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イェシュアの先駆者としてのヨハネの死

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60. イェシュアの先駆者としてのヨハネの死

【聖書箇所】マタイの福音書14章1~12節

ベレーシート

●今回の聖書箇所を以下のマタイ福音書14章1~2節と思って読んでください。

【新改訳2017】マタイの福音書14章1~12節
1 そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、
2 家来たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」

●ここだけを読んでどんなことが分かるでしょう。ヘロデがイェシュアのうわさを聞いて、それはバプテスマのヨハネそのものだと思ってしまったということです。つまり、バプテスマのヨハネとイェシュアがまるで瓜二つに見えたということです。今回はここに強調点を置いて話をしたいと思います。今日の説教は、金太郎飴のように、同じことが何度も何度も繰り返されているように感じられると思います。

●今回、実際に取り上げる聖書箇所は14章1~12節なのです。この箇所は、「イェシュアにつまずいた人々のシリーズ」(マタイ11:1~14:12)の最後の部分ということになります。このシリーズの最初は、バプテスマのヨハネのつまずきでした。ヘロデに捕らえられたヨハネがその牢獄の中で、自分の弟子たちを通じてイェシュアに尋ねました。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」と。彼はイェシュアが本当のメシアであるのかどうか、疑問に感じ始めたのです。それもそのはず、旧約聖書の預言者たちはこぞって、メシアが来られる時には、神のさばきが行われ、火で焼き尽くされると語っていたのです。しかし一向にそのような気配がないため、バプテスマのヨハネはイェシュアにつまずいてしまったのです。

●イェシュアは「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」と言っていますが、当時の多くの人々はイェシュアにつまずいたのです。そのつまずきの形は人によって様々ですが、イェシュアの知恵や行っている力あるわざ(奇蹟)を見ていながら、ある人々は無関心であったり、パリサイ人や律法学者たちなどは「この人が悪霊を追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ」と断言したり、イェシュアを殺そうと相談したりしています。またイェシュアの郷里の人々も「この人は大工の息子ではないか」と言ってイェシュアにつまずきました。イェシュアの時代の人々のほとんどが、イェシュアを正しく理解することができず、イェシュアにつまずき、悔い改めて神に立ち返ることをしなかったのです。今回取り上げる領主ヘロデに至っては、イェシュアに会う前から、イェシュアのうわさを聞いただけで、「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇蹟を行う力が彼のうちに働いているのだ」と信じたのです。そこで、今回のテキストの全体を読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書14章1~12節
1 そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、 2 家来たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」
3 実は、以前このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。
4 ヨハネが彼に、「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けたからであった。
5 ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからであった。
6 ところが、ヘロデの誕生祝いがあり、ヘロディアの娘が皆の前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。
7 それで彼は娘に誓い、求める物は何でも与えると約束した。
8 すると、娘は母親にそそのかされて、「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言った。
9 王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ、
10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。
12 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。


1. 領主ヘロデのイェシュアに対する断言とその解釈の視点

1 そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、
2 家来たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」

●今回のテキストで最も重要な点は先ほども述べたように、1~2節のみです。ここでヘロデがバプテスマのヨハネとイェシュアを結びつけている点です。イェシュアをバプテスマのヨハネの働きを受け継ぐ者とみなしている点です。もっとも、ヨハネとイェシュアは親戚関係にあった人で、両者は年齢もほとんど同じで(正確にはヨハネの方が半年早い)、働きの内容も似ていました。しかし14章3節以降には、なぜヘロデがイェシュアのことを「バプテスマのヨハネだ」と断定するに至ったのか、その背景となった生々しい事件の経緯が記述されているのです。マタイはなぜこの箇所にヨハネの死を入れたのでしょうか。つまり、問題は、マタイの編集の意図はどこにあるかという点です。

●ヘロデが「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ」という言葉の中に、ヘロデがヨハネを殺害に至った理由とその心理的動揺を表わす言葉として解釈できるかもしれません。しかし私はこのヘロデの言葉の中に、バプテスマのヨハネとイェシュアの関係の預言的なことばとして理解したいと思います。つまり、ヘロデはヘロデなりの経験と思いがあってこの言葉を言ったのだと思いますが、それ以上に、ヨハネの死が「イェシュアの先駆者としてふさわしい死であった」ことを物語るものとして解釈したいと思います。なぜなら、バプテマスのヨハネの存在意義があくまでも主(イェシュア)ために「道を用意する」という使命であったことからすれば、その死もその使命にそった神が備えられたものであったと考えることは、理にかなっているのではないかと思います。マタイの福音書14章12節で「ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った」後、「イエスのところに行って報告した」ことにも、ヨハネの死とイェシュアが結びつけられているのです。ここにマタイの編集の意図を感じさせます。つまり、イェシュアがメシアとしてどのような死を遂げるか、その死の先駆者としてのヨハネが予告されているように見えます。とすれば、ヘロデの見解は彼の思いとは別に、預言的(予見的)であったと言えます。旧約の昔から、預言者たちはその使命のゆえに苦難を経験したのであり、特にヨハネは、イェシュアの先駆者として、イェシュアが歩むべき苦難の道を先取りしたと言えるのです。バプテスマのヨハネは、ヘロデを通して、はからずも、神から与えられた使命を、死をもって全うしたということになるのです。

2. イェシュアの先駆者としてのバプテスマのヨハネの使命

【新改訳2017】マタイの福音書3章1~3節
1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である

●バプテスマのヨハネがなぜイェシュアの「先駆者」と呼ばれるのでしょうか(ただし聖書には「先駆者」ということばはありません)。それはヨハネがイザヤの言う「荒野で叫ぶ者の声」として紹介され、『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である」としてマタイが紹介しているからです。ヨハネの場合、単に預言者としてではなく、来るべきメシアのために「道を備える」という明確な使命が与えられていました。マタイ3章3節で引用されたイザヤ書40章3節の「主の道を用意せよ」の「用意する」という動詞は「パーナー」(פָּנָה)で、本来は、主に「振り向く」「向かう」「慕う」という意味です。主との親しい親密なかかわりを回復する動詞がここでは強意形(ピエル態)の命令形で用いられると、「整えよ」とも訳されます。「用意する」「整える」ということがどういう意味なのかと言えば、そのあとに「主の通られる道をまっすぐにせよ」と言い換えられています。「まっすぐにする」という「ヤーシャル」(יָשַׁר)がどういうことかは、マタイの引用句には示されていませんが、引用元であるイザヤ書40章4節のたとえで以下のように説明されています。それによれば、「ヤーシャル」は「すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる」ということを意味します。

●例えば、ハイウェイ(高速道路)を作るときには、山は崩され、谷は埋められ、曲がった道路はまっすぐにされるように、「すべての谷は埋め立てられ」とは神の民たちの失敗や挫折の経験による失望が希望に変えられることで、「すべての山と丘が低くされ」とは神の民の高ぶりが打ち砕かれることが考えられます。高低差のある地や険しい地もなだらかな平地とされ、まっすぐにされるためには、歯に衣を着せない厳しい口調となることは明らかです。ですから、バプテスマのヨハネの言葉を聞いた人々は、おそらく震え上がったに違いないと思われます。そのような調子で、ヨハネはヘロデがした罪を断罪したため、彼は捕らえられたのでした(マタイ4:12)。その時からイェシュアの公生涯がスタートしているのです。しかもそのメッセージは、バプテスマのヨハネが語っていた「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」と全く同じでした。

ヨハネ.PNG

このように、バプテスマのヨハネとイェシュアの結びつきは親密な関係であり、特にヨハネはイェシュアを指し示す先駆者としての存在であったことを念頭に置く必要があります。右の図はそのことを良く表しているレオナルド・ダ・ビンチの絵です。その意味で、再度、ヘロデが言った言葉、「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ」に心を留めたいのです。

3. はからずも、ヨハネの首をはねさせたヘロデ

●「はからずも」(テキストにはこの言葉はありません)は、人間的な思いや計算を超えて、神がそのご計画とみこころを成し遂げることを意味します。ヨハネの死はまさに「はからずも」の死であったのですが、その経緯をマタイ14章3節以降から読んでみましょう。

3 実は、以前このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。
4 ヨハネが彼に、「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けたからであった。
5 ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからであった。

●ここに、四種類の人物が登場します。
①「ヘロデ」 ②「自分の兄弟ピリポの妻ヘロディア」(ヘロデの妻) ③「ヨハネ」 ④「群衆」
なぜヘロデはバプテスマのヨハネを捕えて牢に入れたのか、その理由が記されています。その理由とは、ヨハネがヘロデに対して「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けた(未完了)からであったとあります。ここにも、ヨハネが神の教えを持ってヘロデの姦淫の罪を歯に衣を着せずに糾弾したからです。そのため、ヘロデはヨハネを殺したいと思っていたのです。しかし民衆を恐れて、殺さずにいたのです。なぜなら、民衆はヨハネを預言者として認め、尊敬していたからです。

●マタイ11章11節でイェシュアはヨハネのことを次のように言っています。「まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした」と。ここで言うところの「偉大な者」とは、自分を顧みず、ただ神の義が現わされることを求めて、たとえ相手がヘロデであったとしても、恐れずにその誤りを正したということです。これはイェシュアにも当てはまります。その意味でもヨハネは「イェシュアの先駆者」と言えるのです。

●ところが「はからずも」、ヘロデの誕生祝いという機会が訪れました。マルコの福音書によれば、「重臣や千人隊長、ガリラヤのおもだった人たちを招いた」(マルコ6:21)とあります。するとそこにヘロデの妻へロディアの娘が入って来て、皆の前で踊ってヘロデを喜ばせたのです。この娘はヘロディアの前の夫との間にできた娘です。この娘は俗称「サロメ」と言われています(ユダヤの歴史家ヨセフスの「ユダヤ古代誌」の中にその名前が出ているようです)。

6 ところが、ヘロデの誕生祝いがあり、ヘロディアの娘が皆の前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。
7 それで彼は娘に誓い、求める物は何でも与えると約束した。

●ヘロデは娘に対して誓い、「求める物は何でも与えると約束した」のです。マルコの並行箇所では「おまえが願う物なら、私の国の半分でも与えよう」と堅く誓ったと記しています。果たして、一領主にすぎないヘロデがそんな権限を持っていたのでしょうか。正確に言えば、「ヘロデ」とは、ヘロデ大王(マタイ2:1)の息子のヘロデ・アグリッパです。「領主」、あるいは、「国主」とも訳される「ホ・テトラアルケース」(ὁ τετραάρχης)の字義的な意味は、「四番目を支配する者」という意味です。それはヘロデ大王の死後、ローマ皇帝によって委託されていた領土が四分割されて、その一つをヘロデ・アンティパスに統治を委任していたことを意味するもので、王としての権威は含まれてはいません。ローマ皇帝の支配の下での「領主」「国主」なのです。アンティパスはB.C.4年からA.D.39年の43年間、ガリラヤおよびペレア地方を治めていました。まさにヘロデ・アグリッパはヨハネの活動したぺレア地方とイェシュアが主に活動されたガリラヤ地方の領主だったのです。ですから、「おまえが願う物なら、私の国の半分でも与えよう」というのは、「欲しいものは何でも」の程度の意味だったのかもしれません。ちなみに、メシアなるイェシュアは「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださる」(ルカ12:32)と言っていることを心に留めておきたいと思います。

8 すると、娘は母親にそそのかされて、「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言った。
9 王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ、
10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。

●すると、娘は母親にそそのかされて、「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言ったのです。ここに娘と母親の関係が如実に示されています。これはヨハネを打ち首にして、その首を私に下さいということですが、これは娘の意向ではなくて、母親にそそのかされて言った言葉です。「そそのかされて」と訳された語彙の「プロビバゾー」(προβιβάζω)は新約聖書ではこの箇所だけです。本来、「事を前に進ませる」という意味ですが、転じて「指図する、そそのかす」という意味になります。これは母親ヘロディアが以前からヨハネを殺したいと思っていたことを、前に進ませる絶好の機会として、娘をそそのかしたのです。ですから、娘の願いというよりは、完全にヘロディアの願いだったのです。

●母親のへロディアのヨハネに対する憎しみに娘が利用されるという構図は、ユダヤの大祭司および祭司たち、長老たちとパリサイ人たちの陰謀によって扇動され、唆(そそのか)された群衆たちによって、ローマ総督ピラトがイェシュアを十字架の死に追いやったのに似ています。

●ヘロデは「心を痛めた」とあります。余談ですが、マタイはこの箇所を始めとして、「心を痛めた」と訳された「リュペオー」(λυπέω)が6回(14:9、17:23、18:31、19:22、26:22、26:37)使われています。そこを調べてみるなら、人がどんなことに「心を痛めたり、悲しんだり」するのかを学ぶことができます。ここではヘロデの良心のかけらを感じさせる語彙として使われています。ローマの総督ピラトもイェシュアの無罪を知りながら、自分の地位が危うくされるのを知って、イェシュアを十字架につけるのを拒み切れなくなったように、ヘロデも「自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって」、(ヨハネの首を)与えざるを得ませんでした。箴言 29章25節に 「人を恐れると罠にかかる」とありますが、ヘロデは人のことを気にしすぎたために、最も恐ろしい犯罪に手を染めてしまったのです。

●ヘロデにしてみればすべてが想定外だったのですが、神の目からすればいずれも想定内の「はからずも」だったのです。というのは、ヘロデによって、ヨハネが預言者として、以上のような経緯で不条理と思える死を迎えたことは、神のご計画にとってふさわしいことだったからです。ヨハネの死は、一見、非業な死と見えますが、バプテスマのヨハネの終わりを示す死がはっきりと示されていること、そして彼にとってはこれ以上の死はないと言えるのです。というのは、このことは福音書の全体の構成からも言えることなのです。

4. イェシュアの生涯を二分する問い

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●福音書の全体の構成というのは、二つの部分からなっています。福音書の前半のテーマは「人の子(イェシュアのこと)はだれか」を弟子たちに問うことで、弟子の筆頭格であるバルヨナ・シモンが「あなたは、生ける神の御子キリストです」という答えを引き出しています。この告白の直後に、福音書の後半のテーマである「キリストは何のために来たのか」という受難と復活を予告しています。イェシュアは自分がエルサレムにおいて、「多くの苦しみ」を受けることを予告しますが、弟子たちでこのことを理解する者はいませんでした。「捨てられ、殺され、よみがえられねばならない」、この「ねばならない」という表現は、「捨てられねばならない、殺されねばならない、そして、よみがえられねばならない」という意味です。ヨハネもイェシュアも同じく預言者でした。神のしもべとしての職務が全うされるためには、このように多くの苦しみを受けるということが定まっているということなのです。バプテスマのヨハネの死はそのことを預言的に示しているということなのです。確かに、ヨハネとイェシュアの死の意味は全く次元が異なりますが、人間の目にはいずれの死も不条理として見えるのです。

●「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力(複数形)が彼のうちに働いているのだ」とするヘロデの見解が預言的であったということは、旧約の昔から、預言者たちはその使命のゆえに苦難を経験したのであり、特にヨハネはイェシュアの先駆者として、イェシュアが歩むべき苦難の道を先取りしたと言えるのではないでしょうか。誰でも死は免れることはできませんが、ヨハネの死を単なる非業の死とみるか、意味のある死とみるか、それをどのように受けとめるかによって、人の人生の歩みが大きく変わっていくと思います。ヨハネの場合、ヘロデが「はからずも」預言したように、キリストが再び来られるときには、御国の民の一人として死からよみがえる(復活する)のです。                        

         

2019.9.1


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