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イエスの逮捕

No.9. イエスの逮捕

【聖書箇所】マタイ26:47~56、マルコ14:43~51、ルカ22:47~53、ヨハネ18:3~12

1. 毅然としたイエスの姿

  • イエスがゲッセマネの園で祈っていたとき、そこに大勢の者たちが手に松明や剣や棒をもってイエスを捕えるために、そこへやってきました。彼らはユダヤ権威筋から遣わされた者たちでした。その先頭にイエスを銀貨30枚で売ったイスカリオテのユダがおりました。彼はイエスがこの夜、どこにいるのか見当がついていました。いつもある場所で、祈ったり、会合をもっていたからかもしれません。そこにユダがイエスを捕えるために群衆を引きつれてやってきたのです。
  • イエスの逮捕の記事は共観福音書のすべてに記されていますが、ここではヨハネの福音書にあるものを取り上げたいと思います。共観福音書ではすべて、イエスとユダとの短いやり取りが記されておりますが、ヨハネの福音書にはそれがありません。むしろイエスの毅然とした、物おじしない態度に注目しています。
  • ヨハネの福音書18章1~7節を見ると、イエスが自ら、自分を捕えに来た者たちの前に立ちます。「だれを捜しているのか。」彼らは「ナザレのイエスを」と応えます。するとイエスは「それはわたしだ。」と応えます。それを聞いた彼らは、「後ずさりして、地面に倒れた」と記されています。とても面白い現象だと思います。どうしてこんなことが起こったのでしょうか。それは彼らが全く予期しない、予想だにしなかったことだからです。捕えるためにやってきたわけですから、白を切るか、何らかの抵抗をしめすか、あるいは逃げ出すだろうと思っていたはずです。ところが、イエスの方から「だれを捜すのか」と問われ、「ナザレのイエスだ」と応えると、「それはわたしだ」と答えたわけですから。いわば自分から捕われるようにしているわけです。それは全くの想定外でした。そのためにあっけにとられたのだと思います。
  • イエスは再び尋ねます。「だれを捜しているのか」と。すると彼らは「ナザレのイエス」と答えます。イエスは「それは私だと言ったではないか。」と、なんという毅然とした態度、敢然と立ち向かうイエスの姿が印象的です。一切、抵抗することなく、逃げることもなく、いわば自らを彼らが捕えるように引き渡されたと言えます。それはイエスはこれから自分の身に何が起ころうとしているのか、すべてを知っておられた上での行動でした。ここからイエスの心は微動だにしていません。

2. 突き抜けた祈りの結果

  • しかし、一時間ほど前までは違っていたのです。イエスの毅然とした姿の背後に、突き抜けたゲッセマネの祈りがあったのです。その突き抜けた祈りの結果が以下のように記さされています。
  • 「時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。」(マタイ26:46)とイエスは言われました。詩篇にも「私の心は定まりました。私の心はゆるぎません。」というダビデの決意のフレーズがあります(57:7,口語訳)が、似たような信仰による決意と思います。ゲッセマネの祈りを通して、イエスの心は確かに定まりました。それゆえイエスは恐れもだえる心に打ち勝って、自分を捕えに来た者たちの前に立ち、敢然と立ち向かわれたのです。ここに信仰の極意を見る気がします。
  • キリストのために殉教者となった多くの者たちは、こうした信仰の決意があったのではないかと思わせられます。イエスを裏切った弟子たちが、イエスの復活後、ペンテコステの祝福にあずかった彼らはキリストの証人となって行きます。「証人」(マルトゥスμαρτυς)とは「殉教者」を意味します。イエスの信仰のいのちが彼らの内にも流れているのを見ます。その同じいのちが私の内にも流れていることを信じ、心に留めて歩みたいと思います。

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