオンから来て身を寄せている人々をもエルサレムに集めて契約を結びました。その内容はまさに宗教改革です。

【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌15章10~13節
10 こうして、アサの治世の第十五年の第三の月に、彼らはエルサレムに集まった。
11 その日、自分たちが携えて来た分捕り物の中から、牛七百頭と羊七千頭を【主】にいけにえとしてささげた。
12 さらに、彼らは、心を尽くし、精神を尽くしてその父祖の神、【主】を求め、
13 だれでもイスラエルの神、【主】に求めようとしない者は、小さな者も大きな者も、男も女も、殺されるという契約を結んだ。
14 それから、彼らは、大声をあげ、喜び叫び、ラッパと角笛を吹いて、【主】に誓いを立てた。
15 ユダの人々はみなその誓いを喜んだ。彼らは心を尽くして誓いを立て、ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示されたからである。【主】は周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。


1. 「主を尋ね求める」ことと「主を慕い求める」ことはダビデの霊性

  • こうして」とは、アザルヤ、および父オデデの口を通して語られた主からの励ましに対してという意味で、アサ王は国家的レベルでその励ましに応えようとして、主にいけにえをささげただけでなく、「心を尽くし、精神を尽くして」主を求めた(דָּרַשׁ)のでした。その結果、主はその周囲の者から彼らを守り、安息を与えられた(「ヌーアッハ」נוּחַ)のです。
  • ここで交わした誓約はとても厳しいものです。なぜなら、13節に、「だれでもイスラエルの神、【主】に求めようとしない者は、小さな者も大きな者も、男も女も、殺されるという契約を結んだ。」とあるからです。国の安定はそこにあると確信したからです。これは国家的取り組みとしてはきわめてすばらしいことでした。

(1) 「求める」「尋ね求める」(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)
これは理性的な面をもって主に尋ね求めることです。

(2) 「慕い求める」(「バーカシュ」בָּקַשׁ)
これは心情的な面をもって主を慕い求めることです。

  • いずれにしても、「主を尋ね求める」ことと「主を慕い求める」こととは、主を愛することと同義だということです。


2. ヘブル的慣用句

  • アザルヤの語った言葉の中に「出て行く者にも、入って来る者にも」というフレーズがありますが、これはヘブル的慣用句です。これについては、⇒こちらを参照のこと。
  • 「行くにも帰るにも」「出ると入るとを」と訳される「出入り」とは、私たちのすべての営みのことを意味しています。

3. 「高き所」についての矛盾をどう理解すべきか

  • 15章17節と14章3(あるいは2)節には、「高い所」について一見矛盾した記述が以下のように見られます。

【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌15章17節
高き所はイスラエルから取り除かれなかったが、アサの心は一生涯、完全であった。

【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌14章3節
3 異教の祭壇と高き所を取り除き、柱を砕き、アシェラ像を打ちこわした。


●14章3節には「高き所を取り除き」とあるにもかかわらず、15章17節には「高き所はイスラエルから取り除かれなかった」とあります。これをどのように理解すべきでしょうか。時期的にはかなりの間があります。というのは、14章3節はアサが王となってすぐに行ったことでしたが、17章は、16節の出来事が背景にあったようです。つまり「アサ王の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼は王母の位から彼女を退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、粉々に砕いて、キデロン川で焼いた。」という出来事とともなって、高き所での偶像の神を礼拝する風習も姿を現わしたと言えます。この「高き所」での偶像礼拝は人間の深いところに起因する霊的問題が隠れています。目に見える偶像を壊しても、目に見えない偶像は心の中に残っているからです。


2017.4.25


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