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イェシュアの受肉の秘儀

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No.2 イェシュアの受肉の秘儀

ベレーシート

  • 聖餐式」(パンとぶどうで造られた飲ものによる「主の晩餐」とも言います)ーには、神が御子イェシュアを通してなされた福音の出来事が凝縮されています。神の救いのすべてがそこにコンデンスされているのです。ですから、単なる儀式として淡々と行なってしまうなら、そこからは何も得られません。私たちは、この聖餐の時を通して、主が私たちのためになされたことをできるだけ思い起こし、瞑想しながら、パンを食べぶどうでできたものを飲まなければなりません。
  • パンとぶどうで造られた飲みものーそこには「計り知れない神の恵み」が包み込まれています。この恵みを私たちは想起し、掘り出すための瞑想を試み、その豊かさにあずかっていくことを試みたいと思っています。神の恵み、尽きることのない神の愛の宝庫が、このパンとぶどうで出来たものの中にぎっしりと込められているのです。
  • 主の晩餐―聖餐に関する聖書の記事は4箇所に記されています。その箇所は、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)、そして使徒パウロが書いたコリント人への手紙第一11章です。これらのテキストのそれぞれの部分の意味するところを少しずつ紐解きながら、様々な視点から、パンとぶどうで造られたもののなかにある、恵みの宝を引き出していきたいと願っています。そこには過去と未来、先のものとあとのものーのすべてが含まれています。私たち一人ひとりに対する神の熱い思いと愛が込められているのです。

1. わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は・・・

  • イェシュアが5千人の給食の奇蹟をなされたあとに、カペナウムの会堂で次のようなメッセージをされました。ヨハネの福音書6章です。イェシュアは言われました。

    ①「わたしはいのちのパンです。」(6:48)
    ②「わたしは、天から下って来た生けるパンです。」(6:51)
    ③「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(6:53~54)
    ④「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」(6:56)

  • これらのことばから何が見えてくるでしょうか。天から下って来たいのちのパンであるイェシュア。そのイェシュアの肉(体)、すなわち、イェシュアの「からだ」を食べ「血」を飲むことがなければ、永遠のいのちを持つことができないということです。また、イェシュアのうちにとどまること、イェシュアが私のうちにとどまることもないという事実です。
  • ここで「食べる」「飲む」ということは、「信じる」ことを意味し、「主と一体となる」ことを意味します。イェシュアのからだと血を、自分の内に取り込んで、主と一体となるということなのです。それはイェシュアがなされたことを自分のものとするということでもあります。「主と親しく一つとされる交わり」としての食卓なのです。イェシュアこそ私のすべてという愛のかかわりの世界に招かれていることを確認する場なのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」は、永遠のいのちを持ち、イェシュアのうちにとどまることを可能とします。イェシュアが「わたしのうちにとどまりなさい。」「わたしのことばのうちにとどまりなさい。」「私の愛のうちにとどまりなさい。」と言われたことが実現するために、イェシュアの肉であるからだ、すなわち「パン」を食べ、イェシュアの血である「ぶどう酒」を飲む必要があるのです。これは、神が私たち一人ひとりのために備えてくださったものです。私たちはそれをいただき、そのいのちにあずかるだけです。ですから、「聖餐」のことをギリシア語では「ユーカリスト」と言います。それは「感謝」という意味です。ですから、聖餐式の祈りは純然たる感謝の祈りでなければなりません。嘆願する場ではないのです。
  • 神の計り知れない愛の中にどっぷりと浸りながら、その愛をじっくりと味わい、ひたすらただ感謝することだけなのです。そこにはなんの要求もありません。ただじっと味わうだけです。しかしそこから私たちの神に対するすべてが生まれてくるのです。詩篇116篇の作者のように、「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。私は、自分の誓いを主に果たそう。」・・となって、かかわりのいのちが、神への愛が湧き出て来るのです。この湧き出る泉こそ、「聖餐」が持っている力と言えます。そして、人を新しく変えていくのです。
  • 「聖餐」(主の晩餐)に正しく与るということは、マリアのスタイルと似ていることにお気づきになりませんか。マルタのスタイルは主の晩餐の中にありません。主の晩餐における思い巡らしは、マリヤの姿勢に自分を置くことでもあるのです。

2. イェシュアはなぜ「からだ」(肉)をもたれたのか

  • さて、「わたしは天から下って来た生けるパンです」とおっしゃったイェシュアは、なぜ、パンとして、つまり肉体というからだを持つ必要があったのでしょうか。それが私たちにどのような恵みをもたらしたのでしょうか。私たちがパンを食する時、何を思い巡らしたら良いのでしょうか。そこで「受肉の秘儀」について考えてみたいと思います。ヘブル人への手紙の中に次のようなことばが記されています。

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙10章1~10節
1 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
2 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
3 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました
6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」
8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、
9 また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです

  • 完全ないけにえ、完全なささげもの、永遠の一回限りの贖いということが語られています。このことを実現するために、イェシュアはからだを持たれたのです。このヘブル人への手紙の箇所は実は詩篇40篇から引用されています。実は、詩篇40篇とヘブル10章では、少し異なる点があります。その異なる点とは以下の赤太字の部分です。

詩篇40篇6 節 
あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。
あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、 罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。


へブル人への手紙10章5節
・・・・「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました

  • からだを造ることは神に従順する生涯を送るということなのです。それはなんのためでしょうか。イェシュアがからだをもたれたのは、神が要求するすべてのいけにえとなるためです。それは具体的には「神のみこころを行なう」ことを意味しました。神のみこころを行なうことのひとつは、完全な全焼のいけにえとなることです。つまり、その生涯のすべてが御父を信頼して生きることです。わずかな不信仰もそこには存在しないことを意味します。自分の心が完璧に御父の心と一致しなければ「全焼のいけにえ」となることはできません。本来、「全焼のいけにえ」はそのことを意味するものとしてのささげものだったのですが、人間はそのいけにえを動物によってささげたとしても、神のみこころを完全に生きることは不可能でした。ですから、動物に代わる完全ないけにえとなる人のからだが必要だったのです。
  • 罪のいけにえ(罪過のいけにえも含む)も、毎年、あるいはその都度、神にささげればそのときの罪は赦されますが、その後に犯した罪があれば、また罪のいけにえとなる動物をささげなければなりませんでした。ですから、人々はそのいけにえをささげても、罪の赦しからくる平安の中に過ごすことはできませんでした。しかし、御子イェシュアのからだはその罪のいけにえの身代わりとなってくださったのです。いけにえとなる動物はすべて傷のないものでなければなりませんでした。イェシュアは人の罪のために多くの苦しみを受けられましたが、一切の不平不満をつぶやくことはありませんでした。どんなに言葉の暴力、あるいは身体的な暴力を受けても、完全に御父を信頼して歩むことが求められたのです。でなければ、私たちの罪の身代わりを担うことができないからです。
  • そしてそのみからだは、私たちのために「裂かれ」ました。骨は一本たりとて砕かれはしませんでしたが、イェシュアの罪なきからだは人の罪のためにぼろぼろに裂かれ、傷だらけにされたのです。しかしそれは神のみこころをなすために、つまり、それは私たちの罪の身代わりのいけにえとなるためにはどうしても受けなければならない苦しみでした。また、完全な全焼のいけにえとなるために必要な「からだ」だったのです。
  • 神は、イェシュアのからだを通して、旧約で示されたすべてのいけにえを一回限りにおいて永遠にくくって下さったのです。イェシュアの罪なき「からだ」こそ、私たちにとって必要不可欠なものです。でなければ、私たちは誰一人として神に近づくことはできません。私たちが「主の晩餐」(聖餐式)においてパンとぶどう酒をいただくとき、イェシュアがからだをもって、本来私が神にささげなければならない贖いのいけにえとなってくださったことを覚えましょう。主の苦しみはだれのためでもない、この私のためであったと信じましょう。イェシュアが食べなさいと差し出してくださったパンは、イェシュアのからだであり、私のために苦しんでくださったからだなのです。そのからだを私たちが食するとき、私たちは自分がささげるべき罪のいけにえを神にささげたことを受け取るのです。聖餐においてきわめて重要なことは信仰です。

3. キリストと教会が一体となるために 

  • キリストと教会とのかかわりを「花婿」と「花嫁」というブライダル的視点で見ると、聖餐は婚約の確認であるととともに、やがて再び来られる花婿なるイェシュアを慕い待ち望むときでもあります。イェシュアがからだをもたれたのは、花婿と花嫁とのかかわりが「一体」(「バーサール・エハーッド」בָּשָׂר אֶחָד)となるためです。まずは、創世記2章24節。そしてエペソ人への手紙5章31~32節にあるみことばを見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】創世記2章24節
それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。


【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙5章31~32節
31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」
32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

  • このことは神のご計画における「奥義」であり、しかもその「奥義は偉大です」とパウロは述べています。ヘブル語の「からだ」を意味する「バーサール」(בָּשָׂר)の動詞「バーサル」(בָּשַׂר)は、「良いおとずれを宣べ伝える」という意味を持っています。「ふたりは一体となる」ことは偉大な奥義であるということです。その「ふたり」とは、直接的には「夫と妻」のことを意味しているのですが、その「夫と妻」の関係は、本来の偉大な奥義である「キリストと教会」の類比でしかないのです。つまり、本体は「キリストと教会」であり、その本体の影(写し)が「夫と妻」なのです。ここにイェシュアが受肉しなければならない必然性があったのです。

2016.10.14


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