****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イエスは大祭司です

Ⅲ. イエスは大祭司です

ベレーシート

(1) 祭司とはなにか

  • 今回は「イエスはキリストです」という説教シリーズの第三回目で、「イエスが永遠の大祭司」であるということを学びます。その前に、「祭司」(Hebrew「コーヘン」כּוֹהֵן、Greek「ヒエレウス」ἱερεύς)とはどのような人で、どんな務めが与えられているかについてふれてみたいと思います。「祭司」とは「神に仕える人」です。「仕える」といっても神のためになにかをすることではありません。神に仕える祭司とは、神とともに歩み、神と一つとなるためにいつでも神の御前にいる人のことです。多くの時間を神とともに過ごすことで、神によって満たされる人のことです。そのことによって、主を知り、主と一つとなり、主がその人を通して現わされるようになる、これが祭司の務めです。
  • 以下の人々、特に①~⑦までは「祭司」と呼ばれていませんが、彼らは事実上の祭司です。

    アダム・・堕落する前は絶えず神の臨在の中にいましたが、堕罪後、彼は神の御顔を避ける者となりました。
    エノク・・神とともに歩みました(自発的)・・「歩む」に「ハーラフ」のヒットパエル態が使われています。
    ノア・・・神とともに歩みました(自発的)・・同上。
    アブラハム・・主から「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と言われ、「歩む」(ハーラフ)の頭文字の「へー」(ה)が名前の中に組み入れられて、「アブラム」から「アブラハム」へと改名されました。つまり、アブラハムは神の御前に完全な信頼をもって生きるようにと召されたのです。
    イサク・・父アブラハムといつもいっしょであることで、神の御前に生きていました。
    ヤコブ・・人を押しのける性質をもった彼が、神の主権的な恵みによってイスラエルと改名され、神の臨在の中で過ごすようになりました。
    モーセ・・神に召された後には、常に主の前にいる者となりました。シナイ山では40日間、山に留まり、神から律法を授けられました。長く神と話したため彼の顔は神の栄光の輝きが放っていました。
    ⑧イスラエルの全員(祭司の国) ⇒特にレビ族は、イスラエルの中で特別に祭司職を与えられました。
    ⑨詩篇の作者たち・・ダビデも含めて(ダビデは王でありながら、同時に祭司でした)。

  • そもそも「祭司」(「コーヘン」כֹּחֵן)は、「主の前に立って(アーマドעָמַד)、仕える(シャーラトשָׁרַת)」(申命記10:8)者ーつまり、神と人との間に立つ仲介者を意味します。モーセの律法賦与以前では、父親が一家の祭司となっていました。しかし律法の賦与以後は、レビ族、すなわちアロンとその子どもたちが専門的な祭司職を担うようになって行きました。

(2) 預言者、王、大祭司のかかわり

  • 油を注がれて、神の働きを分与された三つの主要な務めは預言者、王、そして祭司でした。これらの務めの中で祭司の務めが第一であり、預言者と王の務めを導きます。つまり、神の代理者として神の民を導き支配する王の務めも、また、神のみことばとそのみこころを正確に民に告げる預言者の務めも、第一の祭司の務めにすべてはかかっています。それゆえ、祭司的な務めをする者はきわめて重要なのです。祭司の中でも「大祭司」は、祭司職においては最高峰にいる存在でした。

1. 大祭司に対する厳しい規定

(1) 神が求められるのは常に「完全さ」

  • 祭司職にある人々は、この世の事柄から離れて、神への礼拝に関する非常に厳しい規定を守らなければなりませんでした(レビ21:4~23)。祭司は特殊な装束を身に着け、祭司としてのしるしを身に帯びます。祭司が自らを聖としなければならないのは、彼らがいけにえをささげる仕事にかかわっているからです。いけにえの血を神にささげるのは祭司特有の仕事でした。「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、・・また血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはなかった」からです(ヘブル9:22)。そのために、祭司の任職の儀式では聖別のために血が祭壇から取られて、祭司の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指につけられます。さらに、祭司の装束には血が降りかけられます(レビ29:1~21)。したがって、聖別の儀式やいけにえの儀式ではすべてが血まみれという状態になります。
大祭司.jpg
  • 祭司の装束に関して、特に、大祭司の装束は(右図)手の込んだものでした。興味深いことに、衣裳を「着る」にあたるヘブル語の元々の意味は、「被う」「隠す」です。罪を犯して恥を受けているアダムとエバを被うために、神は動物の皮衣を作って「着せ」ました(創世記3:21)が、そこで使われているヘブル動詞は「ラーヴァシュ」(לָבַשׁ)です。ヒフィル(使役)態で「着せる、まとわせる、覆い隠す」の意味です。いけにえをささげる祭司のだれもが身に着ける最も基本的な装束は白い布ですが、それは神のきよさを表わしています。それはあたかも、祭司が神ご自身のご性質に被われているかのようです。もし、この被いなしに神に近づくならば、恐ろしいさばきを招くことになります。

    ※裸はイスラエルにおいては許容されません。ましてや神殿に近づくときには決してあってはならないことなのです。この理由から、幕屋には階段というものがありませんでした。階段があると、祭司が装束を身に着けてかがんたときに肌の一部が露出する危険があるからです(出エジプト20:26)。後の時代に階段が必要となるほどの神殿が建てられると、祭司は装束の下に麻布で作ったズボンをはくようになります(同、28:42)。

  • しかし唯一の例外があります。聖書の中で、祭司(しかも大祭司)が裸でいけにえをささげ、神に受け入れられている箇所が一つだけあります。それはカルバリの丘です。主イエスが十字架で磔にされたとき、イエスはすべて脱がされました(ヨハネ19:23)。しかし、この方こそ、人類史上はじめて神の前にただご自身の義によってのみ立つことのできた方です。この方に祭司の装束は不要でした。なぜなら、イエスは全き神の御子として、「悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司」(ヘブル7:26)として、とこしえの大祭司として(同、7:17)ご自身の血をささげられたからです。このキリストのいけにえが被いとなって、私たちは今、神の御前になんらはばかることなく立つことができるのです。私たちの衣はキリストの血潮によって白く洗われたのです(黙示1:5/7:14)。ここに大祭司イエスの「さらにすぐれた」務めがあります。
  • イスラエルの民がエジプトを出てシナイ山で神と契約を結びました。そのとき神に近づくための礼拝規定が定められました。それによれば、神へのいけにえ、神へのささげものには、傷のないもの、完全なものが必要でした。なぜなら、神が求められるのは常に「完全さ」(ターミーム)だからです。この「完全さ」は神と人との仲立ちをする祭司たちにも求められました。しかしこの祭司職制度(世襲制)ははじめからさまざまな欠陥をもっていただけでなく、イエスが来られた時代には祭司制度による腐敗がはびこってしまっていたのです。
  • イエスの宮きよめ事件―「イエスは宮の中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、腰掛を倒されてました。そして「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と書かれているのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしていると語った事件―はそのことをあかししています。

(2) 新たな系譜による祭司職

  • そのために、長い間にわたって連綿と続けられてきた祭司制度は完全に廃止され、全く新しいことが神によって立ち上げられたのです。それまでの流れを根底からひっくり返すような新しい祭司が起こされたのです。神はこれまでの世襲制による祭司職制度に代わる、全く異なる系譜による祭司職を打ち建てられました。全く別のサイトというのは、レビ部族からではない大祭司。つまり、王の職務を司っていたユダ部族からでした。その系譜のルーツに「メルキゼデク」という人物がおります。「メルキゼデク」とは、サレム(エルサレムのこと)の王であり、アブラハムを祝福した祭司です。年代としてはイエスが登場する2千年前です。

画像の説明

  • ダビデはユダ部族の王でしたが、彼は礼拝を改革するという祭司しての務めもしていていたのです。その祭司としての務めは、本来の祭司たちのように動物をほふったりとすることではなく、音楽による賛美のささげものをした祭司でした。祭司が着る「亜麻布のエポデ」を着ていたことが聖書にしるされています。ダビデは神の箱をシオンの丘に運び入れる時には、そのエポデを脱ぎ捨てて踊っています。このダビデ王がしたことは、やがて遣わされる救い主の預言的啓示と言えます。
  • 王であることと、祭司であることは、本来、律法ではゆるされていません。サウル王がサムエルの到着をまたずに祭司の務めをしてしまったことで、彼は神から王位を剥奪されています。王でありながら、祭司としての務めをなすその予型がメルキゼデクであり、それがダビデに受け継がれ、さらにイエスへと流れて行きます。祭司制度とは異なるこの系譜によって、古き祭司制度が廃棄されたのです。

2. さらにすぐれた務めをしておられる大祭司イエス

  • 新約のへブル人への手紙には、その手紙を特色づけているキーワードがあります。それは「さらにすぐれた」(あるいは、「よりまさった」という訳もあります)という言葉です。へブル書の中には「さらにすぐれた」という表現が10回ありますが、そのうち、大祭司であるイエスについて言われているのは7回もあるのです。どの点が「さらにすぐれた」面なのでしょうか。

(1) 完全な、罪も汚れもない大祭司。自分のために、また人々のために毎日いけにえを捧げる必要のない方。つまり一回的な完全な贖いがなされた。しかも、永遠に有効。
(2) キリストご自身が私たちのための罪のいけにえとなられた。それゆえキリストを持つことにより、いつでも、大胆に、神に近づくことができる。
(3) キリストはいつも生きていて、神に近づく者のためにとりなしの務めをしておられる。
(4) 神の律法を私たちの思いの中に入れ、私たちの心に書きつけて、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という約束を実現する。

  • 上記の点こそ、大祭司イエスの「さらにすぐれた務め」の内容であり、古い祭司制度がなしえなかったことです。

3. あわれみ深い大祭司イエス

  • ヘブル書を特徴づける重要なことばがあります。ヘブル書は全13章ありますが、1章と11章を除くすべての章に登場する名詞があります。それは「大祭司」という言葉です。すでに、この手紙のキーワードは、「イエスを仰ぎ見る」こと、「イエスから目を離さないでいなさい」いうものですが、換言するなら、「大祭司であるイエスから目を離さない」ということがヘブル人への手紙の主要なメッセージなのです。

(1) あらゆる点で、私たちと同じになることの必要性-
「こういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」(ヘブル人への手紙2章17節)

  • 「こういうわけで」というのは、前の節を受けての接続詞です。その前にはどういうことが書かれているかというと、こうです。「イエスは、・・アブラハムの子孫である人々に、救いの手を差し伸ばされました。」(ここは尾山訳)。そして「こうわけで」(新改訳)と続くのですが、この接続詞は「だからこそ」「それゆえに」とも訳せる「ホーセン」(όθεν)が使われています。そして原文には「イエスはあらゆる点で私たちと同じようになることがどうしても必要であった」という文章が続いているのです。原文では最初にくることばが強調されます。そのことばとは「オフェイロー」(όφείλω)で、「~する義務がある、ねばならない」という意味の動詞です。つまり、イエスは、あらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることがどうしても必要だったのです。 そうしてはじめてイエスは私たちにとってはあわれみ深い大祭司となりうることができたのです。
  • 面白いことに、新改訳聖書では「あわれみ深い、忠実な大祭司となるため」という部分が、「私たちにとってはあわれみ深く、神様にとっては忠実な大祭司として」という風に、私たちへのかかわり方と、神へのかかわり方とを分けて訳しているところが面白いところですが、ここでは、私たちに対するイエスのかかわり方にのみ注目していきたいと思います。
  • 「私たちにとってあわれみ深い大祭司となるために、イエスはあらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることが、どうしても必要だったのです。」―つまり、イエスがあわれみ深い大祭司になることと、すべての点で私たちと同じになるということが、密接な関係をもっているのです。
イエスの受洗と私たちの受洗の意味
  • 「私たちと同じになる」という意味は、ただ単に、私たちと同じ人間としての体(肉体)を持つということだけではありません。もっとそこにはもっと深い意味が隠されているように思います。受洗するということは、イエスの場合は、私たちと一体(ひとつ)となることの本格的なスタートを意味し、私たちの場合は、イエスと一体(ひとつ)となることの本格的なスタートを意味する一回的な出来事を意味します。 
  • イエスが私たちと一体となることについて、もう少し詳しく取り上げてみたいと思います。

(2) あわれみによる連帯の力
●「あわれみ」、英語ではコンパッション(Compassion)。このことばが意味することは、「ともに苦しむこと、ともに耐えること」です。あわれみは、傷ついているところへ赴かせ、痛みを負っている人々のところに赴かせ、失意や恐れ、混乱や苦しみを分かち合うようにさせます。また、悲惨の中にある人とともに叫びをあげ、孤独な人とともに悲しみ、涙にくれる人とともに泣くように私たちを促します。それはまた、弱い人ともに弱くなり、傷ついた人とともに傷つき、無力な人とともに無力になることを要求するのです。そのように、あわれみは、人間の状態のなかにどっぷりと浸(ひた)ることを意味します。―これが、「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」「あらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることが、どうしても必要だったのです。」ということばの意味するところです。

  • 「あわれみ」をこのように理解すると、それは単なる「親切」とか、「優しさ」だけでは説明しきれないものがあることがはっきりとします。あわれみは私たちの自然な心の反応として生まれるものとは言えません。むしろ、逆に避けたいものではないかと思います。なぜなら、私たちは本能的に苦痛を忌避する(嫌って避けること)ものだからです。ましてや、他人のために、他人とともに苦しむことなど望まないからです。
  • イエスは「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい。」(ルカ6:36)と言われましたが、それは、人間の状態のなかにどっぷりと浸って、ともに苦しむこと、ともに耐えることへの呼びかけなのです。ですから、このイエスの呼びかけは、実は、私たち人間の生まれつきの性質に逆らうような呼びかけと言えます。
  • 神は全能の神なのですから、その力で私たちの問題を簡単に解決することができたはずです。なにも私たちと同じようになって共に苦しむ必要はなかったはずです。今日の「オタク族」のように、天にいながらにしてなんでもできたはずです。ところが聖書は「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」とあります。「あらゆる点で、兄弟である私たちと同じになることがどうしても必要だったのです。」と言います。なぜでしょう!!  その理由は、神のあわれみの神秘(奥義)が示されるためです。神が私たちとともにおられるということの真意を経験させるためです。
  • 神はあわれみ深い神であるというとき、その意味するところは、なによりも「神がわたしたちと一体になることを選ばれた」ということを意味します。主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とはされません。このことは、ヘブル2章11節でこう記されています。「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。」と。ここで重要なことは、「聖とする方」(イエス)が、「聖とされる者たち」(第一義的にはアブラハムの子孫である人々)を「兄弟と呼ぶことを恥としない」ということです。
  • 私たちの肉親でも、自分の兄とか、姉とか、あるいは弟とか、妹とかを一家の恥と決めつけしまうことがあります。家族でありながらそうなのです。あいつはこの家の恥だというわけです。あいつさえいなければ、と苦々しく思っている兄弟姉妹がいるのではないでしょうか。あの兄、弟がいるばっかりに、良い縁を結べない、良い会社に就職できない、そう思っている家族が多いのではないでしょうか。自分の子どもを、甲斐性なしと言い、ロクでもない子どもを授かったもんだという嘆く親、反対に、どうしようもない親から生まれたもんだと嘆く子ども。それぞれを家の恥としている家族は多いのではないでしょうか。しかし、イエスを長兄とする神の家族にあっては、この長兄は、たとえどんな兄弟姉妹であったとしても、決して恥とはしないというのです。この長兄の心は父の心です。むしろこの兄であるイエスは自分の兄弟姉妹に対して、共に苦しみ、共に辱めを受けること、共に耐えることを自ら進んで受け入れるすばらしい兄なのです。これが「あわれみ」です。イエスの癒しはすべてあわれみの心からからなされました。
  • イエスは「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい。」(ルカ6:36)と言われましたが、イエスご自身のすべての行動の背後には、このあわれみの心があったことを知ることが重要です。福音書の中には実に多くの奇蹟の出来事が記されています。もし、病気や痛みに苦しんでいる人々が、その痛みから突然に解放されたという事実だけに私たちが関心を持っているとすれば、私たちは福音書の中の多くの奇蹟の出来事を誤解することになります。ここで大切なことは、病気をいやされたことではなく、このいやしへとイエスを動かしたものがなんであったかということです。イエスのすべての「いやし」のわざは、イエスの「連帯しようとする深いあわれみ」によるものなのです。

4. 思いやる大祭司イエス

ヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」(同情できる方)
ヘブル5:02「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」(思いやることのできる方)

(1) 「思いやる」という務め

  • 私は日々、神の子どもとしていかに生きるべきか絶えず模索しています。果たしてこれで良いのかという問いがいつもあります。迷うときがあります。迷いがないことが、むしろ危ない時なのかもしれません。自分が無知であることに気づかずに、ひたすら誤った確信をもって歩んでいるかもしれないのです。神を見ているようで、実は見えていない。神を知っているようで、実は知っていない、特に、牧師というある意味で教えたり、指導したりする立場にいる者にとっては、そうした危険をいつももっているように思います。ひょっとしたら、自分は大切なことにまだ気づいていないのではないか・・そんな恐れを持つことがしばしばあります。そんなとき、上記のことばは慰めとなります。
  • 「思いやる」と訳されたギリシャ語は「メトリオパセオー」(μετριοπαθέω)と言って、この箇所にしか使われていない言葉です。新約聖書でここ1回しか使われていないことばです。だからと言って重要ではないということでは決してありません。このヘブル書全体のキーワードは「イエスを仰ぎ見る」ということばですが、この「仰ぎ見る」というアフォラオーということばも、実はへブル書では1回しかでてこない言葉ですが、へブル書においては最も重要なことばなのです。
  • 「思いやる」ということについてどのように理解すべきか、いろいろと考えてみました。詩篇41篇1節には「いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。」 (新共同訳)、「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。」(新改訳)、あります。「貧しい者をかえりみる人はさいわいである。」(口語訳)
  • 「思いやりのある人」のことを「心を配る人」「顧みる人」とも訳しています。英語では、Blessed is he who considers the poor. (NKJV) considerは一般には「良く考える、熟考する」という意味ですが、「注意を払う、気に掛ける、尊重する」という意味もあります。つまり、弱っている者、貧しい者に対して、注意を払い、気をかけ、尊重する人は幸いだという意味です。
  • ではどのような態度で、「注意を払い」「気にかけ」たら良いのでしょうか。詩篇の世界では、神の人に対するかかわりのひとつの特徴として、「沈黙」というのがあります。神の沈黙、神はなにも答えない、答えをくださらない、では神は不在かというと決してそうではなく、むしろしっかりとそばに寄り添っておられる。でもなにも言わない、教えない、沈黙していることがあります。ただじっと耳を傾けてくださっているだけ。-もちろん、神は語られる神ですが、嘆きの詩篇などを読むと、神はしばしば沈黙しておられることが多いということが分かります。
  • ダビデは若くして、預言者サムエルを通してイスラエルの王となるべく任職の油を注がれました。しかしそれからダビデの苦悩は始まりました。自分の罪のゆえではなく、サウル王の嫉妬による執拗な殺意によって、ダビデは10余年の間、放浪を余儀なくされました。「どうして」「なぜ」「なにゆえ」という昼も夜も重くのしかかる問い、それは、長引く苦難の中で、神が遠くに感じられるような日々の中で、どんな状況の中においても、神を信頼するかどうかのテストでした。
  • ダビデの思いとは裏腹に、神の沈黙、神の不在の経験を通して、いつしか「貧しい者」「みなしご」「しいたげられた者」と連帯していきます。ダビデが荒野の放浪を余儀なくされたとき、当時の社会では生きられなくなった者たちがダビデのもとに集まってきました(Ⅰサムエル22章2節)。ダビデは彼らと寝食を共にしながら、不条理と思える逃亡生活を10年余り続けました。ところが、やがてダビデがイスラエルの王として立てられたとき、彼らはダビデの身辺を守る命知らずの親衛隊となったのです。だれがこんなことを考えることができたでしょう。信頼の絆は、私たちの思いを越えたところで培われていきます。
  • 沈黙、イコール無視ではありません。もっとも近くおられて、私たちが自ら大切なことに気づかせていくことで、解決の糸口を見出させていくという方法です。これが神の人に対するかかわり方です。神の沈黙、神の不在経験を多く通ることで、私たちが思い描いている信仰の幻想は打ち砕かれて、目には見えずとも、より確かな神の臨在を感じるようになるのです。これこそ神の不在経験の隠された意義です。つまり、神の不在経験は神とのかかわりをより深化させるための神の配剤だということです。
  • もし、こうした神の人に対するかかわりを、人間が神に代わってそのかかわりを担うとすれば、どういうことになるでしょうか。どういう形になるのでしょうか。おそらく、それは「聞く」ということではないかと思います。

(2) 思いやることは、「聞くこと」

  • 「聞く」こと-「親身になって聞く」、「自分の経験や考えや思いをかっこに入れて相手の言うことを聞く」、「心をこめて聞く」、「心の深みを聞く」「言葉にならない沈黙のことばを聞く」・・これがヘブル書の5章2節の「メトリオパセオー」(μετριοπαθέω)という「思いやる」ということばの意味ではないかと私は思います。「落ち込んでいる人の心の奥にあるもの」「悲しみのかげにあるもの」「怒りの内側にあるもの」「恨みの奥にあるもの」を聞く・・これが「思いやり」だと仮定しましょう。だとすれば、この「思いやる」という務めは、とてもとてもそう簡単な務めではないことに気づきます。むしろこんな務めを自分からしたいとはだれも思わないでしょう。
  • むしろ多くの人は自分のことを聞いてくれる「耳」を求めています。自分が「耳」になること、それは決して容易でないことが分かる人は幸いです。人間の限界をよく知っているからです。私が、 開拓伝道をはじめて3年くらいたった頃、伝道の働きのために、電話帳にある「占いの欄」に人生相談のような広告を載せたことがあります。多くの人が悩みや人生相談を「占い師」にするということを聞いたことがあって、占い師に相談するよりはイエス・キリストにあって解決の光を見出しほしいと思ったからです。この広告を見て、何人かの人から電話がありました。結果としては、この広告は一年限りで、続けることができませんでした。なぜ続けられなかったかといえば、私が黙って聞くことができなかったからです。自分が一番できないことをやろうとしていたわけです。
  • 相手の問題点となっているのがどこかを突き止め、それに的確に解答を与えることが必ずしも良いことではないのです。むしろ、共に寄り添い、神の光を見出せるように忍耐強くかかわること、これが「思いやり」です。なんとこれまでの教会のミニストリーとかけはなれた務めであったことかと思います。「語ることと、聞くこと」―この両輪の務めをどのように正しく受け止めていくことができるか、それが教会がこの世でなさなければならないことです。しかしなんとその務めはしんどい務めであることかと思わせられます。
  • 神の良いおとずれである福音を伝えなければならないという意気込みが強いと、語って伝えようとする意気込みが、かえって逆に伝わらない障害となっている場合があります。どこかでその意気込みが砕かれなければならないかもしれません。自分の中にある伝えなければというへんなあせり、語るためにこそ自分はいまここにいるといったへんな意気込みに一旦死ななければ、「聞く」という「思いやり」の務めは果たすことができないかも知れません。しかもこの「思いやり」の務めが必ず実を結ぶという保証はありません。「聞いて、終わり」ということもあるかもしれないのです。
  • 「思いやる」務め、それは「聞く」という務めです。偉大な大祭司であるイエス様は「無知で、迷っている人々」を「思いやる」ことができます。「無知で、迷っている者たち」の話す中身は楽しくなるようなものではありせん。聞きたくもないものも聞かなければなりません。聞くことによって、聞く側の者の心がおかしくなってくることもあるのです。かかわる相手の悪い霊を受けて、自分が倒れてしまうこともあるのです。それならはじめからかかわらないのが無難です。そのほうが賢いかもしれません。しかしそうなら、この世には耳がなくなって、口ばかりが多くなってしまいます。だれが耳の役割を引き受けるのでしょうか。

(3) 神から委任された務め

  • その意味では、私たちの大祭司イエスは偉大な牧会者です。「無知で、迷っている私たち」の悩みや願いを、しかも的外れな言い分を聞くという務めをしておられます。相手が正しい上からの光を見出すまで、忍耐強く、聞いておられるのです。沈黙しているように見えますが、私たちが思う以上に聞いておられるのです。
  • 使徒パウロもその一人でした。彼はいろいろなところに(特に異邦人に対して)福音を宣べ伝えて、そこに教会を建て上げていった開拓者ですが、その牧会の労苦と心痛は並のものではありませんでした。特にコリントの教会の牧会は大変な苦しみを伴うものでした。その彼が手紙の中でもらした一言はこうです。「このようなつとめにふさわしい者は、いったい誰でしょう。」(コリント第二、2:16) これは、パウロ自身が牧会者としての完全に自信を失っていたことをうかがわせる一言です。それでも彼が人々を「思いやる」働きから身を引かなかったのは、神からその務めが与えられていたからです。神からの召しが彼をしてこの務めから退くことなく、立たせました。神からの召しがなければ、だれも「思いやる」という務めはできないのです。
  • 私たちが「祭司」としての務めを果していくためには、大祭司であるイエスの憐れみと思いやりにいつもふれ続けることが必要です。最初に述べた「祭司とはなにか」を思い出しましょう。それは主を知り、主と一つとなり、主がその人を通して現わされるようになることです。それゆえ、「あなたがたも、・・聖なる祭司として、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」という使徒ペテロの勧めに心を開きたいと思います。

2013.8.13


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