アブラハムの信仰の最大の試練
2. 創世記 Ⅰの目次
22. アブラハムの信仰の最大の試練
【聖書箇所】創世記 22章1節~19節
はじめに
- アブラハムの生涯においてとりわけ重要なのは召命と死です。聖書の箇所としては12章から25章までですが、最後の方から、つまりアブラハムの生涯の終りを覗いてみましょう。25章7, 8節です。
【新改訳】
「以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」(25:7, 8)【岩波訳】
「アブラハムが生きた生涯年はすなわち百七十五年であった。アブラハムは老いて満ち足り、やすらかな老年を迎え、息を引き取って、死んだ、そして、先祖のもとに加えられた。」(25:7, 8)
- この箇所にはアブラハムが175歳で亡くなったこと。それは召命からちょうど百年後でした。彼は平安な老年を迎え、長寿を全うしたことが分かります。つまり、ここでの記述はアブラハムが神によって召された目的が十分に果たされて、平安の中に過ごした後に、亡くなったということです。
- ここの箇所をヘブル語原文でみると、「すばらしい白髪をしたアブラハムは、年老いて、満ち足りて(「サーヴァ」שָׂבַע)、息絶えた」となっています。「平安な老年」「満ち足りて」ということばから、彼の生涯の中において、神が「あなたを多くの国民の父とする」という神の目的が十分に果たされたことを知ることができます。ではそれはいつ完成されたのでしょう。また17章で改名されたとき語られた「あなたを多くの国民の父とする」とは、いったいどういう意味なのでしょうか。
1. アブラハムの生涯における22章の位置づけ
- アブラハムの死においては、今見たようにすでに十分に神の召しが実現していますので、それに至るまでのプロセスを概観してみたいと思います。創世記はアブラハムの生涯を全13章にわたって記していますが、私たちがアブラハムの信仰に学ぶためには、その生涯の一部ではなく、常に、全体を知って瞑想する必要があります。そのときに、聖書全体との密接なかかわりを見出すことができるからです。とりわけ、召命の出来事から、もう一度簡単に振り返ってみます。
- 神の召しに従ってアブラハムは信仰の旅立ちをしたのです。当時の旅というのは、今日の旅行の楽しさはありません。すべての持ち物をかかえながら、いつ強盗に襲われるかもしれない、いつ自分の身に危険が及ぶとも限らないものだったのです。城壁のある町に住むような安全性はありません。さまようという旅はいつも危険と背中合わせだったのです。
- ですから、神の召しに従うということは信仰が求められます。アブラムも、自分がどこから離れるべきか、そのところが、「あなたの地」⇒「あなたの親族」⇒「あなたの父の家」から離れて、神が示す地へ行きなさいというのが、アブラムに求められました。その召しには神からの特別な祝福があること、また、地上のすべての民はあなたによって祝福されるということ、つまり、あなたは神の祝福をこの地上もたらす源的存在になるということでした。なんと偉大な使命でしょうか。最初は、アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた (旅立った)のです。ところが、神の呼びかけに答え、従うということは簡単なことではありませんでした。特に、多くの子孫を与えるという約束について信じることはとても難しかったのです。
- しかし、多くの訓練を経て、アブラハムの信仰は次第に成長していきます。再度、創世記15章を瞑想していてハットしました。私も「ハ」が入ったようでした。15章には、アブラムが神の約束に従ってこれまで「歩いて」きたのに、一向に子どもが与えられないことに少々苛立ちを感じていました。いつということが分かれば少しは気が楽でしょうが、「いつ」ということは一切告げられないのです。そして、あなたの子孫は「砂の数ほどになる」とか「星の数ほどになる」という約束だけが告げられるのです。しかし「アブラムは主を信じた。」のです。それを神は義と認めました。つまり神とのかかわりにおいて最も正しいかかわりだと神様が認めてくださったのですが、その「主を信じた」と訳されていることばの原文は、なんと使役形なのです。どういうことかというならば、「アブラムは主によって信じさせられた」とあるのです。「信じるようにさせられた」ということです。
- 信仰というと、私たちの意志が求められますが、神が真実な方であるというあかしが全くなければ信じることさえできないのです。アブラムは自分のこれまでの歩みの中での神の真実さを考えてみるなら、信じざるを得ないのです。それが「信じさせられた」という意味です。神の愛を全く感じないところで、神を信じることは不可能です。神の真実を少しも経験することなく、神を信じ続けることはできません。必ず、どこかで折れてしまいます。信仰は神によって信じさせられていくという面があるということです。16章の失敗も神は活かして、17章での名前の改名も含めて、次第にアブラハムとサラの信仰を成長させていきます。その信仰の究極が22章にあるのです。
2. 最大の試練
- 22章にはアブラハムの信仰の真骨頂を見ることができますが、そこに至るための最後のテスト(信仰の磨きのための試練)があったのです。
- 創世記22章1~8節、9~14節、15~19節・・・これらの中に「ハーラフ」(הָלַךְ)という動詞がなんと6回も出てきます。その中で重要な「ハーラフ」は1節、3節、6節、8節の4つです。
- この22章の「行く」「向かっていく」「歩いて行く」「一緒に進んでいった」「いっしょに歩き続けた」とありますが、ここには大いなる信仰のテストが課せられているのです。どういうテストかといえば、それは、やっと自分に与えられたひとり子イサクを神のいけにえとしてささげよというテストでした。このテストの真意はアブラハムがイサクと直接関係を持っているのか、それとも神と直接関係をもっているのかが試そうとされたものでした。
- イサクは霊的な働きを象徴しています。神は私たちを召して霊的な働きをするように命じられるとき気が進まない時があります。なぜなら、私たちはイシュマエルを好み、自分の働きをしたいと思っているからです。しかし次第に私たちは自分の働きを捨てて、神の働きをしたいと思うようになります。しかしそこでも危険性が出てきます。というのは、イサクがいない前はイシュマエルをつかみますが、イサクを得た後はイサクをつかもうとします。このように、私たちは神と直接に関係を結んでいるのではなく、働きと関係を結んでいることが多いものなのです。神が私たちの働きを失敗させるのは、私たちが働きと直接的な関係を持ってはならないことを私たちに教えるためです。ここ22章での試練は、アブラハムがイサクと直接の関係を持っているのか、それとも神と直接の関係をもっているのかが試されたといえます。
- 「イサクをささげよ」との主の声を聞いたアブラハムは躊躇することなく、翌朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げる物(いけにえ)に用いる薪を割り、二人の若者とイサクを連れて、神の命じられたモリヤの山に向かって行ったのでした(3節)。
- 信仰のテストに合格したアブラハムに主が語られました。
22:15 それから【主】の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、
16 仰せられた。「これは【主】の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
3. アブラハムが「信仰の父となる」とはどういうことか
- この答えの鍵は22:16のことばにあるように思います。それは、「あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから」ということばです。それゆえに、神の約束が再度、語られているのです。
- どうして神の要求する大胆なことにアブラハムは従うことができたのでしょうか。一見、信じられないこの神秘に満ちた行為について、新約聖書で二箇所においてわかりやすく述べています。
(1) ヘブル人への手紙11章17~19節
17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。
(2) ローマ 4:16~23
16 ・・「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
- 「彼は信仰によって神様に受け入れられ、正しい者と認められた」という、このすばらしいことばが書かれたのは、ただアブラハムのためだけでなく、私たちのためでもあったのです。 それは、主イエス様を死人の中から復活させた神様の約束を信じる時、神様がアブラハムと全く同様に、私たちをも受け入れてくださることを保証しています。
- ローマ4:24のことばこそ、アブラハムが「信仰の父となる」ことの内容です。私たちが私たちの罪のために十字架にかけ、私たちのすべての罪を赦して神の前に罪なしとしてくださっただけでなく、死からよみがえらせて、永遠に神との交わりを可能にしてくださったのです。イエス・キリストこそ私たちの唯一の救い主です。この方を私のために使わして下さった父なる神を信じること、これが永遠のいのちを持つことであり、救われることなのです。
- 神を信じることは奇蹟です。それは信じることができるように神が働かれているのです。これは聖霊の神秘なる働きで、だれにでも働いておられるはずなのですが、だれが神を信じるのかはだれにも分からないのです。それはまさに神秘であり、神の奇蹟、神の独占のわざ、働きとしかいいようのないものなのです。ですから、神を信じるように呼びかけられ、神を信じるようになった者は、いよいよ神を信じる道へと導かれるように神に期待して祈らなければなりません。
- イエスのもとに来た人々が、「私たちは、神のわざを行うために、何をなすべきでしょうか。」と尋ねました。これでしょうか、あれでしょうか、それとも・・をしなければならないのでしょうかと尋ねました。彼らが聞いた神のわざとは複数形です。それに対してイエスはこう答えられました。「あなたがたが、神が遣わされた者―神の御子イエス・キリストのことーを信じること、それが神のわざです」と答えられました。それが神のわざの「わざ」は単数形です。つまり、ただひとつのこと、神が遣わされたイエス・キリストを信じることこそ、神の偉大なわざであり、神の奇蹟なのだと言われたのです(ヨハネの福音書6章28~29節)。なぜならイエス・キリストを信じる信仰によって、すべての神の働きがはじまっていくからです。神の祝福の源となるからです。神を信じることのすばらしさをもっともっと知る者にさせられたいと願います。
2011.9.7
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