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イエスのとりなしの教え

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B-03. イエスのとりなしの教え



イエスのとりなしの教え(イエスのたとえから)

  • アンドリュー・マーレーは、ルカの福音書11章5~8節のたとえを、「本当のとりなしの祈りに関する教えの完全な宝庫」であると述べている(参照『キリストとともにー祈りの学校―』76頁、いのちのことば社1981年)。

    また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

  • このたとえには、弟子たちから「私たちにも祈りを教えてください」と言われて教えられた「主の祈り」に続くたとえ話である。いずれも祈りについて取り扱われている。前者の「主の祈り」は天の父に対して祈るその内容について語られており、後者のたとえは、とりなしの祈りについて語られている。とりわけ、とりなし手の大切な資質について教えられている。
      
    ①人の必要に対する自発的な愛
  • このたとえには、自分の周囲に困っている人々を助けたい、何とかしてあげたい、という自発的な愛が見られる。自分のことではなく、自分に関わる人の必要のためにとりなす姿がここにある。物質的な飢え、愛という心の飢え、風を追うような、ゆがめられた心の願望を満たそうとする飢え。(注1)
  • 今日、飢えを満たそうとする心の渇望はさまざまな形となって現われている。また、生存を脅かす飢えのみならず、防衛の保証(守り、助け)の必要もある。
  • 「真夜中」とは象徴的である。それは不毛と絶望に私たちを閉じ込める闇であり、危機である。

②自分の無力感

  • このたとえには、人の必要を感知し、受けとめる心がある。しかし自分の中にはその必要を満たし得るものがなにもない。「出してやるものがない」とは、自分が人の必要に対して全く無力であるという自覚である。そこからとりなしがはじまる。訪ねて来た者のために、必要が満たされるようにと「三つのパンを貸してくれるように」友に頼んだ。「三つのパン」とは、人が一日を生きるに必要なものという意味である。

③拒絶とその意味

  • しかしここで意外にも拒絶に出会う。この拒絶は何を意味するのだろうか。この経験の意味するところは、とりなしの祈りの真実の度合いがしばしばテストされるということである。どこまで本気に求めているか、その愛がどれほど本物であるかをさぐられるテストである。友に対する友情の確かさ、神に対する信頼の確かさのテストである。天の父は祝福を与えることのできる唯一の方であり、祈りに答えられる方でもある。しかし、天の父は祈りの答えを延ばされることがある。

④あくまでも信頼し続けて祈ること

  • イエスは「彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても」と語っている。これは、単に、友だちだからということで与えられるとは限らないとしても、「あくまで頼み続けるなら」、つまり必ず助けてもらえると信じて頼み続けるなら、その信仰のゆえに、友は「起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」と語られているのである。執拗さは、信頼の絆の強さを意味している。(注2)
  • とりなしの祈りの務めにおいて本当に必要なのは継続である。その継続の力は計り知れない。今日、神はダビデの幕屋を回復しておられるが、そのダビデの幕屋における特徴のひとつは、「昼も夜も、絶えることのない賛美と祈り」である。神の御子イエスでさえ、ご自分の働きを全うするために何度も夜を徹して祈られた。十字架に直面する力を得るために、ゲッセマネの園で三度も苦しい祈りのときを過ごした。へブル人への手紙5章7節には「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」たと記されている。
  • ところで、どうして祈りにおいてこのように何度も同じ事のために祈るという忍耐が要求されるのだろうか。祈りの答えが遅れるのはなぜか。そのひとつの理由として考えられることは、神が最も良いタイミングを持っておられるということである。しかしこれとて、一度祈ったならば、信仰をもって待てばよい話ではないか。なぜ、あきらめずに祈り続けることが必要なのだろうか。

(注1)

  • 旧約聖書の「伝道者の書」は、この世のすべてを手にしたソロモン王が、風を追うような心の願望のゆがみと、その願望の呪縛を解くまことの光を悟るまでの心の旅が記されている。彼は、実に自分の成功、自分の幸せ、自分の健康、自分の家、自分の財産、自分のお金、自分の快楽、自分のすばらしい教育について語っている。しかし伝道者の書2章11節には『しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。』と記されている。

(注2)

  • イエスのたとえ話の中に、やもめの執拗さが、神を恐れず、人を人とも思わない悪徳裁判官の気持ちを動かすという話がある(ルカ18章1~8節)。動くはずのない裁判官の気持ちを動かし、やもめの願いがかなうことになった。これは失望せずに、執拗に、常に祈ることへの励ましとなっている。やもめの執拗さが悪徳裁判官さえ動かしたのであれば、「まして神は」は、必ず「夜昼神を呼び求めている選民」の祈りを聞いてくださるのだということを教えようとしている。


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