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イェシュアへの暴行とペテロの否認

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11. 午前3時~午前4時 イェシュアへの暴行とペテロの否認

【聖書箇所】
マタイの福音書26章67~75節、マルコの福音書14章65~72節
ルカの福音書22章54~65節、ヨハネの福音書18章15~18、25~27節

ベレーシート

  • ここでは、イェシュアに対する暴行とペテロの三度の否認を扱います。前者のイェシュアに対する暴行はヨハネを除く共観福音書に記されていますが、後者のペテロの否認はすべての福音書が記しています。イェシュアの毅然とした沈黙とペテロの否認が対照的に描かれています。
  • イェシュアを侮辱する行為は、サンヘドリンでの判決の後だけでなく、ローマの総督ピラトによる裁判の後で、ローマ兵によってもなされています(マタイ27:30)。

1. イェシュアに対する暴行

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書 26章67~68節
67 そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、
68 こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」


【新改訳改訂第3版】マルコの福音書 14章65節
65 そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当ててみろ」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。


【新改訳改訂第3版】ルカの福音書22章63~65節
63 さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。
64 そして目隠しをして、「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか」と聞いたりした。
65 また、そのほかさまざまな悪口をイエスに浴びせた。

  • マタイとマルコでは、「そうして」(「トテ」τότε)という接続詞によって、イェシュアに対する判決が下された後に、イェシュアに対する暴行がなされたと理解できますが、ルカの場合は「さて」(「カイ」και)という接続詞が用いられ、時間的順序というよりも関連する事柄として記されています。
  • イェシュアに対する屈辱的な暴行を働いた者たちについては、各福音書によってさまざまです。全体を概観すると、議員たち(その一部の者たち)と役人たち(イェシュアを監視する者たち)と考えられます。彼らは、イェシュアに対して「顔につばきをかける」「こぶしでなぐりつける」「平手で打つ」「むちでたたく」「嘲笑する」「悪口を浴びせる」などの侮辱的な行為をしています。こうした屈辱に対してイェシュアは完全な無抵抗と沈黙を通します。
  • イェシュアに対するこうした侮辱的行為はメシア預言の成就です。換言するなら、もしイェシュアがこうした屈辱を受けなかったとすれば、イェシュアはメシアではなかったことになります。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書50章5~6節
5 神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、
6 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。


【新改訳改訂第3版】イザヤ書53章7節
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。


2. ペテロの否認

  • ペテロが主を三度否認することは四つの福音書が記しています。また、その予告についても同様です。しかし、その語られた時が少々異なっています。マタイとマルコの場合は最後の晩餐の後、みなオリーブ山へ出かけて行ったそのときとなっていますが、ルカとヨハネの場合は晩餐の時に予告されています。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書26章31~35節
31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。
32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。
35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。


【新改訳改訂第3版】マルコの福音書14章27~31節
27 イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから。
28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。
31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。


【新改訳改訂第3版】ルカの福音書22章31~34節
31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。


【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書13章36~38節
36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。

  • 聖書において、「三」という数はいろいろな箇所で出会いますが、それはある種の徹底性を表わす「三」です。主の受難の中では、
    ①イェシュアがゲッセマネにおいて三度祈っています。
    ②ペテロが主を三度否認するという予告がなされ、そしてそのとおりになります。
    ③ローマ総督ピラトがイェシュアの無罪を三度主張します。
  • マタイの福音書ではこれまでにも、ペテロの失敗に対してイェシュアが語ったことばを記しています。
    ①ペテロの不信仰に対して(14:31)
    ②ペテロが神よりも人のことを思っていることに対して(16:23)
  • すべての福音書が弟子たちの筆頭(代表的実例)であるペテロの失敗を描くことによって、人間がいかに弱い者であるかを描いているように思います。この弱さのために人は罪を犯してしまうのです。この弱さとは「恐れ」です。人間が罪を犯した被造物であるがゆえにもたらされている弱さです。
  • ペテロを含め、他の弟子たちもまさか自分たちが主を裏切ることになろうとは思いもよらなかったはずです。ペテロも他の弟子たちがみな主を裏切ったとしても「自分だけは」と思っていました。そのペテロが三度も主を否むことになるのですから、その失態は大きいと言わざるを得ません。しかし(ペテロの名誉のために)、ペテロが他の弟子たちと異なる点は、他の弟子たちが全く姿をくらましてしまったのに対して、ペテロだけ()はイェシュアから離れずに、大胆にも大祭司の中庭まで行き、事の成り行きを見ようとしたことです。結果的には、主を否むことになってしまいましたが、最後までペテロはイェシュアといっしょにいようとしたことは大いに評価すべきことではないかと思います。

ヨハネの福音書18章15節によれば、「もうひとりの弟子」も大祭司の中庭に入っています。この「もうひとりの弟子」とはヨハネ自身のことです。


3. ペテロに対するイェシュアの眼差し

【新改訳改訂第3版】ルカの福音書 22章61節
主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

  • 上記はルカだけが記している箇所です。ここにあるイェシュアの眼差しは、三度も主を否定したペテロに対する非難を込めたものではありませんでした。なぜなら、ルカはすでにイェシュアがペテロのために祈ったことを以下のように記しているからです。

22:31 「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

  • イェシュアの眼差しは、弱きペテロに注がれた「あわれみの眼差し」と「赦しの眼差し」でした。そしてさらに、「励ましの眼差し」でした。それゆえに、ペテロは神に立ち返ることができたのだと信じます。

2015.3.21


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