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アセル族の女預言者アンナの存在

5. アセル族の女預言者アンナの存在

【聖書箇所】 ルカの福音書2章36節~38節

【新改訳改訂第3版】
36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。


ベレーシート

  • 幼子イェシュアの両親がエルサレムの神殿に「長子の贖い」のために来たときに、それを出迎えるように、二人の年老いたシメオン(ギリシャ名ではシモン)と女預言者アンナ(へブル名ではハンナ)が登場しています。アンナはシメオンが幼子を両腕に抱いて神をほめたたえて預言していた「ちょうどこの時、彼女もそこにいて」(2:38)とあるように、シメオンとアンナはワンセットとして登場しています。ルカはこの二人の登場をどのような意図をもって記したのでしょうか。あるいは神が、聖霊によってルカを通して、どのような意図をもってこの二人を登場させたのでしょうか。その秘密を思いめぐらしてみたいと思います。
  • これまで何度もお話ししているように、聖書に書かれている事は、決して偶然に、たまたまそこにという形で記されていることはないということです。私たちの思いを越えた枠の中で、そこに記されていることが多くあるということです。このことを念頭に置くならば、「なぜ」とか「どうして」という疑問が起こり、それが神の心の深いところへとつながっていく糸口になるのです。そうした経験を私たちは御霊に導かれて多くさせていただきたいと思います。

1. アシェル族に与えられた神の預言的祝福

  • ルカはシメオンと同時に、「アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた」と記しています。ここに登場するアンナという人物を理解する情報として、ルカはかなり個人的な情報を記しています。しかしここでは、彼女という存在の個人的な面というよりは、彼女の存在の象徴的な意味を探ってみたいと思います。なぜなら、そうすることによって、なぜルカがこの女性を登場させたのかという真意に近づくことができるのではと考えるからです。特に、彼女が「アセル」(ヘブル語では「アシェル」)族の出身であるということが重要です。とはいえ、旧約聖書における「アシェル族」についての記述はそう多くはありません。

(1) ヒゼキヤの「過越の祭り」の呼びかけに応答したアシェル族

  • 北イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされた後の時代、ユダ王国はヒゼキヤ王の治世でした。そのヒゼキヤ王のした大きな業績として「宗教改革」がありました。それは多分に預言者イザヤの影響が大きいと思われます。ヒゼキヤの父アハズはイザヤの語ることばに従わず、親アッシリヤ政策を取り、主の宮の宝物を貢ぎ、そこで働くレビ人たちをリストラしました。しかし、彼の息子ヒゼキヤは、反アッシリヤ政策を取り、かつてのダビデの時代のような礼拝を復活させるヴィションをもって、ソロモンの後に北と南に分裂してしまったイスラエルを再び一つにしようとしました。その改革の一つとして、「過越の祭り」を実施するため、ユダだけでなく、北イスラエルの人々にもそれに参加するように呼びかけたのです。
  • とはいっても、この時、すでに北イスラエルはアッシリヤによって支配され、首都サマリヤは陥落していました。北イスラエルの多くの民たちはアッシリヤの各地へ捕虜として連行されていました。ですから、ヒゼキヤが呼びかけたのは、アッシリヤの手から逃れた「残りの者たち」だったのです。ヒゼキヤは親衛隊をベエル・シェバからダンに至る全イスラエルの町々(普通は「ダンからベエル・シェバ」という言い方で北から南までのすべてを意味しますが、ここではあえて南から北まで)に遣わして、過越の祭りをしようと呼びかけたのでした。そのために、本来、定められた過越の祭りの日をひと月遅らせることを協議して決議していました。いわば、この時、ヒゼキヤは、全イスラエルの回復を実現し、神の民としてのアイデンティティを回復しようとしたのです。
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  • それに対する反応はどうだったのでしょうか。聖書によれば「人々は彼らを物笑いにし、あざけった。ただ、アシェル、マナセおよびゼブルンのある人々はへりくだってエルサレムに上って来た」とあります。しかし、彼らのうちのある者が、この過越の祭りの規定からはずれた方法で過越のいけにえを食べてしまったので、ヒゼキヤは特別に彼らのために祈ったとあります。規定にはずれた者たちはエフライムとマナセ、イッサカルとゼブルンの者の名があげられていますが、「アシェル」の名前はその中にありませんでした。ということは、「アシェル」から来た者たちは規定にしたがって参加したということになります。長い間、主の律法から離れていたにもかかわらず、規定に従ったということは驚くべきことです。彼らの「残りの者たち」はエルサレムに来ただけでなく、明確に主の規定通りに行うことが出来たということです。
  • ここで重要なことは、ヒゼキヤの呼びかけに応答して、全イスラエルの神の民としてのアイデンティティを回復しようとしたことに、アシェル族のある者たちは協力したという事実です。このことはヒゼキヤ王を大いに喜ばせたに違いありません。

(2) ヤコブの預言的祝福

  • ここで、ヤコブを通して「アシェル」に与えられた神の預言的な祝福に目を留めてみたいと思います。アシェルはヤコブの八番目の息子でした。ヤコブの遺言(12人の息子たちに対する祝福)の中で語られたアシェルに対する預言は、「その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す」(創世記49:20)とあります。
  • 確かに、アシェル族はやがて約束の地においてフェニキヤに隣接する地中海沿岸地帯を相続します。そこは豊かな土地であるばかりか、フェニキヤの豊かな物資が入って来る地域でした。その豊かさのゆえに「王のごちそうを作り出す」とあります。ソロモン王の時代には各部族から食糧が王宮にとどけられましたが、アシェルはその中でも抜きんでたごちそうを送ることが出来たのかもしれません。ともかくアシェルは、「王のごちそうを作り出す」と預言されているのです。

(3) モーセの預言的祝福

  • モーセの最後の各部族に対する祝福の中では、アシェル族は次のように語られています。「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きる限り続くように。」(申命記33:24~25)
  • 申命記33章でのアシェル部族の祝福は、「その足を油の中に浸すようになれ」とあるように、兄弟たちの中で最も祝福され、愛されるようになるとあります。「油」は「オリーブの油」のことであり、それは祝福の象徴です。そしてさらにアシェル部族が住む町の防備が堅固であるようにとあり、さらに「あなたの力があなたの生きる限り続くように」ともあります。ここの「力」と訳された「ドーヴェー」דֹּבֶאは旧約でここ1回しか使われていないので意味の確定は難しいところですが、ある人はこの「ドーヴェー」を「快適な歩み」(アメニティ・ライフ)の意味だとしています。つまり、「快適な歩みがあなたの生きる限り(日々)あるように」という意味です。ちなみに、バルバロ訳ではこの「ドーヴェー」を「安泰」と解し、「その安泰は日々の続く限り続くように」と訳しています。そのバルバロ訳では前半の部分を次のように訳しています。「子らの中でいちばん祝されたアシェル。彼は兄弟の中で秘蔵の子である。」
  • いずれにしても、「アシェル族」は、ヤコブの息子たちの中では神の「秘蔵の子」なのです。まさに不思議な部族という印象を受けます。その「アシェル族」出身の女預言者アンナ(ハンナ)がイェシュアの誕生の時期に登場しているのです。イスラエルの民の中で、「アシェル族」出身で特に有名な人物、名を挙げた人物はいません。しかし、イェシュアの時代に来て、アンナという女預言者が登場していることは注目すべきことです。シメオンにしても、ユダ族の中に吸収されてしまった部族です。そうした部族の出身の者が、幼子イェシュアが約束されたメシアであると悟ったということは神の不思議なご計画です。特に、アシェル族のアンナはイスラエルの中でも「秘蔵っ子」の子孫なのです。その彼女がエルサレムで長い間、神殿から離れることなく、断食と祈りをもって、昼も夜も神に仕えていたのです。
  • ここで、私たちも「このアンナのような生き方をしましょう」と勧めることは私にはとてもできません。どこにも旅行することなく、ひたすらエルサレムの神殿にとどまる生き方ですから、とても地味な生き方です。しかし、「アシェルは王のごちそうを作り出す」とヤコブは預言しました。それは、単なる食べ物のことではなく、「王である神を楽しませる存在となる」という意味にも解することができます。そのような意味で理解するとすれば、「アンナのような生き方をしましょう」と勧めることができます。神との親しいかかわりを何よりも大切にする、いわば神の「秘蔵っ子」としての生き方です。マリヤ・スタイルの生き方です。

2. ユダの家とイスラエルの家を代表するシメオンとアンナ

  • シメオンがユダ部族の代表であるとすれば、神の「秘蔵っ子」であるアンナは失われてしまった北イスラエルの10部族を代表しているとも言えます。この二人が幼子イェシュアの前で名を連ねる事によって、彼らは「全イスラエルを象徴している存在」と言えるのではないかと思います。シメオン族からもアシェル族からも、特に目立った人物、傑出した人物はそれまで現われませんでしたが、ここに来て、目立つことなく、控えめではありますが、全イスラエルを象徴する存在として登場しているのです。登場させているのはルカではなく、ルカを通して働いている神ご自身です。また、シメオン族とアシェル族とは、全イスラエルの南と北を代表する部族でもあるのです。「ダンからベエル・シェバまで」と言えば、「北から南までのすべての地域」を意味するように、「アシェル族とシメオン族」と言えば、「北から南までの全部族、すなわち、全イスラエル」を意味すると考えてもおかしくありません。
  • 私たちは、預言者アンナという個人にのみ注目すると、聖書が示そうとしている事柄が見えなくなります。もう少しグローバルな面から、神の目線から彼女の存在に目を留める時、驚くべき神の秘密が見えてきます。その秘密とは、彼女の存在が「異邦の地に散らされたイスラエルの回復」を暗示しているということです。

画像の説明

  • シメオンは「イスラエルの慰めを待ち望む」者でした。アンナは「エルサレムの贖い」を語りました。「イスラエルの慰め」と「エルサレムの贖い」とは、全イスラエルの回復を意味しています。当時のユダヤ人たちの考えていた「イスラエルの回復」という概念はあくまでもユダ族の回復でした。しかし聖書はいつでも、「全イスラエル」、つまりすでに失われてしまった北の10部族と南のユダに対して、神が再び彼らを回復することを預言しているのです。
  • たとえば、その一つを取り上げてみましょう。有名なエレミヤ書の31章にある「新しい契約」です。とりわけ、エレミヤ書30~33章は全イスラエルの回復を預言している特別な章です。それを「見よ。その日が来る」という特徴的なフレーズで語られます。エレミヤは南ユダ王国に対して神のことばを語った預言者です。その彼がすでにアッシリヤによって滅ぼされた北イスラエル(10部族)に対しても、将来なされる回復の預言を語っているのです。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書

30:3見よ。その日が来る。─【主】の御告げ─その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの繁栄を元どおりにすると、【主】は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」
30:9 彼らは彼らの神、【主】と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう。


31:1 「その時、─【主】の御告げ─わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」
31:3 【主】は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
31:4 おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。
31:5 再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。
31:6 エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、【主】のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ。」
31:7 まことに【主】はこう仰せられる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらのために叫べ。告げ知らせ、賛美して、言え。『【主】よ。あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』
31:8 見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には目の見えない者も足のなえた者も、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。
31:9 彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから。」
31:10 諸国の民よ。【主】のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る」と。
31:11 【主】はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。


31:31 見よ。その日が来る。─【主】の御告げ─その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。─【主】の御告げ─
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。─【主】の御告げ─わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。


33:14 「見よ。その日が来る。─【主】の御告げ─その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する。
33:15 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽ばえさせる。彼はこの国に公義と正義を行う。
33:16 その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『【主】は私たちの正義』と名づけられる。」

  • 長々と引用しましたが、エレミヤの預言は「イスラエルの家とユダの家」に対するものです。全イスラエルの回復の預言です。「新しい契約」の預言の成就は、本来的に、「イスラエルの家とユダの家」に対するものです。主である神はやがて国々に散らされたイスラエルの民(10部族)をエルサレムに集め、ユダの家とひとつにし、12部族のすべてを回復するという預言なのです。そのとき彼らを治める王がだれかと言えば、ダビデの若枝、すなわちダビデの子であるメシアであるイェシュアなのです。
  • 残念ながら、このエレミヤの預言は今だ実現してはいませんが、やがて必ず実現するのです。歴史はその方向へと確実に導かれていくのです。主は決してイスラエルの民を見捨てられることはありません。主は必ず彼らを顧みられて、彼らがみな再びエルサレムの地に戻される時が来るのです。
  • ここで重要なことは、「イスラエルの家」に、異邦人の中で神の召しを受けた私たちが含まれるのです。つまり、異邦人がイスラエルの家に「接ぎ木」されるということです。実は、その深い計画のために、イスラエルの家が異邦人の中に追いやられたのです。
  • これは私たちにとって衝撃的な概念かもしれません。私たちクリスチャンは、救いというものを、あまりに個人的なものとして教えられているために、こうした概念をなかなか理解できません。聖書の言う救いを個人的な救い、あるいは地域教会中心の枠で捉えるにとどまっている限りは、こうした神の救いの全体像をなかなか理解することができません。たとえば、「新しい契約」という概念も、クリスチャンは即、自分自身に当てはめてしまいます。ですから、イスラエルの家とユダの家に結ばれた契約という枠は関係なしに考えてしまいます。同様に、使徒パウロの語るキリストにある一致という概念も、クリスチャン同士の一致だと考えてしまっています。しかし使徒パウロが語る「キリストにある一致」という概念もクリスチャン同士の一致だと考えてしまうのです。しかし、使徒パウロが語っている「キリストにある一致」とは、「ユダヤ人と異邦人の一致」なのです。それをパウロは「新しいひとりの人」という言葉で語っていますが、なかなか教会の牧師でもそのことを理解できていない場合が多いのです。なぜなら、そこには「置換神学」の弊害がしっかりと横たわっているからです。イェシュアの言う「一致」も、ヨハネの福音書で同じく「ユダヤ人と異邦人の一致」について語っているのですが、それをクリスチャン同士の一致というレベルでしか理解されていないことが多いのです。旧約の預言書を丁寧に読み直す必要があるのです。

最後に

  • 聖書を通して、神の救いのご計画を正しく理解する必要があります。ルカの福音書におけるシメオンとアンナの登場は、一見、なんら特別な関係があるようには見えませんが、聖書の救いという概念を正しく知るならば、決して無関係な登場ではなく、また神の計画に矛盾したことではなく、むしろ神の緻密なご計画の流れの中で登場しているのです。全体が見え始めて来ると、小さな枝葉といわれる部分も密接なかかわりをもってつながっているのが見えてくるのです。その全体を把握するキーワードは「イスラエルの回復」ということです。聖書を読んでいくとき、このキーワードを使わなくてはなりません。そうでないと、本筋から離れた所に焦点が移っていくのです。神のご計画と神の心をもっと深く理解できるように、啓示の御霊の助けが与えられるよう、祈りつつ瞑想することが必要なのです。

2012.12.23


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