****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イエスの説いた弟子道(3)

63. イエスの説いた弟子道(3)

【聖書箇所】 22章24~34節

はじめに

  • 過越の食事をしたあとで、弟子たちの間で「だれが一番偉いだろうか」という論議が起こったことを契機に、イエスは弟子としての道について語られました。今回は「イエスの説いた弟子道(3)」として、二つのことを取り上げたいと思います。
  • ひとつは「仕える人であれ」ということ、もうひつは、信仰がふるわれた後に、「立ち直ったら、兄弟たちを「力づける」ということです。ここでの弟子たちに対するイエスのまなざしは、彼らを決して責めることなく、いつくしみに満ちています。

1. 治める人は仕える人のようであれ

  • イエスの教え、あるいはイエスの弟子訓練は、予め定められたプログラムに従ってなされたわけではありませんでした。むしろ、あることを契機として最もふさわしい時に、ふさわしい形で語っています。それがイエスのやり方でした。
  • 弟子たちの間で、「この中でだれが一番偉いだろうか」と論議している時に教えられたことです。

「あなたがたの間で一番偉い人は一番若い者のようになりなさい。」
(同義的並行法)
「治める人は仕える人のようでありなさい。」

27節では「仕える人」が「給仕する者」となっていますが、原語はいずれも同じく動詞「ディアコネオー」διακονέωの分詞形です。名詞は「ディアコニア」διακονίαで、奉仕、世話、接待、教会での執事職を意味し、同じく名詞の「ディアコノス」δάκονος奉仕者を意味します。

  • イエスはやがて弟子たちが教会の指導者となっていく上でのその姿勢は「仕える(給仕する)ということでした。その姿勢は彼らの師であるイエスの生き方でした。ルカの福音書には取り上げられていませんが、ヨハネではイエスが弟子たちの足を洗うという行為を通して、「仕える」ことがどういうことか、その模範を示されました。この世の王や指導者たちは民や家臣から仕えられる者ですが、神の国にあっては、上に立つものが「仕える」ことの模範とならなければならないことをイエスは弟子たちに教えられたのです。
  • 並行記事であるマルコの福音書10章45節にも、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」とあり、これがイエスの生き方であることを示しています。しかもその生き方の行きつくところは、45節の後半にもあるように「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与える」という「仕える」者の究極的な姿、すなわち贖罪的な死(身代わりとしての死)につながります。
  • 使徒パウロもピリピ人への手紙2章5~8節に以下のように記しています。

【新改訳改訂第3版】ピリピ2章5節~8節
5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

  • ここには「仕える者」としてイエス・キリストは、神であるにもかかわらず、神としてのあり方を捨てて、自分を卑しくし、実に十字架の死にまでも従われました。イエスの弟子としての道には、イエス・キリストのような心構えが求められているのです。
  • しかし、9節では「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」とあります。「仕える者」は、やがてイエスがすべての名に勝る名が与えられて、神の右に着座されたように、イエスの弟子たちもそれに見合う立場に置かることを保障しておられます。それがルカの福音書の22章28~30節の部分です。「仕える者」が「治める者」となる約束であり、事実、イエス・キリストがその最初の証し者となります。
  • 人の世では「人の上に立つこと」を求めます。人を支配し権威を得ようとします。しかし神の国にあって、権威をもって人の上に立ち、支配することのできる人は、とことん(当時の奴隷のように)神に「仕える者」であるということです。その者こそ、神によって高く引き上げられのです。しかし、イエスの弟子たちの中でだれひとりとして、この真理を悟る者はいなかったのです。

2. 「立ち直ったら、兄弟たちを力づける」

  • イエスの弟子として、神と人とに「仕える」という真の意味を悟っていなかった弟子たちが、十字架という出来事において「仕える」という姿勢が「ふるわれる」ということはきわめて必然的なことでした。
  • シモンだけでなく、弟子たちみながふるわれるのですが、ここでは特に、代表格のシモンに対してイエスは語っています。

新改訳改訂第3版 ルカ22章
31 「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

  • シモン・ペテロが「仕える」ことにおいて、最後の最後で「つまずく」(イエスを裏切る)ことをイエスは見越しておられました。ですから、イエスは彼の信仰がなくならないように、彼のためにすでに祈った(アオリスト時制)と語っています。イエスの祈りは聞かれ、ペテロは自分の真の弱さを悟り、イエスのとりなしによって立たせられていることを深く経験するようになりました。
  • サタンのもくろみは、ペテロの面子を丸潰しにして、二度とイエスの前に立てないようにすることでした。しかし、イエスのとりなしによって彼の罪は赦されて、神を信じる信仰がなくならないようにされたのです。しかし大切なことは、イエスが語った32節のことば、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」であったように私には思えます。なぜなら、このことばは赦しの宣言であると同時に、失敗が失敗で終わることなく、新しい希望の光を与えるものだからです。自分の力に頼っていたペテロが完全に打ち砕かれてもなお、その先に望みがあることを宣言したイエスのことばには、創造的な神の力が込められています。
  • ペテロはこのイエスのことばを、まず自分自身が経験する必要がありました。自分自身が神とその恵みのことばによって「力づけられる」必要がありました。この「力づけられる」経験を通して、はじめて他の兄弟たちを「力づける」ことができるからです。立ち直ってからのペテロの歩みのすべてが、このイエスのことばに方向づけられていきます。ペテロのためにとりなして祈って下さっただけでなく、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけよ」、この働きのためにペテロは生涯をかけて神と人とに「仕える者」となって行くことを思うとき、主の選びと契約の愛に感動を覚えます。
  • ちなみに、「力づける」は「ステーリゾー」στηρίζωという動詞で、「強める、強固にする、しっかりと据え置く、堅く据える、ぶれないようにする」という意味です。ヘブル語では「ハーザク」
    הָזַק、強意形で「強める、強くする、力づける」ですが、再帰態(ヒットパエル)では「奮い立つ、勇気を出す」という意味もあります。自らを励まして奮い立たせることができて、はじめて人をも「力づける」ことができるのです。
  • この私も主に顔向けできない罪を犯しました。決して忘れることのできない罪です。しかしその罪によって見捨てられることなく、信仰に踏みとどまることができたのは、ただ主のあわれみととりなしの祈りのゆえであると信じています。それによって、私は「立ち直る」ことができました。今、私がすべきことは、ぺテロと同様、主の恵みに日々奮い立たせられ、力づけられることです。そのことを通して、主にある者たちを少しでも「力づける」お手伝いができたらと願っているのです。

2012.8.30


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