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アブラハムとサラの改名の秘密

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15. アブラハムとサラの改名の秘密

【聖書箇所】 創世記 17章

はじめに

  • 創世記17章で神に召し出されたアブラムとサライの二人が、神から改名が命じられます。そのときに語られた神の言葉は次のとおりです。

    「あなたの名は、もうアブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。」(17:5)。

    「あなたの妻サライのことだか、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によってあなたのひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが彼女から出てく。」(17:15~16)

  • 名は実体を表わすと言われるように、古代の中東においては、人の名前には意味があります。現代の日本は名前の「響きの良し悪し」で自分の子に名前をつけるという風潮がありますが、本来、名前には親の子に対するメッセージ性が込められていました。17章では神が親のつけた名前を変えて、新しい名前とすることを命じたのです。当然、そこには名前を改めるにふさわしい存在となることが求められています。アブラムは「アブラハム」に、サライは「サラ」にです。夫婦ともども改名が命じられたのです。彼らに対して、神が改名を命じたその真意は何なのか、それがここでの瞑想のテーマです。
  • いろいろな学者が改名を語源的に調べて(こじつけて)注解書で述べていますが、今もって不明な点が多いようです。「アブラム」の「アブ」は父親を意味します。「ラーム」は高めるという意味です。つまり「父が高められる」という意味。それが「ハ」が入ることでどうして「多くの国民の父」との意味になるのか。その理由として「多くの」という意味を持つ形容詞「ラーハーム」が合わせられたという考え方があります。また、サライの場合は「私の女王」という意味だそうです。おそらくサライは生まれた時から美しく、他とは異なった気品を感じさせる子だったのかもしれません。彼女が65歳になっても「非常に美しいので」エジプトの高官たちが彼女を見て、王のパロに推奨したので彼女はパロの宮廷に召し入れられたことが創世記12章に記されています。その「サライ」の「イ」が削除されることで、なぜ「多くの国民の母」という意味になるのかは語源的に不明なのです。
  • ところで、創世記17章で親のつけた名前を、神が勝手に改名して今までの名前で呼んではならない、お前の名前は◯◯となると一方的に改名を命じたのです。アブラムは「アブラハム」に、サライは「サラ」に、です。夫婦ともども改名が命じられたその真意はいったい何なのかを「3D瞑想法」で考えてみたいと思います。
  • 直感的ではありますが、ここでの改名は全聖書的な、全救済史的な意味合いが込められていると考えるほうが自然です。これから述べることは、私の個人的な独断と偏見に基づいているかも知れませんが、あえて、恐れることなくまとめてみたいと思います。

1. 改名の出来事のコンテキスト

  • そもそも創世記17章において、なぜ、神は改名を命じたのかを考える必要があります。16章では、アブラムとサライが軽率な人間的画策によって神の約束を実現させようとして、サライの女奴隷ハガルをとおして自分たちの子どもをつくろうとしました。その結果、イシュマエルが生まれますが、同時に、13年という期間にわたって神は彼らに顕現されることもなく、語られることもありませんでした。彼らは神不在の経験を余儀なくされました。そして13年目に、つまりアブラムが99歳、サライが89歳のときになって、神は再び彼らに現われたのでした。その最初の語りかけはこうです。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしはあなたをおびただしくふやそう。」(17:1~2)

  • 約束の更新において、神ご自身は自ら「わたしは全能の神である」と宣言します。そしてその神にふさわしくあるべきアブラムに対する要求は、「神の前を歩み、全き者であれ」というものでした。ここでの「全き者」(「ターミーム」תָמִים)は、道徳的に完全な者であれということではなく、神とのかかわりにおける完全さ、すなわち、神を信頼することにおいて完全であれ、という神の要求です。この要求の背景にはアブラムの失敗の経験があります。神のアブラムに対する要求の目的は「わたしがあなたを多くの国民の父とする」ことです。その目的の実現のために「神の前を歩み、全き者であれ」という要求こそ、改名の目的を実現するものであると考えなければなりません。そしてこのあり方こそ、彼をして、神の「多くの国民の父」となることができるということなのです。確かに、アブラムが妻サライの提案を受け入れたときには、神の要求する意味で「神の御前を歩ん」ではいなかったということです。

2. 改名の鍵となる「へイ」הという一文字

  • 「アブラハム」という改名は、それまでの「アブラム」に一字「ハ」が入るだけ(ヘブル語では「ヘー」הという一字が入るだけ)に過ぎませんが、救済史的な視点からすればきわめて重要な一字なのです。サライも実は「ヨード」(י)が抜け落ちて、その代わりに「へー」(ה)が付きます。

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名前の改名おいて、アブラムもサライも「へー」(ה) という一字が付けられたのは何故か。ひとつの仮説ですが、それは「ה」は、「ハーラフ」(הָלַךְ)の頭文字だということです。脚注

halakh

  • 「ハーラフ」(הָלַךְ)とは「歩く、歩き回る」という意味の動詞ですが、17章1節に「わたしの前に歩み」(原文では「わたしの顔の前に歩き回り」)とあります。アブラハムの召命の記事(11:31)にも「彼らはカナンの地に行く(הָלַךְ)ために、ウルから一緒に出かけた」とあります。つまり、漂泊の旅に出たのです。12章1節にも、神はアブラムに「あなたは父の家を出て(הָלַךְ)」と語られ、父の家から離れるよう語られました。そして彼は主が告げられたとおりに「出かけ」(הָלַךְ)、ハランから「出た」(הָלַךְ)のです。そしてカナンの地へ赴き、南のネゲブの方へ「旅を続けた」(הָלַךְ)のです。そして飢饉のためにエジプトへ逃れました。しかしエジプトのパロは彼らをエジプトから追い出したために、「旅を続け」(הָלַךְ)て、かつて祭壇を築いた場所にまで、戻っています。このように、アブラハムの召命は「漂泊」と密接にかかわっています。つまり、歩き回っているのです。一つのところにとどまることなく、常に漂泊の旅を続けているのです。それは後のイスラエルの民の姿でもあり、やがてはイエス・キリストにある者たちが天の都を目指して旅している姿でもあります。私たちはこの世にあっては寄留者にすぎないのです。
  • アブラハムはその意味では「漂泊の民の父であり、モデル」なのです。ヘブル人への手紙11章にこうあります。

    【新改訳改訂第3版】
    8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
    9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
    10 その都を設計し建設されたのは神です。
    11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
    12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
    13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
    14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
    15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
    16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。


3. アブラハムの生涯における「ハーラフ」הָלַךְという動詞とのかかわり

(1) アブラハム以前の「ハーラフ」の系譜

  • 「ハーラフ」という動詞は、旧約においては1549回も使われていますが、その最初に登場するのが創世記のエデンの園においてです。そこでは神ご自身が「そよ風の吹くころ、彼ら(アダムとエバ)は園を歩き回られる神である主の声を聞いた」(3:8)とあります。神が園を歩き回られる(הָלַךְ)のは、人との交わりを求めておられるからです。単に、散歩していたわけではありません。神と人とが交わりを持つ場所こそエデンの園だったからです。
  • 創世記5章22節と24節では、エノクが「神とともに歩んだ(הָלַךְ)」とあり、6章9節ではノアがやはり「神とともに歩んだ(הָלַךְ)」と記されています。これは二人だけの特筆すべき記述です。

(2) アブラハムの生涯における「ハーラフ」

  • アブラムがウルから呼び出されて、親族、ならびに父の家を出て(הָלַךְ)、カナンまで導かれました。また13章では、甥のロトからも離れた後に、神は「立って、その地を歩き回りなさい(הָלַךְ)。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」と仰せられました。
  • そして16章の信仰の失敗があり、13年間の沈黙の後に、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と語られています。しかも、ここでの「歩み」という要求はヘブル語の強意形ヒットパエル態(再帰態)が使われています。これは自ら、主体的に、自覚的に、自発的に歩むことを意味しています。ところが、この神の前を歩み、神とのかかわりにおいて完全な信頼をもって生きるということはそう簡単なことではありません。人間がもっている常識の枠を超えることを要求されるからです。
  • その証拠に、改名を命じられて、その意図とする「あなたは多くの国民の父」となると言われても、自分の妻から子が生まれるということはアブラハムには考えられなかったのです。「私は全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」という神の宣言を正しく理解することはまだアブラハムにはできませんでした。その証拠が17章16, 17節です。
    「わたしは彼女(サラ)を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る」と言われた時、アブラハムはひれ伏しながらも、心の中で「笑った」のです。そして「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、90歳の女が子を産むことができようか。」と。そして「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように」と言います。これはイシュマエルを約束の子として受け入れ、認めてくださいという願いです。しかし神は、「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする」と語られたのです。
  • 改名の意味が次第に明らかになりつつあります。つまり、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」ということばをいつも自覚して生きるようにするために、改名を命じたのです。この改名の意味を悟ったアブラハムは神の命じられるままに、そのしるしとしての「割礼」を受けたのです。今で言うと、「洗礼式」に近い意味合いです。アブラハムにかかわるすべての男子が神との契約のしるしとしての「割礼」を受けたのです。「割礼」とは「肉によってではなく、霊によって生きる」ことを啓示する預言的奥義です。
  • そのような経験をしたアブラハムは22章で彼の信仰の生涯において最大の試練を受けます。22章で、再び、神である主はアブラハムに現われ、「ひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい(הָלַךְ)。」と言われ、彼は従います。息子のイサクもいけにえを持たずに行こうとする父と一緒に歩き続けた(הָלַךְ)とあります。なにかしら不穏な空気が立ちこめる中、父は息子を連れ(הָלַךְ)、息子のイサクは父と一緒に歩き続けた(הָלַךְ)のです。興味深いことに、アブラハムの生涯においていつも「ハーラフ」という言葉が結びついていますが、それもここまでです。なぜなら、信仰の旅路はここにおいて究極に至ったからです。

4. 「ハーラフ」(הָלַךְ)は神と人とのすべての歩みを表わす統括用語

  • このように「ハーラフ」(הָלַךְ)は、信仰によって、神とともに歩き回る生き方を意味しています。これがアブラハムの生涯の目的であり、信仰の民の父であることの所以です。神の民イスラエルの歴史を鑑みるならば、エジプトから荒野へ、そして約束の地からバビロンの地へ、またそこから約束の地への帰還、そしてまたそこから世界中に散っていく離散の歴史を経験しながら、今や、イスラエルの国が建国されて、世界中のユダヤ人たちが祖国に戻っている現実があります。彼らは漂白の民であり、その不安定さと苦しみによって、信仰の民として練り上げられていったと言えます。
  • 「アブラム」が「アブラハム」へ、「サライ」から「サラ」へ。一つの文字「へー」ה が入ることでそこにアブラハムとサラから始まる信仰の民のあるべき生き方、生きる道を絶えず意識して生きることを神は求められたのではないかと思います。それは人間的な視点から見るならば、苦しみを伴いますが、彼らと彼らに続くイスラエルの民はその苦しみをとおして、天にある確固とした希望を見出す民となったのです。神を信頼することによる救いの希望は、漂白の旅の苦しみの中で培われたのです。
walking
  • まさに、聖書の意味する「ハーラフ」(הָלַךְ)は、単に「歩む、歩き回る」という意味を越えて、神に立ち帰り、神とともに歩み、神の前に歩むという生き方そのものを意味します。それは他の動詞である「交わり」「信頼」「求道」「共生」といった喜びを表わす意味にもなり、「離別」を余儀なくされることばでもあります。いわば、「ハーラフ」(הָלַךְ)は神の前における人間のすべての行為を要約する統括用語なのです。しかも、これらの行為を集約する比喩は「漂泊」「旅人」「寄留者」です。


最後に

  • アブラハムという改名の秘密についてこれまで見てきましたが、神がアブラムをアブラハムに、妻のサライをサラに改名を命じたのは、夫婦がそれぞれ多くの信仰の民の父と母になるために、神の御前を「ハーラフ」すること、つまり、神の御前に信仰をもって歩むことでした。それはとりもなおさず、神への信頼をゆるぎないものとする生き方と言えます。しかしそのことも神がしてくださるのです。神がアブラハムに語ったことばを心に留めたいと思います。「あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」という神の約束を、信仰をもって自覚的に生きること、それが改名の秘密だったのです。
  • 信仰というと私たちの側の問題と考えてしまいますが、実はそうではありません。神を信じ、神を信頼することができるのは神のわざなのです。つまり、神が私たちのうちに信仰を育ててくださるのです。ですから信仰は神の恩寵なのです。
  • イエスは「私たちは、神のわざ(複数)を行うために、何をすべきでしょうか。」という問いに対してこう答えられました。「あなたがたが、神が遣わされた者を信じること、それが神のわざ(単数)です。」と(ヨハネの福音書6:28~29)。信仰は神の恩寵のわざそのものであり、奇蹟そのものです。

脚注
●一つの解釈として、ゲマトリアによる解釈があります。サライの「ヨッド」(י)の数は10です。その半分は「5」ですから、それに相当する数は「ה」(へー)です。つまり、サライの「ヨッド」の半分を夫アブラハムに与え、自分もその半分を残したという考えです。確かに辻褄は合いますが、その解釈では神の意図が見えてきません。

2011.8.27


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