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イェシュアの埋葬のための注ぎの香油


109. イェシュアの埋葬のための注ぎの香油

【聖書箇所】マタイの福音書26章1~13節

ベレーシート

●マタイの福音書の「イェシュアの公生涯」の最後の部分となる「受難と死と埋葬、そして復活」(26~28章)に入って行きます。26~27章は「受難と死と埋葬」の出来事が記され、28章には「復活」の出来事が記されています。特に今回の話は、「受難と死と埋葬」を「埋葬」の一言で括っていると言えます。

●今回(26章1~13節)は、イェシュアの受難と死の最後の告知(第四回目)がなされるところから始まり、一人の女がイェシュアに近づいて、彼の頭に香油を注ぐという話が中心です。彼女の行為について、イェシュアは何と言ったでしょうか。「この人は、わたしを埋葬する備えをしてくれた」と言ったのです。27章の最後にはイェシュアを埋葬するシーンが出てきます。それを予感させるのがイェシュアの頭に香油を注ぐという行為でした。終わりの(後の)出来事が、最初に(初めに)語られるという聖書特有の修辞法がここにも見られます。埋葬するということは、「死んだ」という事実がなければあり得ません。なにゆえに、イェシュアは死ななければならなかったのか。その必然性にも触れながら、今日のテキストを読んでみたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書26章1~13節
1 イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
2 「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、
4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。
5 彼らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。
6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。
11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。
12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。
13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」


1. すべて語り終えたイェシュア

●1節にイェシュアは「これらのことばをすべて語り終えると」とあります。「終えると」というフレーズは、マタイの五つの説教(①5~7章、②10章、③13章、④18章、⑤24~25章)の後に決まって出て来ます。特に五番目の説教の後には、「これらのことばをすべて語り終えると」となっています。イェシュアの重要な働きは、弟子たちに「御国の福音」について「教える」ものでした。「すべて語り終えると」とは、教える働きを完全に終えたという意味です。イスラエルの偉大な指導者であったモーセの書いた申命記にも、「モーセはイスラエル全体にこのことばをみな語り終えて」(32:45)とあります。約束の地が見えるネボ山にモーセが登る前に、モーセはイスラエルの民に同じような言葉をもって説教を終えて、最後の祝福を与えています。マタイの福音書はユダヤ人に対して書かれたものであることから、マタイの福音書の五つのまとまった説教は「モーセ五書」を真似ているのです。ユダヤ人が尊敬していたモーセを意識しながら、イェシュアがそれを踏み直すという形で描かれています。イェシュアも今「すべて語り終えた」後で、自分の民を救うための最後の行為を実行しようとして、受難の予告をしたのです。

2. 受難の最後の予告

●受難の予告とは、2節の「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます」というものでした。ユダヤ人の一日は夕方から始まり、夜、朝、昼、夕方までです。「二日たつと過越の祭りになる」ということは、このことばを語ったのは火曜日ということになります。

一日目・・・・・ 水曜日の夕方⇒夜⇒木曜の朝⇒昼⇒(嵐の前の静けさ状態でこの日は何もされていません)
二日目【過越祭】 木曜日の夕方(最後の晩餐)⇒夜(ゲツセマネの園での祈りと逮捕)⇒金曜の朝九時(十字架)⇒昼(三時間の暗闇に覆われる)⇒死

●二日たつと過越の祭りになるとは、上記の二日間を言っているのです。一日目の夜に弟子たちとの最後の晩餐をした後、イェシュアはゲッセマネの園で祈られます。その祈りが終わった頃にイェシュアは逮捕され、取り調べの名目でいろいろな場所に徹夜で引き回されて、異常な裁判を受け、死刑を宣告されます。そして金曜の朝には、ローマ総督ピラトによって死刑が言い渡された後、鞭で打たれ、ののしられ、午前九時にはゴルゴタにおいて十字架に磔にされます。正午から午後三時までの三時間にわたって暗闇が全地をおおいます。そのあとで、イェシュアは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と発し、「わたしは渇く」、「完了した」、「わが霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取ります。同時刻に、神殿においては過越の祭りの羊がほふられたのです。イェシュアは逮捕されてから、わずか15時間ほどで異常な死を遂げられたことになります。

●イェシュアの十字架刑はニサンの月の15日の金曜日で、その日はたまたま過越祭の日でした。この祝日はイスラエルの民がエジプトの奴隷から解放されたことを記念する祝日であり、その日に「人の子は十字架につけられるために引き渡され」たのです。「人の子は十字架につけられるために引き渡され」るというイェシュアの予告に対して、弟子たちの反応は沈黙でした。おそらくこの沈黙は、弟子たちにとっては全く予想のつかない、不可解ゆえの沈黙だったと思われます。

●神の啓示について、天的現実地的現実の二つの面があります。天的現実とは昔から定められている神のご計画です。地的現実とはその天的現実を可能とさせてしまう人間のあらゆる計らいです。その双方を考える必要があります。何よりも大切なことは、イェシュアの十字架の死は決して偶然ではなく、神のご計画を実現させる必然の出来事だったということです。イェシュアの発言と行動はすべて神のご計画に基づいてなされているのです。しかし弟子たちはそのことが見えていませんでした。

3. 神のご計画における地的現実

●以下は、神のご計画を実現させてしまう地的現実が記されています。

【新改訳2017】マタイの福音書26章3~5節
3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、
4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。
5 彼らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。

●「そのころ」と訳された「トーテ」(τότε)は「そのとき」とも訳せる副詞です。イェシュアの予告の裏で、イェシュアに対する陰謀が進められていきます。「祭司長たちや長老たち」、すなわちユダヤの指導者たちは、カヤバという大祭司の邸宅に集まって、イェシュアをだまして捕らえ、殺そうと相談したのです。結論はすでに決定しています。彼らの目的はいかにしてイェシュアを殺すかということでした。

●彼らはなぜイェシュアを殺そうとするのでしょうか。彼らはなぜイェシュアを危険人物として恐れているのでしょうか。それは民衆がイェシュアをメシアとして認めていたからです。もしイェシュアが民衆を自分の側に引きつけて反逆的な動きを起こされるなら、自分たちが今の地位から追われるという身の危険を感じたからです。自分たちの身の保全のために、イェシュアを殺さなければならないと考えたのです。これはサタンからの思いそのものです。それは、神の警告を無視して弟アベルを殺してしまったカインが犯した罪と同じです。その罪を宗教指導者たちがこぞって犯そうとしているのです。彼らはイェシュアによって「蛇ども、まむしの子孫ども」と断罪されていました(マタイ23章)。ユダヤの社会は、すでに「蛇とまむしの子孫」が支配する社会となっていたのです。イェシュアが登場することで、それがごまかし切れず明らかにされたのです。

●「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」という懸念は、人を恐れる思いから来ています。しかしそうした懸念も、イスカリオテのユダの裏切りによって突如急転します。つまりユダの裏切りで予告通りにイェシュアは祝日に逮捕されることになってしまうのです。これはイェシュアの予告が真実であることがあかしされると同時に、事が神のご計画どおりに運ばれていくことを想起させます。そしてこのことに何ら気づかずにいる敵の姿が見えます。御子イェシュアの受難は、御父が定められたみこころなのです。

●地を支配しているのはサタンです。地で起こる出来事には、サタンの思惑がいろいろな形で、またいろいろな人たちを通して現れてきます。神の敵はサタンであることを決して忘れてはなりません。神のご計画はこのサタンを打ち破ることなのです。サタンの最後の砦とは何でしょうか。それは「死」です。神はその「死」を打ち破るために、御子を十字架につけることを厭わなかったのです。御子の苦しみは御子だけのものではなく、御父の苦しみでもありました。にもかかわらず、「最初のアダム」が引き起こしたすべてのことを最終的に終結させるために、イェシュアの身代わりの死が不可欠だったのです。以下がその目的です。

① イェシュアの血という尊い代価で支払うことで、すべての負債が免除されること。
② すべての罪が赦されることで、いかなる糾弾からも覆われること。
③ 「最初のアダム」がもたらしたすべてのものを終結させること。

●これはあくまでも神の側から見た天的現実(事実)です。パプテマスのヨハネはそのことを予見して、イェシュアを「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と言ったのです(ヨハネ1:29)。死の出来事なしには、「最初のアダム」のすべてを終わらせて、新しいものに造り変えること(新創造)ができないからです。マタイ26章1節の「人の子は十字架につけられるために引き渡されます」というのは、キリストによる贖いが完成されるための必然の出来事だったのです。

4. 香油を注いだ女の行為

【新改訳2017】マタイの福音書26章6~7節
6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。

●さて、この出来事が示していることは何でしょうか。6節と7節を観察するなら、6節の出来事と7節の出来事が緊密な関係をもっていることに気づかされます。つまり、「イェシュアがツァラアトに冒された人シモンの家におられる」という事実と、そこに一人の女が近づいて「食卓に着いておられたイェシュアの頭に香油を注いだ」ことに関連性があるのです。どういうことでしょうか。女の行為に話が及ぶ前に、イェシュアが「ツァラアトに冒された人シモンの家におられた」ということにしばし心を留めてみたいと思います。

●かつて、イェシュアは「ツァラアトに冒された人」をきよめたことがありました(マタイ8:1~4)。イェシュアが泊まっている家のシモンがその人であったかどうかは分かりませんが、もしそうだとしたら、彼がイェシュアを家に泊めることはとても自然なことです。なぜなら、シモンは御国の住む者たちの象徴的な存在だからです。

●ツァラアトに冒された人の場合、「癒やした」と言わず「きよめた」としているのは、この「ツァラアト」(צָרַעַת)が他の病とは異なり、宗教的な汚れ(不浄)であるからです。ツァラアトは人の目には白いカビのように見えるようです(それは今日のらい病とは異なります)。それに冒された者は、神にも人にも近づくことができない「隔離されるべき者」とされたのです。「ツァラアト」の判定に至っては、祭司たちによって入念に、かつ厳密になされましたが、ひとたび「ツァラアト」だと判定された人は家族からも、親しい者たちからも隔離され、社会的に完全に疎外されるという境遇に置かれることを余儀なくされました。人々との接触が一切許されないという心痛は計り知れません。それはツァラアトに冒された人しか知り得ない苦しみです。そもそも人間は関係性の存在です。ツァラアトに冒され、汚れていると見なされれば、神との関係においても、人との関係においても隔離されるだけでなく、社会からも完全に疎外されてしまうのです。しかもモーセの律法によれば、彼らは人々に「自分は汚れている、汚れている」と叫んで、人々が自分に近づいて触れないようにしなければならなかったのです。これは神によって造られた人間が神との交わりを完全に断たれ、神に近づくことなどできない最も深い罪の「型」です。

●自分とは全く関係のない話だと思っている方が多いかもしれません。なかには、「ツァラアトに冒された人はかわいそう」と同情する人もいるかもしれません。あるいは、「自分はそれに冒されなかったのでありがたい」と思っている方もいるかもしれません。ところが、「ツァラアトに冒された人」の存在はひとつの「型」です。どんな「型」なのかと言えば、自分が神の前に汚れた者であるということを自覚させられた人の「型」なのです。聖書によれば、すべての人は神の前に罪人であり、罪の汚れのゆえに神に近づくことができないのです。「ツァラアトがきよめられた」ということは、やがてキリストが再臨して地上にメシア王国が実現する時には、御国の民となることを意味しているのです。このようにイェシュアがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられるという設定は、まさに天の御国が実現しているという「型」なのです。しかも、そこが「べタニア」であったということにも意味があります。

●「ベタニア」はヘブル語で「ベート・アヌヤー」(בֵּית־עַנְיָה)と表記します。【新改訳2017】では「ベタニヤ」から「べタニア」に改訂されました。それはギリシア語のΒηθανίᾳの音訳に従ってのことですが、ヘブル語から見るならば「ベタニヤ」が原語に近いのです。そして、その意味するところは、「貧しく、苦悩の、へりくだった、柔和な者にふさわしい家」とも訳せるからです。つまり「柔和なる王メシアにふさわしい家」にかつてツァラアトだったシモンの家にイェシュアがともにいる風景が写し出されているのです。そこに、それにふさわしい霊性をもった一人の女が登場して、イェシュアの頭に香油を注ぐのです。ここにはやがて御国の王となるメシアに対して油が注ぐという天的現実が現わされていると考えられます。

●その天的現実が実現するためには、イェシュアが予告したように、「人の子は十字架につけられるために引き渡され」る必要があるのです。そのことを悟った一人の女がイェシュアに近づいて、彼の頭に香油を注いだのです。しかもこの香油は、「非常に高価な」ものであったとあります。マタイではイェシュアの埋葬時に香油を塗るということが省かれています。おそらくイェシュアのからだには香油の香りが漂っていたからだと思われます。ところで、この女が取った行為に対して弟子たちはどう反応したでしょうか。

【新改訳2017】マタイの福音書26章8~9節
8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」

●女のした行為を見た弟子たちの反応は「憤慨」でした。つまり、弟子たちの目には彼女の行為が全く無意味なことのように見えたのです。「憤慨」という語彙には、義憤に近い感情で、「取り返しのつかない愚かなことをしてしまった」という思いを表しています。彼らは自分のものでもないのに、その使い道に口を出しています。しかし、イェシュアは彼女を弁護します。

【新改訳2017】マタイの福音書26章10~12節
10「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。
11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。
12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。

●イェシュアの弁護は、この人は「わたしに良いことをしてくれました」ということ、また「わたしを埋葬する備えをしてくれた」というものです。この二つも同義的パラレリズムです。「良いこと」と訳された「カロス・エルガゾマイ」(καλός ἐργάζομαι)は、イェシュアの目にタイムリーとして「立派な働きをした」ということです。これは神のご計画にそったすばらしい行為だという意味です。弟子たちが「人の子は十字架につけられるために引き渡されます」と言われた時の沈黙と比べるならば、女がイェシュアの埋葬のために香油を注いだことは驚きに値します。なぜなら、弟子たちはイェシュアが死ぬことは夢にも思っていなかったからです。「埋葬する備え」とはイェシュアが死ぬことを前提としています。

●「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言っています。つまり、この備えはいつもできることではなく、イェシュアの一回的な出来事に常に関心を持っている霊性を評価し、それに参与することを願っていることを評価しているのです。埋葬はイェシュアの一連の贖いの出来事の一部にしかすぎません.しかしその一つでも欠けるならば、キリストの贖いは成就することはないのです。私たちは自分のことばかり、あるいは人の必要にのみ関心が奪われています。この世での人間の弱さや苦しみに主はどう答えてくれるということに気が取られがちです。もちろんそれは大切なことですが、神のご計画に対して一向に無関心であることが多いのです。今回登場した一人の女は、神がなそうとしておられるご計画がどのようなことか、そのことに関心をもって参与しようとした稀な人と言えます。イェシュアはその人の行為に対して「良いことをしてくれた」と評価しておられるのです。これは、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていたマリアを弁護した出来事と似ています。

ベアハリート

【新改訳2017】ルカの福音書10章38~42節
38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。
すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

●イェシュアとその一行をもてなすために忙しくし、気をもんでいるマルタに対してイェシュアは次のように言われました。「必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました」と。マタイの「一人の女」の場合は「良いことしてくれました」とあり、マリアの場合は「良い方を選びました」とイェシュアが言っています。「良いこと」も「良い方」も同じく「ホ・アガソス」(ὁ ἀγαθός)です。ヘブル語は「ハ・トーヴ」(הַטּוֹב)で、神の視点から見た「トーヴ」が何かを彼女たちは知っていたのです。二人は同じ霊性を持っていたと言えます。イェシュアは「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます(原文=「語られるようになる」未来受動態)」と預言されました。今日、マルタのように働くことに熱心で、神のご計画を学ぶことなど考えない教会が多くあるようです。主の足もとに座って主のことばに聞き入りながら、神のご計画がどのようになっていくのかを見据えることは「良いこと」なのです。終わりに向かうにつれて、教会がこの信仰の姿勢にシフトして行くことをイェシュアは預言しておられるのです。

●以下の図は、イェシュアの公生涯における最も重要な出来事が記されています。それは「受肉からいのちを与える御霊となられるまで」の贖いの一連の出来事です。これこそが初代教会が伝えた「福音」そのものなのであり、「健全な教え」「真理」そのものです。このことをいつも考えなければなりません。埋葬はその一つの通過点にしか過ぎません。しかし、頭に香油を注いだ埋葬の備えの出来事一つで「受肉から陰府まで」の出来事(贖いの消極面)を括っているとも言えるのです。それは「最初のアダム」を終結させる永遠の一回的な出来事です。マタイの福音書26~27章は、まさにイェシュアがそこに向かって行こうとしているのです。

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2021.8.1
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