****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イェシュアに対するペテロの三度の否認


116. イェシュアに対するペテロの三度の否認

【聖書箇所】マタイの福音書26章69~75節

ベレーシート

●今日の話は、弟子の筆頭であるペテロがイェシュアを三度も「知らない」(「ウーク・オイダ」Οὐκ οἶδα)と言って否認してしまう出来事です。この出来事はペテロ自身のことですが、同時にイスラエルを象徴する出来事としても見ることができます。その意味で、今回はこの出来事の意味を神の恵みの視点から、そして御国の視点から学びたいと思います。これらの視点は別々のことではなく、密接につながっています。

●使徒パウロが、三年間、手塩にかけて建て上げてきたエペソの教会の長老たちを呼び集めて語った決別説教(使徒20:17~27)の中で、「神の恵みの福音」と「御国の福音」ということばを用いています。「神の恵みの福音」ということばはここ一箇所だけです。これは「キリストの福音」とも言い換えることもできます。「御国の福音」ということばですが、原文には「御国」ということばしかありませんが、「御国」と「御国の福音」とは同義です。それぞれの特徴を言うならば、「神の恵みの福音」は、イェシュアをメシアとして信じる者が神の御前に罪なき者として受け入れられ、たとえ罪を犯して失敗したとしても、イェシュアから引き離されることはなく、イェシュアのゆえにありのままで神の完全な愛の中に受け入れられるという福音です。それはペテロに対するイェシュアのまなざしに表されていると言えます。しかし「御国の福音」とは、パウロが「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせた」(使徒20:27)とあるように、神の究極的目的を知ることで、ゆるぎない永遠の希望を与えるものです。神とサタンとの抗争の果てに、主にある者に復活のからだが与えられることで「新しい契約」にあずかることができるという希望です。また、「神の恵みの福音」はあかしすることができますが、「御国の福音」はあかしすることができません。イェシュアが語られたことばと奇蹟によるデモンストレーションを信じて、ひたすら御国を待ち望むしかありません。私たち(教会)はこの二つの視点をバランスよく保つ必要があります。そうした視点を踏まえながら、今日のテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書26章69~75節
69 ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」
70 ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。
71 そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」
72 ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。
73 しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」
74 するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。
75 ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。


1. ペテロの否認の予告とイェシュアのまなざし(神の恵みの福音)

●この出来事はマルコの福音書(14:66~72)、ルカの福音書(22:55~62)、そしてヨハネの福音書(18:16~18、25~27)のすべての福音書が記しています。しかしそれぞれ微妙な点で異なっています。ヨハネの場合はペテロだけでなく、ヨハネもそこにいたこと。また三番目の人がイェシュアの逮捕時にペテロに耳を切り落とされた人の親類にあたる者であったことを記しています。ルカの福音書を除く他の福音書ではいずれも、ペテロがイェシュアのことを「知らない」と否認した事実だけを示しています。ルカだけがペテロに対する「とりなしの祈り」と「イェシュアのまなざし」があったことを強調しています。まずは、そのことを先に語りたいと思います。

●イェシュアが弟子たちに、「あなたがたは、今晩、わたしのゆえにつまずきます。」(マタイ、マルコ)と言われた時、「たとい、全部の者があなたのゆえにつまずいたとしても、私は決してつまずきません。」と、最も強くそのことを否認したのは他ならぬペテロでした。彼はイスカリオテのユダのように、前もってイェシュアを裏切るという思いは微塵もありませんでした。イェシュアとのかかわりの否認は「裏切り」ではなく、肉にある弱さによる「失敗」と言った方が正確かもしれません。その失敗の原因は、彼が人の肉の弱さというものを本当に知っていなかったからです。彼の最大の欠点は、自分だけは大丈夫という「自信過剰」であったことです。

●イェシュアがゲツセマネの園で三度祈ったことは「肉との壮絶な戦い」だったのです。これは人と同じように肉の姿となられたイェシュアにとって最後の戦いであったのです。これまでもイェシュアは語ること、為すことすべてを御父のみこころに従って来られましたが、しかしこれから起こる受難と死は肉にとって最大の戦いであったのです。このとき、弟子たちはみな眠りこけていたのです。たとえ目を覚ましていたとしても、イェシュアの苦しみを理解できなかったはずです。これはイェシュアだけに与えられたメシアとしての苦しみでした。ペテロは逮捕されたイェシュアの跡をつけて、カヤパの官邸の庭の中にまで潜り込んで、座ってその様子を見ていたのです。彼には肉に対する備えが全くなかったのです。そのことが、一人の召使いの女によって暴露される形となってしまったのです。それが「そんな人は知らない」という否認でした。サタンは肉(自己保身、自己中心)に働くということをペテロは思い知らされる必要があったのです。

●ペテロはこの場面においてはじめて一人になりました。これまでイェシュアによって召し出されてから、他の弟子たちとともにずっと一緒でした。私たちも仲間といっしょにいるときは自分が強く感じられても、ひとりになるととても弱い存在です。現代の若いクリスチャンたちが大音響の中で賛美をしているときには、あたかも全能感に満たされているように思ええます。でも一人静かなところに置かれるときにはいかに小さく、弱く、不安と恐れに駆られると言います。ペテロも弟子たちとともにいるときには、「たとい全部の者が(自分を除く)つまずいても、私はつまずきません」と大言壮語しましたが、彼が一人にさせられた時、人の言うことばに恐れたのでした。

●熱心で一本気な気質も大言壮語も、それは肉でしかありません。ペテロのうちにある肉は神のみこころを行うことはできません。そんな彼をやがて真のペテロ(岩)にさせたのは何でしょうか。、それはひとえに彼に対するイェシュアの愛に満ちたまなざしでした。ルカの福音書ではペテロの失敗の予告を次のように記しています。「シモン、シモン、サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために祈りました。だから、あなたが立ち直ったら、兄弟を力づけてやりなさい。」(22:32)

●ここにある「ふるいにかける」(「スィニアゾー」σινιάζω)ということばは新約ではこの箇所のみです。それに相当するヘブル語は「ザーラー」(זָרָה)です。

【新改訳2017】エレミヤ書31章10節
諸国の民よ、【主】のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせよ。
「イスラエルを散らした方がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守られる」

●「散らした」と訳された「ザーラー」(זָרָה)が強意形ピエル態で用いられる時、「まき散らす、ふるいにかける」の意味になります。イスラエルを散らす、すなわち、ふるいにかけることを許された主なる神がそれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守られると約束しておられます。ペテロの場合も、イェシュアはペテロの失敗を予告するだけでなく、彼が立ち直る布石を敷いておられました。それは彼のためのとりなしの祈りです。しかしこの祈りは彼が失敗しないようにという祈りではなく、失敗した後に立ち直ることができるようにという祈りでした。つまり彼が「悔い改める」ことができるための祈りです。イスカリオテのユダにはこれがありませんでした。ですからユダは悔い改めができず、首を吊って自殺したのです。ここでいう「悔い改め」とは、罪を悔いるということではなく、神に向きを変えるという一点を意味しています。

●ここで私たちが心に留めなければならないことは、ペテロがイェシュアの弟子であることを三度否認した時に鶏が鳴きました。そのとき「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:67)と記しています。一瞬ですが、イェシュアと目を合わせています。そのイェシュアのまなざしは、ペテロのすべてを見抜いていたにもかかわらず、彼のために前もって祈っておられた愛のまなざしでした。この「まなざし」は、「それ見たことか」と言った「さばきのまなざし」ではなく、「愛のまなざし」です。そのイェシュアの「愛のまなざし」に触れた時に、ペテロは「激しく泣いた」のです。「激しく」と訳された副詞「ピクロース」(πικρώς)でマタイ26章75節とルカ22章62節の2回しか使われていない語彙です。ヘブル語は「マル」(מַר)で、「ひどく苦しむ」という「マーラル」(מָרַר)がその語源です。ペテロは自分の高慢さがへし折られて肉の心が刺し貫かれたと言えます。しかしこの涙はペテロの人生にとって新しい出発(たびだち)を促す多くのものが含まれていたと信じます。

●ルカでイェシュアがつまずくことを予告した時、ペテロという名では「シモン、シモン」と呼ばれました。「シモン」(Σίμων)はヘブル名の「シムオーン」(שִׁמְעוֹן)です。ところが多くが「シメオン」と訳されています。おそらく英語がSimonと訳しているからだと思われます。「ペテロ」はイェシュアがつけたあだ名で「岩」を意味します。「シメオン」の意味は「御子に聞く」という意味が隠されています。その名前はヘブル語の「シャーマ」(שָׁמַע)に由来しています。その彼に対してイェシュアは「あなたが立ち直ったら、兄弟を力づけてやりなさい」(22:32)と命じました。「力づけてやりなさい」この命令は「エピストレフォー」(ἐπιστρέφω)のアオリスト命令形です。主体的決断を求める命令です。この「力づける」の「ステーリゾー」(στηρίζω)は、「ぐらつかないように強化する」という意味です。ぐらつくことになるペテロに対して、前もってこのように命令を与えておられたイェシュアの恵みのまなざしに感動を覚えます。

●ペテロが真のペテロ(岩)となっていくその祝福の秘訣は、彼自身の自信や頑張りではなく、ひとえにイェシュアのとりなしの祈りと恵みに満ちた「愛のまなざし」があったからだと信じます。これはいつの時代においても真理であり、この私も同じ恵みに支えられていることを告白します。失敗が失敗で決して終わることなく、それを祝福に変えることのできる唯一の方こそイェシュアです。イェシュアは贖いによって「いのちを与える御霊となられた」お方です。肉に打ち勝つ御霊こそが、「神の恵みの福音」なのです。

2. イェシュアの語られたとおりになった(御国の福音)

●今度は、ペテロの否認の出来事を「御国の福音」の視点から見てみたいと思います。イェシュアがオリーブ山に向かっているときに弟子たちにこう言われました。

【新改訳2017】マタイの福音書26章31~35節
31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。
32 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
33 すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」
35 ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。

●ここでイェシュアが弟子たちに「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。」と言ったことに対する弟子たちの反応が記されています。ペテロの反応は「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」と豪語しました。その反応に対するイェシュアは「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」と答えました。「知らない」と訳された「アパルネオマイ」(ἀπαρνέομαι)は「否定する、拒む」ことを意味します。それに対してペテロはさらにそのことばを否定します。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と。「あなたを知らないなどとは決して」(「ウー・メー・アパルネオマイ」οὐ μή σε ἀπαρνέομαι)は二重否定となっています。絶対にない、決してあり得ないことを強調しているのが、「ウー・メー」(οὐ μή)です。そして、他の弟子たちもみな同じように言ったのです。

●ところがどうでしょう。ペテロ以外の弟子たちはイェシュアが逮捕された段階でみなつまずいています。ペテロだけはつまずかずにイェシュアが連れて行かれたカヤパの官邸にまでついて行っています。しかし、その場でペテロはイェシュアを三度も「知らない」(「ウーク・オイダ」Οὐκ οἶδα)と完全に否認してしまうのです。そのとき「すると、すぐに鶏が鳴いた」のです。まさにイェシュアが言われた通りでした。このことは聖書が予め預言していたことです。つまり、『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』という預言された通りのことが起こったのです。

●「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」ということばは、主に対するこれ以上ない忠誠を表すことばです。しかしイェシュアは「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」にある太字の部分を、私たちは簡単に聞き逃してはなりません。この「まことに、わたしはあなたに言います」ということばがあることは、必ず起こるからです。

●このフレーズはイェシュアのことばにしか使われてはおらず、非常に重要なことばです。なぜなら、その内容は必ずその通りになるからです。イェシュアのことばは「霊であり、いのち」です。そしてそれは御国において必ず完成・成就するからです。ちなみに、この類のフレーズはマタイ31回、マルコ13回、ルカ6回、ヨハネ25回です。「まことに、まことに、わたしはあなたがた言います」と繰り返す表現(「アーメーン・アーメーン・レゴー・ヒューミン」)はヨハネの福音書の特徴です。

●「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」(31節)の「つまずき」の理由が記されています。その理由とは、『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』というゼカリヤ書13章7節にある預言です。つまり、神が羊飼いであるイェシュアを打つことで、弟子たちにつまずきが起こるのは神のご計画における必然的出来事だということです。それはイェシュアがユダヤ人の指導者たちによって打たれ、十字架で死ぬことによって人類の贖いのわざを成し遂げるという神のご計画があるからです。「羊飼い」であるメシア・イェシュアが打たれる(殺される)ことで、「羊の群れは散らされて行き」とは、単にイェシュアの弟子たちだけのことではありません。ユダヤ人の指導者とその民たちが世界離散することになることをも意味しているのです。事実、この預言はA.D.70年に成就することになります。しかし、それはイスラエルの民にイェシュアを贖い主であるメシアとして受け入れさせるためであり、神の計らいであるのです。

●創世記3章の最後の節に「こうして神は人を追放し」とあるように、アダムとエバはエデンの園から「追放された」(「ガーラシュ」גָּרַשׁ)のです。この出来事は後に起こることの預言的「型」です。たとえば、バビロン捕囚というユダの民が追放される出来事です。その出来事の要因はユダの民の偶像礼拝にあります。

●創世記3章24節の「追放」がイスラエルの民の歴史の中で表わされた中で最も重要なのは、バビロン捕囚の出来事です。預言者エレミヤはエルサレムから、すでにバビロン捕囚されていたユダの民に手紙を送りました。以下のみことばには、神がユダ族の人々を追放した意図が明確に示されています。

【新改訳2017】エレミヤ記29章10~14節
10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
14 わたしはあなたがたに見出される─【主】のことば─。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める─【主】のことば─。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』

●「捜し求める」は「バーカシュ」(בָּקַשׁ)で心情的な熱心さを表します。次の「求める」は「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)で知性的な追及を表します。「心を尽くして」の「心」とは日本的な「心」の意味ではなくて、ヘブル語の「心」(「レーヴ」לֵב)は知性や理性的な意味を持っています。これは「心情的な燃えるような熱心さと神学的な冷静な追求」の二つの面が必要だということです。そのようにして主を求めるならば、必ず「わたしを見つける」と神は約束しています。

●バビロン捕囚は、追放されたイスラエルに対する神のご計画の「型」です。つまり、終わりの日に神は彼らを元の場所へ帰らせるだけでなく、彼らに与えた本来の使命(=祭司としての務め)を回復するのです。事実、彼らは神のことばに目覚め、トーラーによって神を知り、求めるようになったのです。王制はなくなり、祭司たちが彼らを指導するようになり、ユダヤ教の母体となったのです。霊的な溢れは詩篇119篇の中に見られます。この詩篇は神のみことばに対する愛で満ちあふれています。そうした取り扱いの後で、彼らはエルサレムに帰還することができたのです。そして第二神殿が建てられますが、そこには「契約の箱」はなく、「神のトーラー」がそれに代わりました。

●祭司たちによってユダの民は、神のトーラーを心から愛し、それをすべての生活の規範とするようになりました。バビロン捕囚の原因となった偶像礼拝はまったく姿を消しました。しかし次第に律法を規範とするための解釈が付け加わり、それが言い伝えとして権威を持つようになります。それが律法主義という目には見えない内なる偶像礼拝となってしまったのです。神殿もサドカイ人たちの金儲けの手段となり果てます。それらが、真のトーラーであるイェシュアを殺すことになるのです。「カインとアベル」の話はこのことの預言です。その結果としてA.D.70年、エルサレムと神殿は崩壊して、ユダヤ人たちは世界に離散しました。このことにも神のご計画における明確な意図がありました。その意図とは、異邦人に福音が伝えられるためです。事実、イェシュアの復活後、聖霊降臨によって誕生した初代教会はユダヤ当局の激しい迫害によってエルサレムから散らされます。しかしこのことが教会を全地に拡大させていく要因ともなりました。

●1948年にイスラエルが復興していますが、それは霊的復興ではなく、肉的復興です。いまだにユダヤ人はイェシュアをメシアだとは信じていません。しかし彼らに対する神の最後の取り扱いがやがてやって来るのです。彼らは反キリストによって第三神殿が建てられるとき、反キリストをメシアだと信じてしまうのです。これが彼らの最後の偶像礼拝です。そのために、彼らは反キリストによる大患難を通らされる羽目になります。そのためユダヤ人の三分の二が死ぬことになります。しかしその大患難の中で、「恵みと哀願の霊」が注がれて神に立ち返り、自分たちが十字架にかけて殺したイェシュアこそ本当のメシアであったことに霊の目が開かれ、「激しく泣く」のです。

【新改訳2017】ゼカリヤ書 12章10 節
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣く(מָרַר)かのように、その者のために激しく泣く(מָרַר)。

●主を信じなかったことに対して「激しく泣く」姿があります。ここでの「激しく泣く」は苦さを伴う「マーラル」(מָרַר)で、悔改の涙です。つまりペテロと同じ涙です。ペテロの三度の「知らない」(「ウーク・オイダ」Οὐκ οἶδα)という表現は、偶像礼拝にほかなりません。以下の図は、イスラエルの歴史において、偶像礼拝によって主を否認した歴史を表しています。

画像の説明

●ペテロの三度の否認とイスラエルの歴史における三度の偶像礼拝の罪の結果とが重なっており、それを通して、イスラエルの残りの者たちがメシア王国の民として入ることが定められています。このように、ペテロの否認は彼個人のものだけではなく、イスラエルを代表する「型」とも言えるのです。

●イェシュアがペテロに対して「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と命じましたが、同様に、イスラエルに対しても語られているのです。メシア王国においては、イスラエルは贖われた諸国の民たちの指導的立場に立つだけでなく、主がアブラハムに「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる」と言われたことが実現するのです。そしてそれは創世記1章28節の「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」の預言も成就することになるのです。

●このように、すべては神のご計画通りに歴史は進んで行くのです。それゆえに、使徒パウロがエペソの教会に対して語り告げた「御国の福音」に、私たちも関心を持つ必要があります。神のみこころによって定められたご計画を余すことなく語れる者となれるように、いよいよ知恵と啓示の御霊によって、主を尋ね求めて行きたいと願います。

2021.10.31〔宗教改革記念日〕
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