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イエスの復活と顕現(2)

76. イエスの復活と顕現(2)

【聖書箇所】 24章13節~35節

はじめに

  • ルカの福音書24章は三つの部分から構成されています。それは、それぞれが「イエスの復活の事実」に対する説明が語られています。

(1) 空の墓に訪れた女たちに現われた二人の御使いの説明
(2) エマオへの途上の弟子たちに現われたイエスの説明
(3) 十一使徒たちに現われたイエスの説明

  • 今回は、「イエスの復活と顕現」の第二として、「エマオの途上にある二人の弟子に現われたイエスご自身の説明」について注目してみたいと思います。

1. 目がさえぎられていた二人の弟子

  • イエスの弟子として自分の村であるエマオに帰る二人の者が登場します。彼らはイエスの十字架の出来事と三日後に女性たちが墓に行ってみると、イエスの姿はなかったものの御使いたちがイエスが生きていおられるということを告げたことを、イエスの弟子たちのいるところにまで戻ってこと、それを聞いた弟子たちの何人かが墓に行って確認したところ、女たちが言ったことは本当であったということまでを知っていました。イエスが復活されたその日の夕方にイエスは弟子たちのところに現われているので(ヨハネの福音書20:19)、その前に、イエスはエマオへと向かう二人の弟子たちに現われたと考えることができます。そしてイエスは夕刻の食卓の席から姿を消しています。
  • 復活されたイエスが二人の弟子に現われたとき、どうして彼らがイエスだと分からなかったのかという疑問です。その疑問は、マルコの福音書の平行記事16章にある情報から解くことができます。それは、イエスが「別の姿でご自分を現わされた」(16:12)からです。興味深いことに、ヨハネの福音書では、復活のイエスは最初にマグダラのマリヤにご自身を現わされましたが、マリヤは復活されたイエスを実際に目にした時に「園の管理人」だと思ったとあります。しかしイエスが、マリヤに対して「マリヤ」と声をかけたその声で、マリヤはイエスだと分かったとあります(ヨハネ20:14~16)。
  • ですから復活されたイエスの姿は、以前の姿ではなく、「別の姿」であったことが分かります。マルコの言う「別の姿」とはどんな姿だったのでしょうか。聖書には何の説明もなされていませんが、戸が占められていてもスーッと入って来られる霊的な身体をもっておられたたけでなく、以前の見慣れた面影とは異なっていたということが言えます。
  • ところが、ルカはなぜか「彼らの目がさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」(ルカ24:16)と記しているのです。ルカはここで明らかに、風貌の面だけではなく、より深い次元で語っているように思えます。「(目が)さえぎられて」と訳されているギリシャ語は「クラテオー」κρατεωの受動態未完了形です。「クラテオー」の名詞は「クラトス」κράτοςで、「力、支配力、統治力、強さ」を表す語彙です。ですから、ルカはここで「ある力によつて支配され」、その状態がずっと継続していることを意味する「未完了形」が用いられています。つまり、神の敵であるサタンの霊的な力によって支配されている状態(保持)を意味します。それゆえ、二人の弟子は「イエスだと分からなかった」とルカは解釈しています。そのことを、使徒パウロの表現を借りて言うならば、「この世の神が不信者の思いをくらませる覆いをかけて、福音の光を輝かせないようにしている状態」を意味します(コリント第二4:3~4)。
  • それゆえ、エマオの二人の弟子が、後で「イエスだとわかった」ということは、彼らを縛っていた霊的な力から解放されたことを意味します。彼らもイエスのした行為(食事の席でパンを取って祝福し、それを裂いて渡すという行為)を見て、「イエスだと分かった」とありますから、イエスの風貌は死ぬ前のものとは異なっていたことが推測されます。
  • 二人の弟子たちはイエスのした行為のみならず、イエスが「聖書を説明してくださったことで、心のうちが燃やされた」という経験も「目が開かれる」要因であったようです(ルカ24:35)。

2. 聖書を説き明かされたイエス

  • ルカはこのこの福音書をローマ高官であったテオピロに宛てて書いています。そのためにルカはさまざまな資料を綿密に調べ、しかも順序立てて書いていまが、その目的とするところはテオピロが「すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よく分かって」もらうためでした(ルカ1:3~4)。それゆえ、イエスの復活の出来事も正確な事実であることを分かってもらうようにルカが工夫しているのです。
  • 第一の工夫では、「空の墓に訪れた女たちに現われた二人の御使いの説明」によってでした。そこではイエスが生前、繰り返し語っていたこと、すなわち、イエスはエルサレムにおいて捕えられ、苦しめられ、殺される。そして三日目によみがえる」ということを「思い出させる」ことが強調されています。イエスが死からよみがえられるということは、イエスご自身がこれまで何度も語っていたのです。そのことを想起させています。そして彼女たちはそのことを「思い出した」のです。
  • 第二(つまり今回の箇所)では、「(霊の)目が開かれること」が強調されています。そのために、復活のイエスは、彼らに「キリストは、必ず、苦しみを受けて、それから、栄光に入る」という必然性を、聖書全体を通して説き明されたのです。
  • 「キリストは、必ず、苦しみを受けて、それから、栄光に入る」という必然性を聖書(旧約聖書)をもって説き明かすことを、この二人の弟子はこれまで聞いたことがなかったのかもしれません。イエスはおそらく旧約聖書のメシアに関する箇所を次から次へと引用しながら、しかも、それらを密接に関連づけながら、次々と神のご計画の秘密を説き明かしていったのです。それができる背景には、聖書の事柄が良く知られているという前提があります。ですから、それらがある視点から結び合わされ、関連づけられることによって、それまでは見えていなかったことが見えるようになります。それまでバラバラであった聖書知識が、一つの糸を紡ぐように結び合わされます。みことばが説き明かされるということは、そのような意味なのです。みことばが説き明かされることによって、聞く人々が「心燃ゆる経験」をするのです。ですから、二人の弟子たちは、感動をもって、「道々お話になっている間も、私たちの心は燃えていたではないか」と言うことが出来たのです。
  • 二人の弟子は「心が燃える経験」をしたので、すでに目的地に着いても、さらに、より深く、もっと話を聞きたいと思い、(イエスを)自分たちの家に「泊まるように」と無理に願ったのでした。イエスはもっと遠くに行く様子であったとあるのは、イエスの戦術です。もし弟子たちの関心が希薄であれば、それまでのことで、イエスは去って行かれたはずです。しかし弟子たちが、自ら聖書が言わんとすることをより正しく理解しようとして、神に尋ね求めようとする時、さえぎられていた目が開かれるのです。これは神の奇蹟的な業です。
  • 二人の弟子ちはイエスに「泊まって」下さいと無理に引き止めました。原文では「私たちと共に泊まって下さい」となっています。ここで重要なことは、弟子たちの自発性です。「泊まる」ということばは、「どとまる」という言い方で用いられます。ギリシア語は「メノー」μενωで、ヨハネの福音書のキーワードです。それは神との親しいかかわりを持つことを意味しています。みことばが説き明かされて心燃える経験は聖霊のみわざです。

むすび

  • 霊的な目が開かれなくては、イエスの復活の事実を確信することはできません。それゆえ詩篇119篇の作者が祈ったように祈ります。

【新改訳改訂第3版】詩篇 119:18
私の目を開いてください。
私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに
目を留めるようにしてください。


2012.11.29


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