****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イェシュアにつまずいた郷里の人々

文字サイズ:

59. イェシュアにつまずいた郷里の人々

【聖書箇所】マタイの福音書13章53~58節

ベレーシート

●マタイ11章1節~14章12節には、以下の図のように、イェシュアにつまずいた人々のことが取り扱われています。そしてその中に「天の御国の奥義のたとえ話」が挿入されています。

画像の説明

●イェシュアが宣教を開始された頃は、人々はイェシュアの話を聞き、奇蹟を期待していました。しかし、そうした歓迎ムードはいつしか鎮静化し、人々の期待するメシア像とイェシュアの実像とのずれが目立つようになり、その結果、イェシュアにつまずいた人たちがいたのです。この時代のほとんどの人々が、イェシュアを理解することができなかったのです。

●その最初の人物がバプテマスのヨハネでした(11:1~15)。彼はイェシュアがメシアだと信じましたが、その働きの様子を聞き見聞きして疑いはじめたのです。その次にイェシュア時代の民衆です(11:16~19)。彼らは無関心でした。第三は、イェシュアの活動拠点となった町々(11:20~24)です。数々の力あるわざが行われたにもかかわらず、悔い改めることはありませんでした。第四は、宗教的指導者たち(12:1~50節)です。彼らの律法解釈とイェシュアの解釈が異なっていたためです。そして第五はイェシュアの郷里であるナザレの人々(13:53~58)、そして最後に、ガリラヤの領主ヘロデ(14:1~12)です。この一連の話の中に「天の御国の奥義のたとえ話」(13:1~52)が挿入されているのです。これらの人々はイェシュアと出会いながらも、イェシュアのことが分からずに、誤解してつまずいたのです。今回は、イェシュアの郷里であるナザレの町の人々のつまずきを取り上げてみたいと思います。

1. イェシュアの郷里である人々の反応

【新改訳2017】マタイの福音書13章53~58節
53 イエスはこれらのたとえを話し終えると、そこを立ち去り、
54 ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。
55 この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
56 妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう。」
57 こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。

●ここでまず注目すべき点は、イェシュアの郷里(「パトリス」πατρίς、「エレツ」אֶרֶץ)の人々がイェシュアをどのように見ていたかという点です。ここではイェシュアの郷里が「ナザレ」であることがテキストには記されていません。イェシュアの故郷と言えば、おのずと「ナザレ」であると分かりますが、あえて「ナザレ」という町の名が隠されているように思われます。その隠された意図をこれから見ていきたいと思います。ちなみに、「郷里」という語彙はマタイの場合、今回の箇所(13:54, 57)の2回しか使われていません。

●イェシュアが公生涯の働きに入られてから、その働きのおもな場はカペナウムでした。「天の御国の奥義のたとえ話」を語られた後に、そこを去って、ご自分の郷里に行って、会堂(「スナゴーゲー」συναγωγή)で人々に「御国の福音」を繰り返し教えられたのです(未完了形)。そこに住む人々は、イェシュアに何ら敵対することもなく、素朴な人たちであったと推察します。しかし、素朴であることと信仰とは別の事柄であったのです。

●彼らがイェシュアをどのように見ていたかといえば、イェシュアを自分たちと同じ人間でしか見ていなかったことを示しています。今日においても、イェシュアを単なる人としてしか見ることをせず、素晴らしい人、愛の人としてしか見ていない人々がいます。彼らはナザレという田舎の町からメシアが出ることなど、想像だにしていなかったのです。

●ナザレの人々のイェシュアに対する反応は以下のようでした。
(1)「この人は、こんな知恵と、奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」
(2)
①「この人は大工の息子ではないか。」
②「母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。」
③「妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。」
(3)「それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう。」

●(1)と(3)はイェシュアに対する同じ驚きを示しています。原文直訳は「これらのものが、どこからこの人に」です。「これらのもの」とは、イェシュアに与えられている知恵や奇蹟を行なう力のことですが、その源泉が一体どこにあるのか、そのことについての疑問の声です。ナザレの人々には、イェシュアが彼の家族の一員としか見えていなかったために、彼に見られる知恵と力の出所が全く理解できませんでした。これが使徒パウロの言う「人間的な標準で人を知ろうとすること」です。しかしパウロは「今はもうそのような知り方はしません」(Ⅱコリント5:16)と言っています。「人間的な標準で人を知る」とは、「(「サルクス」σάρξ)に従って人を知る」ということなのです。それが(2)の①「この人は大工の息子ではないか」、②「母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか」。③「妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか」という反応です。

●「」の反対は「御霊」です。つまり、御霊によらなければ、イェシュアの本性は決して知ることができないのです。では御霊によってイェシュアの本性を知るためにどうすればよいかと言えば、それはイェシュアが神から遣わされた方であり、その方の言われることを信じることです。つまずきを乗り越える鍵はただひとつ、それはイェシュアを信じることなのですが、彼らがイェシュアのうちに見た「知恵と奇跡を行う力」こそが、まさに聖書に預言されているメシアであることのしるしであったにもかかわらず、そのことを信じることができなかったのです。

2. イェシュアの郷里の人々のつまずき

(1)「ナザレから何か良いものが出るだろうか」

●「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言った人がいます。それはイェシュアの弟子となるナタナエルです。ナザレは世間の目で見るなら、小さくてみすぼらしい村だったようです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書1章45~46節
45 ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」

●ナタナエルのナザレの町に対する見解は、当時の人々を代表していると考えられます。マタイの福音書2章23節には、エジプトに逃れていたイェシュアと両親がイスラエルの地に戻った後、「ナザレという町に行って住んだ」とあります。もともとイェシュアの母マリアはナザレという町に住んでいましたから、そこに帰ったのは当然だと言えば当然ですが、なぜナザレに住むマリアに御使いが現われて、受胎告知をしたのかということが、神のご計画に基づいているのです(ルカ1:26)。マタイも、「これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。」(【新改訳2017】)と説明しています。「これは」とはどういうことでしょうか。何の変哲もない小さな町ナザレが、神の隠されたメシアの成長の秘められた場所としてすでに預言されていたというのです。メシアの出生の地がベツレヘムであることは確かに預言されていますが(ミカ5:)、「ナザレ」という町の名前は旧約聖書を探してもどこにも出て来ません。しかし、唯一の手掛かりがあります。

●マタイの福音書はマタイがヘブル語で書いたという証言が数多くあります。つまり、ヘブル語で旧約を調べてみると、「ナザレ」という言葉が旧約聖書に何回も出て来ているのです。「ナザレ」というギリシア語は「ナゾーライオス」(Ναζωραῖος)ですが、これをヘブル語にすると「ネーツェル」(נֵצֶר)となります。それは「若枝」を意味します。「若枝」はイザヤのメシア預言の中に出てくるのです。以下は、クリスマスでしばしば開かれるメシア預言の有名な聖書箇所です。

【新改訳2017】イザヤ書11章1~2節
1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝(「ネーツェル」נֵצֶר)が出て実を結ぶ。
2 その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮との霊、【主】を恐れる、知識の霊である。

●「エッサイの根株」とはエッサイから出る子孫を意味します。しかし、この預言はエッサイの息子ダビデに対するものではありません。この預言は「メシア」が「ダビデの若枝」から出ることを意味しているのです。「エッサイ」は「ベツレヘム」の人であり、ボアズとルツの子孫です。彼の系列(枝)をヘブル語で「ネーツェル」(נֵצֶר)と表しているのです。ですから、イェシュアが「ナザレ人と呼ばれる」というのは、イェシュアが「ダビデの若枝」を意味しているのです。マタイはそのことを、「これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。」と書いているのです。

●「ナザレから何か良いものが出るだろうか」ということは、旧約聖書に照らすならば、的外れな発言なのです。ナザレの人々は自分たちの小さな町にメシアが出ることを知らずにいたばかりか、その「若枝」の上には「【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮との霊、【主】を恐れる、知識の霊である」ということにも無知であったのです。

(2) イェシュアに見る「知恵と奇跡を行う力」の現われ

●イェシュアは「ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った」とあるように」、イェシュアは教えただけでなく、数々の奇蹟もしたと思われます。ですから、ナザレの人々の驚きは、イェシュアが「知恵と奇跡を行う力どこから得たのだろう」という疑問だったのです。しかしそれらはメシアに与えられる特別な力としてすでに預言されていたものだったのです。

●「知恵」(「ソフィア」σοφία)は単数形ですが、「奇跡を行う力」(「デュナミス」δύναμις )が複数形となっていることから、56節では「これらのものをみな、どこから得たのだろう」と不思議がっているのです。そしてその答えを見出せないがゆえに、彼らはイェシュアにつまずいたと記されているのです。

●「知恵」(「ホフマー」חָכְמָה)も、「奇跡を行う力」(「ゲヴォーラー」גְּבוֹרָהの複数形「ゲヴォーラット」גְּבוֹרַת)も、メシアに与えられた特別な霊的能力です。ナザレの人々がイェシュアに見た「知恵と奇跡を行なう力」とは、まさにイザヤがイザヤ書11章1節の「若枝」に与えられた「知恵と力」、すなわち、メシアに与えられる「ホフマー」(חָכְמָה)と「ゲヴォーラー」(גְּבוֹרָה)の啓示だったのです(イザヤ11:2)。

●聖書を知らないということは、神のご計画を知らないことにつながります。たとえどんなにナザレの人々が素朴な人たちであったとしても、聖書を知らなければ、結果的には、つまずく運命にあるのです。信じるとは、聖書に証言されている神の約束を信じることであり。それがイェシュアによってなされることを信じることなのです。これが聖書のいう「信仰」なのです。

(3) ナザレにおけるイェシュアの成長の秘密

●ナザレの人々は30年間も共に住んでいたイェシュアの成長を目の当たりにしていたはずです。聖書はイェシュアの幼子からの成長を記録しています。以下の箇所はイェシュアが誕生して八日目に割礼を受けさせるためにエルサレムに詣でた以降の箇所です。

【新改訳2017】ルカの福音書2章39~40節
39 両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。
40 幼子は成長し、知恵に満ちて(現受分詞で「満たされ続けながら」)、たくましくなり、神の恵みがその上にあった

●幼子イェシュアは知恵(「ソフィア」σοφία)に満たされ続けながら、成長していったとあります。また、「たくましくなり」と訳された部分は、ビザンチン・テキストでは「御霊によってますます強められ」とあります(ネストレ27版にはありません)。しかも、神の恵み(「カリス・セウー」χάρις θεοῦ)に支えながら成長していったのです。ここにあるすべての動詞、①「成長する」(「アウクサノー」αὐξάνω)、②「強められる」(「クラタイオー」κραταιοω)、③「あった」(「エイミー」εἰμί)は、すべてが未完了形です。つまり、幼子イェシュアの知恵の成長も、御霊によって、しかも神の恵みによって、継続的にますます強められつつあったのです。これが郷里ナザレの人々に全く知られずにいたとは考えられません。兄弟姉妹たちと比べて、イェシュアの存在は目を見張るものがあったはずです。

(4) エルサレムにおけるイェシュアの12歳の時の秘密

【新改訳2017】ルカの福音書2章41~47節
41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。
42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った
43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、
44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた

●この箇所は、イェシュアが12歳の時の、エルサレムでの過越の祭りのエピソードです。47節の「知恵」は「ソフィア」(σοφία)ではなく、「理解力、洞察力、聡明さ」を示す「スネシス」(σύνεσις)の単数が使われています。ヘブル語では「セヘル」(שֶׂכֶל)で、知恵がもたらす理解力を意味します。また、イェシュアの「答え」は複数形で、律法の教師たちとの問答において、人々はイェシュアの知恵と答えにしきりに感心していたことを示しています。それは目を見張るばかりの成長ぶりだったのです。続いて、イェシュアは両親に驚くべきことを語ります。

【新改訳2017】ルカの福音書2章48~50節
48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。

●49節で「わたしが自分の父の家にいる」ということは、神を自分の父と呼んでいたことを表わします。「御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます」とパウロは述べていますが、神のことを「父」と呼んでいたのは御子イェシュアだけです。イェシュアと私たち人間はどう違うのでしょうか。イェシュアは人間の父ヨセフの子ではなく天の父の子です。そのイェシュアの出生の秘密は彼が聖霊のプロダクトであったからです。神が本来、人(アダム)に与えた「いのちの息」(「ニシュマット・ハッイーム」נְשָׁמַת חַיִּים)=聖霊(「プニュウマ・ハギオス」πνεῦμα ἅγιος)がありました。それは動物とは区別される人間だけに与えられた特別な「いのちの息」です。最初のアダムは堕罪によってそれを失ってしまいましたが、最後のアダムであるイェシュアはそれを持っていました。ですから、御子イェシュアは神を父と呼ぶことができたのです。イェシュアの地上の生涯はすべて聖霊によって導かれました。イェシュアを信じる時に、私たちも子とする御霊を受けて、初めて神を「アバ、父」(「アッバ・ホ・パテール」Αββα ὁ πατήρ)と呼ぶことができるだけでなく、御霊に導かれる新しい存在となるのです。

【新改訳2017】ルカの福音書2章51~52節
51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった

●52節の主動詞は「プロコプトー」(προκόπτω)です。意味は「ますます進んで行く増して行く」(未完了形)ことを意味します。12歳以降のイェシュアは、知恵(σοφία)においても、背たけにおいても、そして神と人との「いつくしみ」においても益々成長し続けていったのです。ちなみに、「いつくしみ」と訳された語彙は「カリス」(χάρις)で、「愛」とも訳されます。こうしたイェシュアの成長ぶりと公生涯の時のイェシュアの姿に、郷里ナザレの人々は認めていながらも、問題はその能力がどこに由来するものか分からなかったことです。それがイェシュアをメシアとして気づかなかった理由です。それは彼らが信仰によって結びつかなかったからです。ナザレの人々は、イェシュアを単なる大工の子として、しかも家族の一員としてしか見ていなかったことが、つまずきのもとでした。

3. 預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけ

【新改訳2017】マタイの福音書13章57~58節
57 こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。

●今回のテキストにある57節の「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです」を見ておきたいと思います。これは当時の時代の格言であったようです。本来、預言者は人々から尊敬される存在でしたが、幼いころから近くで接してきた人々は、人間的な側面に目が行くために、適切な尊敬を払わないことが多いのです。これは、今日のメシアニック・ジューの人々も同様のようです。一番身近な家族の者が理解できないのです。

ベアハリート

●今回の「郷里の人々のつまずき」から学んだことを反面教師としながら、私たちなりに適用してみたいと思います。私たちが物事を理解しようとするとき、できるだけスピーディーに理解するため、何らかの仮説を立てながら理解しようとします。過去の経験に似たようなことがあると、それを引っ張り出してきて、「これに近いのではないか」「こういうことではないか」と無意識のうちに仮説を立てて、理解のスピードを速めようとしています。こうした過去の体験に基づく仮説を「理解の型紙」と呼んでいます。物事を理解するときに、この「理解の型紙」を用いるととても便利なのです。なぜなら、深く考える必要がなく、思考の節約ができるからです。信仰の世界でもそうです。しかし、自分のうちにあるこの「理解の型紙」が本当に適切かどうか、疑ってみる力が必要なのです。

●これはどういう意味かという疑問を自ら呼び起こし、出てくる答えに対しても、さらに、本当にそうだろうかと「突っ込み」を入れます。「突っ込み」を入れることで、思ってもみなかった新しい理解に導かれることがしばしばあるのです。「突っ込む」ことがなければ知り得なかった知る喜び、これを重ねることで聖書を読む力が養われます。真理を追求する人は、人一倍、疑う技術を身につけている人なのかもしれません。これまで教えられてきたこと、あるいは、通説になっていることさえも、一度は疑って「突っ込み」を入れてみる必要があるのではないかと思います。「疑う」ことは「自分で、もう一度よく考え直してみる」ことであり、「再考する力」を養うからです。このことが、信仰における主体性、自立性を育てていくのではないでしょうか。イェシュアを信じる信仰に生きる世界では、自分のうちにある「理解の型紙」を打ち破っていくことです。これができることによって、神の真理が新たに開かれることで私たちの内なる心は燃やされます。また、神の知恵に満たされ、力ある神の働きが期待できるようになると信じます。私たちがイェシュアを信じられることは、本当に不思議極まりない、奇蹟的なことなのです。

2019.8.18


a:2475 t:2 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional