****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し完成します。******

イエスの説いた弟子道(2)

47. イエスの説いた弟子道(2)

【聖書箇所】 14章25節~35節

はじめに

  • イエスの公生涯において特徴的なのは、常に弟子たちが彼の周囲に存在していたということです。特に、選ばれた12人の弟子(ルカは彼らを使徒としています)は、寝食を含めて師であるイエスと共に行動を共にしていました。こうした師弟の関係において、師は父のような存在、いや父以上の存在であったようです。イエスと同時代のユダヤ人にとってはそれが当たり前のことであったようです。
  • 14章25~35節は、イエスの弟子となる条件をイエスご自身が自分と行動を共にしようとしている大勢の群集に対して語られた箇所です。

1. イエスの弟子となるための条件

  • イエスの語ったことばにはヘブル的表現の特徴が見られます。その特徴の第一は「パラレリズム」(並行法)です。同じ内容を別のことばで表現し直す修辞法です。ここでは同義的パラレリズムが見られます。

26節
「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」

27節
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることができせん。」

33節
「自分の財産を全部捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」

  • つまり、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎むこと」と、「自分の十字架を負ってわたしについて来ること」、「自分の財産を全部捨てること」とはみな同義なのです。
  • 第二のヘブル的表現の特徴は、あることを強調するためにその対照(対比)となっているものが完全に否定されるというものです。ここでは師の弟子となるために、自分の家族や自分のいのちまでも憎むという表現がそうです。「憎む」ということばを日本的な意味で理解すると真意からはずれます。ここで言わんとしていることは、師の弟子というかかわりの前では、家族や自分のいのちは二次的な位置づけになるという意味です。
  • たとえば、「主はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(マラキ1:2, 3)という場合、主はエサウを「憎んだ」ということではなくヤコブのようには愛さなかったということです。「憎む」という動詞はヘブル語の「サーナー」שָׂנָאで、ヤコフの息子たちが父の愛を一身に受けているヨセフを憎んでという意味で使われますが、反対の意味を持つ用語や語句と合わせて使われるとき、優先順位的な意味合いとなるようです。ヤコブが自分の妻ラケルを愛したが、レアは嫌われたという場合、そのままの意味ではなく、ラケルのようには愛されなかったという意味で理解すれば良いということです。ちなみに、神のトーラーでは親子の関係や夫婦の関係はとても大事にされます。ですから「師のもとに来て弟子となる」関係を優先することを強調するために、親子や夫婦の関係は第二の優先順位となることを表現したのが「憎む」ということばなのです。日本人の感覚としては受け入れにくい表現です。
  • また、「十字架を負うこと」、「財産を全部捨てる」というのも、すべて師と弟子とのかかわりが最優先されるための反意的表現となっているこということです。字義通りに理解してはならないのです。

2. 師と弟子とのかかわりは「まずすわって」「計算し」「熟考してから」決断をくだす

  • さて、師と弟子とのかかわりは家族以上に優先されることが求められるのですから、弟子となる前にそのリスクと価値について、事前に良く考えるべきことをイエスは三つのたとえで語っています。

    (1) 塔を築こうとするとき
    第一のたとえは、「塔を築こうとするとき」のたとえです。完成に十分な費用があるかどうかを「まずすわって、計算すること」。そうでないと笑い者となってしまうことを教えています。

    (2) 戦いを交えようとするとき
    第二のたとえは、勝ち目のある戦いかどうかを「まずすわって、考えること」

    (3) 塩の存在価値
    第三のたとえは「塩が塩気を失うようでは、無用な存在となる」ため、(1)と(2)にあるように、「まずすわって、計算し、よく考えて決断する」ことを強調するためのたとえとなっています。

(1) まずすわって

  • 第一と第二のたとえの中に共通してある「まずすわって」は「まず、最初に」という言葉と「座る」ということばか共通して使われています。「まずすわる」ことが肝心です。前者の「まず」(「プロートス」πρωτος)とは「πρό(前に)の最上級のプロアトスの略です」) とは、「最初にすべきこととして、第一の事柄として、なによりも優先して」というニュアンスをもつ副詞です。後者の「すわる」はギリシャ語では普通の意味での「カスィゾー」καθίζωですが、ヘブル語では「ヤーシャヴ」יָשַׁבという動詞が当てられます。ヘブル語の「ヤーシャヴ」は単に「座る」だけでなく、主のうちに「住む」、主のうちに「とどまる」ことを意味する動詞です。つまり、主との親しいかかわりの中で、その静まりの中に自らを置くことを意味する言葉です。優先順位として「まず、主との親しいかかわりを築くこと」、これが第一と第二のたとえの中にある「まずすわって」と訳されていることばの意味です

(2) 計算すること

  • 14:28の「計算する」ということばは、ギリシャ語では「ペーフィゾー」ψηφίζωですが、ヘブル語では「ハーシャヴ」חָשׁבのピエル態(強意を表わす)が当てられています。ピエル態の「ハーシャヴ」は、「計算する、たくらむ、思い巡らす、顧みる」という意味で使われます。「思い巡らす」という意味の「ハーシャヴ」は旧約では瞑想用語の一つです。単に損得を計算するということはなく、十分に思い巡らすことが求められています。早急な決断ではなく、じっくりと瞑想を深めることによってもたらされる決断です。

(3) 考えること

  • 14:31の「考える」はギリシャ語の「ブーレウオマイ」βουλεύομαιの未来形・中態が使われ、「自ら考え、熟考して結論を出す」ことを意味する動詞です。ここのヘブル語は「ヤーアツ」יָעַץのヒットパエル態(強意形)が当てられています。本来は「忠告する、助言する」という意味ですが、ヒットパエル態では「ともに相談する」という意味になります。ヘブル語訳を援用するなら、ともに相談するが、最終的には自分で結論を出すというニュアンスになります。
  • これらのことを見ていくと、師と弟子との関係はなによりも優先されるべきかかわりであるゆえに、事前にそのリスクを計算し、よく考えた上で決断することを教えていることがわかります。ここにはなんら強制的なものはありません。むしろ瞑想の中での自発的、主体的な決断が求められているのです。これがイエスの考えておられた師と弟子とのかかわりなのであり、塩が塩気を保つ唯一の秘訣なのだと思います。

2012.04.05


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