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イェシュアの変貌とその意義

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74. イェシュアの変貌とその意義 (1)

【聖書箇所】マタイの福音書17章1~8節

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●前回は、16章の最後の節、「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」(28節)の説明を割愛しました。その理由は、この節が17章1~8節に記されている「イェシュアの変貌」の出来事と密接に結びついているからです。イェシュアの言われる「ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たち」とは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネの三人のことなのです。この三人がどのような経験をしたのかが今回語られています。特に、ペテロにとっては忘れられない経験であったようです(Ⅱペテロ1:16~21)。まずは今日のテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書17章1~8節
1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。
7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
8 彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。


1. 三人の弟子たちだけを連れて

●1節に「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」とあります。

(1)「それから六日目に」

●「それから六日目に」の「それから」とは、ペテロの「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白がなされた後、イェシュアが「エルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められて」から「六日目」のことです。約一週間、イェシュアと弟子たちとの間には沈黙がありました。イェシュアの言ったことを、ペテロをはじめ、他の弟子たちも正しく理解することができなかったのです。弟子たちの心中を察するならば、イェシュアが本当に神なのか、メシアなのか、疑い始めていたのではないかと思います。

(2) 「ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけ」

●そこでイェシュアは「ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」のです。その目的はイェシュアご自身のためではなく、弟子たちのためです。この点がとても重要です。先のペテロの告白した「あなたは神の子キリスト」という意味を、弟子たちに正しく教え諭すためだったのです。そのためにイェシュアは弟子たちの中から三人だけを選びました。なぜなら、これはある事柄を立証するために、律法が要求している人数だったからです。

【新改訳2017】申命記19章15節
いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。

●実はこの三人ですが、他の場面でもイェシュアがなさったわざの証言者として選ばれています。それは、
①「会堂管理者の娘のよみがえり」(マルコ5:37)、②「ゲッセマネの祈り」(マタイ26:37)です。これらは、御国における復活のデモンストレーションとイェシュアの多くの苦しみの証言者となるためでした。そして今回のイェシュアの変貌の出来事は、イェシュアと旧約の密接なつながりを教示し、証言させるためです。そのために、ぺテロとヤコブとその兄弟ヨハネを弟子たちの中から選び出し、彼らを連れて、高い山に登られたのです。

(3) なぜ、「高い山」なのか

●ところで、なぜ、「高い山」なのでしょうか。これまで神がご自身の重要な啓示を現される場として、山が多いのです。モーセはホレブの山の麓で「火で燃えているのに燃え尽きない柴」を見、そしてイスラエルの民をホレブの山のところに連れて来て、その山で神から律法を受け取りました。預言者エリヤも主の働きに疲れてホレブの山に導かれ、彼の後継者エリシャに油を注ぐように語られました。このモーセとエリヤが今回の「高い山」に登場しているのは、神が彼らをご自身のご計画における重要な啓示の証言者として、弟子たちに示すためです。

●イェシュアが変貌する「高い山」とは、16章13節の延長線上の出来事とみなされることから、ピリポ・カイサリアの北方20数キロのところあるヘルモン山だとする解釈が有力ですが、別の山だとする解釈もあります。いずれにしても、山は神の啓示の場だということです。大切なことはその啓示の内容なのです。

2. イェシュアの変貌

(1) イェシュアの御姿が変わる

●マタイの福音書17章2節には「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった」とあります。並行記事のマルコには、顔の部分の記述はなく、「その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった」 (9:3)と記しています。いずれにしても、輝きの白さは神の神性をあらわすもので、それはこの世のものではないということを強調しています。おそらく、再臨のイェシュアもそのような姿で来られると考えられます。

●ちなみに、「御姿が変わる」と訳された「メタモルフォオー」(μεταμορφὁω)はアオリスト受動態です。つまり、変わるのではなく、神によって変えられたのです。この語彙は新約聖書でイェシュアの変貌の箇所(マタイ17:2、マルコ9:2)の他に、あと二箇所で使われています。イェシュアを主と信じる私たちも、実は同じく変えられるのです。

【新改訳2017】ローマ人への手紙 12章2節
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙 3章18 節
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

●いずれも受動態で、御国の「すでに」の恵みとして保証されています。その行き着く私たちの姿は「鏡のように主の栄光を映す」ことになるのです。これは御霊の働きによるものであり、キリストの再臨時には、一瞬にして、私たちのからだが「御霊のからだ」に変えられるのです。

(2) 「すると見よ」

●3節には「そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。」とあります。3節と5節に「見よ」という語彙が3回出て来ます。3節と、5節に2回です。ヘブル語では「ヒンネー」(הִנֵּה)です。この語彙は注意を喚起すると同時に、そこに深い意味が隠されていることを暗示しています。特に、旧約の預言者たちがこの語彙を使っています。それは神のご計画と深くかかわる内容が告げられているからです。そしてこの箇所にも同じくマタイは使っているのです。

●3節で喚起されているのは、「モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた」ということです。先に述べたように、モーセとエリヤは山で主の啓示を受けた人であると同時に、モーセは律法の代表者であり、エリヤは預言者の代表者と言えます。律法(トーラー)はモーセ五書を示しますが、預言者(ネヴィーイーム)とは私たちの聖書で言えば「歴史書と預言書」です。ですから、モーセとエリヤはいわば旧約の代表者と言えます。その二人が弟子たちの前に現われ、イェシュアと語り合っていたのです。実はこのことが重要なのです。一体何を語り合っていたのでしょうか。マタイはそのことに触れていません。しかしルカはそのことに触れています。それによれば、イェシュアが「エルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していた」(9:31)と記しています。「エルサレムで遂げようとしておられる最期」の「最期」という語彙は「エクソドス」(ἔξοδος)で、出エジプトを意味します。つまり、イェシュアがエルサレムで成し遂げようとされることは、イスラエルの民を罪から救い出すことと神の民として回復することを含んでいます。これがイェシュアの来臨(初臨と再臨)の目的なのです。そのことについてイェシュアとモーセとエリヤが話し合っていたと思われます。それは、旧約聖書のモーセ五書が語り、かつ預言者たちによって語られてきたイスラエルの救いの約束が、イェシュアによって成就されるという神のご計画が表されています。つまりイェシュアは旧約の完成者なのです。そうした内容について、イェシュアがモーセとエリヤに語り合っている姿を、マタイが「見よ」と記していることに目を留めなければなりません。

●この二人についてさらに言うならば、モーセは死に、エリヤは死なずに天に挙げられた人です。とすれば、モーセはキリストの地上再臨のときに全イスラエルが回復される型、エリヤはキリストの空中再臨のときに教会が携挙される型とも言えます。

●5節には、以下のように、二つの「見よ」があります。それはペテロが口を挟んで語っている最中に起こった場面にあります。

「彼(ペテロ)がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け』という声がした。

●一つ目の「見よ」は「光り輝く雲が彼らをおおった」ことに対して、二つ目の「見よ」はその雲の中から発せられた声に対してです。特に、「彼の言うことを聞け」という御父の声です。
①前者の「見よ」の「光り輝く雲が彼らをおおった」という表現は、神の臨在の栄光が彼らに望むことを意味します。

【新改訳2017】出エジプト記 40章34~38 節
34そのとき、雲が会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。
35 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。
36 イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
37 雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。
38 旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。

●34節の「そのとき」とは、幕屋(=会見の天幕)の設営が終わったときですが、そのとき、「雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」のです。「雲」とは主の臨在を表わすと同時に、「雲」は御使いたちの比喩的表現です。幕屋をおおった「雲」が、幕屋の移動と定住のたびごとに常にあったことは神の臨在がイスラエルの民の上にあったことを意味します。

② 後者の「すると見よ」は、御子イェシュアに対する御父の信任の声です。このことばはイェシュアが公生涯に入る際、バプテスマのヨハネから洗礼を受けた際に天から発せられた声でと同じです。まだその時には弟子たちは呼び出されていませんからは、弟子たちはだれも聞いていません。洗礼の際には、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」だけでしたが、変貌のときには、「彼の言うことを聞け」ということばが付け加えられています。これは、モーセやエリヤに勝るイェシュアの至高性を意味しています。なぜなら、律法も預言者もイェシュアを指し示しているからです。つまりイェシュアはモーセとエリヤとは同等の立場ではないのです。「彼の言うことを聞け」とは、歴史を導いてこられた御父の声なのです。このことを聞いた弟子たちは「ひれ伏した。そして非常に恐れた」のです。

3. ペテロの発言

そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、
私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

●「モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた」のを見たペテロは感激のあまり、「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。」と言い、そして「よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」と言いました。

●「よろしければ」と訳されていることばは、「もしあなたがお望みになるなら」という意味です。ここでもペテロは、神の思いよりも人間的な思いを優先してしまっています。繰り返しますが、「イェシュアの変貌」の出来事は、イェシュアご自身のためではなく、弟子たちのためであったことを忘れてはなりません。それはイェシュアが神の御子であること、メシアとしての神性を教えるための出来事だったのです。しかしペテロは感激のあまり、つい自分の思いが口から出てしまったという感じです。4節には「そこでペテロがイエスに言った」(新改訳2017)としか訳されていませんが、ギリシア語原文には「答えて、言った」という二つの動詞が使われています。前半の「答えて」は「アポクリノマイ」(ἀποκρίνομαι)で、聖書協会共同訳はこれを「口を挟んで」と訳しています。どんなに素晴らしく感じることでも、そこから発する自分の思いが純粋で正しいとは言えないということです。私たちは、神の恵みに浴した感動から出て来る思いや行動はすべて純粋だと思いがちです。私自身もペテロのように反応してしまう一人です。たとえ優しさであったとしても、肉の思いがしばしばあるのです。ですから、自分の思いではなく、神の思い、神の考えは何かということをいつも優先するには御霊の助けが不可欠なのだと思います。

●ペテロが口を挟んで言ったことばは、「よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」ということでしたが、ちなみに、ペテロの言った「幕屋」とは「仮庵」(仮小屋)を意味する「スケーネー」(σκηνή)の複数形「スケーナ」(σκηνα)で、ヘブル語にすると「スッコート」(סֻכּוֹת)です。中近東の世界では、大切な客に敬意を払って仮庵(仮小屋)を建てる習慣があったようです。ペテロはイェシュア、モーセ、エリヤをそのような客とみなして、彼らに対する歓迎の意を表そうとしたのかもしれません。しかしそんなペテロの思いをさえぎるように、雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声が臨んだのです。この箇所も「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」ことが指摘されているように感じます。ペテロが自分の思いを捨てて、神の思いを思いとすることができるように、イェシュアは忍耐をもって導かれる方です。恐れている弟子たちに近づいて触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われたことがそのことを物語っています。ペテロがこの出来事とその意義を後に深く悟ったことを、彼の手紙(Ⅱ1:16~21)を通して知ることができます。最後にその箇所を見ておきたいと思います。

4. 変貌の預言的啓示を悟ったペテロ

【新改訳2017】Ⅱペテロの手紙1章16~21節
16 私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。
17 この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
18 私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。
19 また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
20 ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。
21 預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

●16~18節まではペテロが経験したイェシュアの変貌の出来事が記されており、19~21節はその出来事の意義について書かれています。16節でペテロはキリストの力と来臨(初臨と再臨)について触れています。16節の「キリストの威光」と17節の「この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき」はいずれも変貌の出来事を指しています。しかも変貌の出来事をペテロは主の再臨の予表と見ています。それは主の再臨こそ、神の究極的な救いの終局であり頂点だからです。17節の「厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」」ということばを、イェシュアこそ神の子としての特別な地位にあることをあかしする御父の声として、また、イェシュアの姿が輝いた本質をあかしするものとして、ペテロは重く受け止めたのです。

●19節以降には、「また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています」と述べ、旧約聖書がイェシュアこそ神の子であることを証言するものだと語っています。「夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです」とは、キリストが再臨するまでは、旧約聖書を「暗い所を照らすともしびとして」、すなわち「預言のみことば」として、それに目を留めるべきこと。さらにはその預言が確かなものであることを命じているのです。ここに、ペテロがイェシュアの変貌の出来事を正しく悟ったことを私たちは知ることができます。そしてこれが使徒的宣教の中核的使信となったのです。

2020.3.29
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