****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イエスは王です

Ⅱ. イエスは王です

ベレーシート

(1) 「イエスはキリストである」という初代教会の信仰告白

  • 「イエスはキリストです」シリーズ、今回はその第二回目です。私たちがしばしば使っている「イエス・キリスト」ということばは、「イエスはキリストです」という初代教会の信仰告白であることを前回もお話ししました。「イエス」の頭に「主」ということばをつけて、「主イエス・キリスト」という言い方もします。「主」とは、ローマの皇帝にのみ使われる称号「キュリオス」(κύριος)で「神」を意味します。ヘブル語の「アドナイ」(יהוה)に相当します。「主イエスはキリストである」と告白する者が「キリスト者」と呼ばれるようになったのです。
  • 「キリスト」とはヘブル語の「マシーアッハ」(מַשִׁיחַ)で、神の働きのために特別な力と権威を授けられた「油注がれた者」を意味します。旧約では、「王」「大祭司」「預言者」にのみ任職の油が注がれました。したがって、「イエス・キリスト」とはイエスが神からの任職の油を注がれた「王」であり、「大祭司」であり、「預言者」であるという信仰告白的表現なのです。
  • 「イエスはキリストです」という告白は、イエスこそ旧約の中で約束されたその実現者(完結者)であり、これが初代教会の「福音」(良きおとずれ)だったのです。

(2) 人々はイエスをどのように見ていたか

  • 前回では「イエスは預言者です」という面を学びました。イエスは弟子たちに「人々はわたしのことをだれだと言っていますか。」と尋ねました。すると弟子たちは、「バプテスマのヨハネ」とか、「エリヤ」「エレミヤ」の再来とか、あるいは「預言者のひとり」と言われていると答えました。ここにあげられている名前はすべて預言者の名前です。つまりイエスは、旧約に登場した預言者のイメージとして人々の目に映っていたのです。なぜなら、イエスが旧約時代のエリヤやエリシャが行ったのと同じ奇蹟をしたからでした。
  • 預言者の特徴は、「神と、顔と顔を合わせている者」であり、「神との親しいかかわりを許されている者」、それゆえに「神の隠された秘密を知っている者」、また「その秘密を人々に伝えるために神から信頼に値すると認められた者」です。人々のニーズや願望を優先して、神のことばを変質させることは許されませんでした。人々がどう思うと、どう理解しようと、神のみこころをまっすぐに語る者が真の預言者と呼ばれる者でした。旧約の偉大な預言者のひとり、モーセはまさにそのような預言者でした。そのモーセが晩年、イスラエルの民にこう語りました。「あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」と (申命記18章15節)。また、「その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。」という言葉も付け加えています。
  • ここで、「私のようなひとりの預言者(単数)」とは、「主と、顔と顔とを合わせるような預言者」のことです。第二のモーセ、つまり、メシア的人物である「終末の預言者」を指すものだと解釈されています。つまり御子イエスのことです。御子イエスは永遠に「御父のふところにおられた方」であり、遣わされたこの地上において、いつも御父と密接なかかわりを持っておられた方です。それは「顔と顔とを合わせている」関係です。それゆえ御子イエスは、自分の語ることばはわたしのものではなく、御父のもの、わたしを通して御父が語っているのだと言いました。御父のみこころに付け加えることなく、自分流に解釈したりすることもなく、注釈したりすることなく、御父の隠されていた御思いをありのままに語ったのです。ですから、私たちはその御子イエスの語ることばを悟り、信じ、それに従うことが求められるのです。
  • ところが神の民とされたイスラエルは、あらゆる時代において、神から遣わされた預言者のことばを信じることがありませんでした。そして、神の最後の切り札として遣わされた御子イエスに対しても聞き従うことなく、苦しみを与えて殺しました。御父は、自分の大切な御子が拒絶され、殺されることを承知の上でこの世に遣わしたのです。御子イエス自身も、自分がエルサレムの指導者たちから拒絶され、殺される運命にあることを知っておられました。ルカの福音書13章33~34節がそのことを示しています。
    「だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」
  • 弟子(使徒)の筆頭のペテロが「あなたは神の御子、キリストです」と告白した後に、イエスは自分がエルサレムの指導者たちによって、拒絶され、苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえることを弟子たちに繰り返し語りましたが、そのことを正しく理解する弟子たちは一人もいませんでした。予告されたように、イエスは十字架刑で殺されます。しかし御父はイエスを死からよみがえらせました。これはイエスが約束れたメシアであることのしるしでした。
  • イエスは御父のふところにおられた方であり、御父の最も深いみこころを知った預言者です。神のみこころをあますところなく私たちに伝えた方です。そのことを信じて、私たちはイエスの語られたことばに注意深く耳を傾ける必要があります。イエスは死んだ方ではなく、よみがえられた方です。ということは、イエスの語ったことばも生きているのです。

1. 「ダビデの子」という称号をもった王なるメシア

  • さて、今回の本論である「イエスはキリストです」という第二の内容、つまり、「イエスこそ神の国を統治する王」であるということについて考えてみましょう。神の国を統治するとはどのような意味なのでしょうか。そのことに入る前に、イエスを「ダビデの子」と呼んだ者たちが福音書の中に登場しています。「ダビデの子」という称号は「王なるメシア(キリスト)」の称号です。共観福音書の中では、マタイの福音書がマルコとルカにあるすべてを包含していますので、マタイの箇所で見てみます。ちなみに、イエスはこの称号をご自身で用いることはありませんでした。イエスはご自分のことを「人の子」と呼んでいます。実は、これもメシア的称号ですが、それについては今回ふれないことにします。

画像の説明

  • 「ダビデの子」-ヘブル語では「ベン・ダーヴィッド」(בֶּן־דָּוִד)です。上記のチャートを見ると分かるように、イエスを預言されたメシア(キリスト)として信じて呼んだ人々は、当時のエルサレムの指導者たちではなく、盲人、カナン人、そして群衆、子どもたちでした。このことは重要な点です。
  • 「ダビデの子」という称号がメシアを指すようになったのは、神がダビデに、「あなたの子孫が永遠の王国を確立する」と約束したことにあります。これは「ダビデ契約」と言われるものです。以下がその契約です。

    【新改訳改訂第3版】Ⅱサムエル7章
    11・・・【主】はあなたに告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。』
    12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、
    あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
    13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
    14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子
    のむちをもって彼を懲らしめる。
    15 しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
    16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

  • 11節の『【主】はあなたのために一つの家を造る。』の「家」(「バイト」בַּיִת、単数)とは、ここではダビデの住む家のことではなく、ダビデの子孫、ダビデの王族としての家系を意味します。また「造る」と訳された原語は「アーサー」(עָשָׂה)で、新共同訳は「(家を)興す」と訳しています。実際的には、ダビデから生まれる世継ぎとしての子孫(単数)、すなわちソロモンが主のための家を建てること、そして主はソロモンの王国の王座をゆるぎないものとして、永遠に堅く建てる(据える)という約束ですが、そのソロモンの王座は、ソロモンよりもはるかに勝る王であるイエス・キリストがその視野に入っているのです。これが「ダビデ契約」と言われるものです。
  • ダビデの王国(別名、ユダ王国)はやがて神への背きの罪のゆえに国を失い、バビロンの捕囚の民となりますが、それは神がご自身の民を新しくリセットするための厳しい計らいであり、決してダビデの家を見捨てられたわけではありませんでした。「ダビデに対して語られた約束」のゆえに、再び、バビロンからの帰還を経験します。それは主の民に対する「ヘセド」(恵み、いつくしみ、愛)のゆえであり、契約に対する神の側の責任を行使されたからです。
  • 神がダビデと結ばれた契約は、「王国」(ヘブル語「マルフート」(מַלְכוּת)、ギリシア語「バシレイア」(βασιλεία)、英語「キングダム」(kingdom)に関する約束です。しかもそれは、ダビデとその子孫に永久に与えられたものです。この王国が完全な形で地上に実現するのは、キリストの再臨後の千年王国時代においでですが、その「王国」の訪れがイエスの初臨と共に始まっているのです。このことがイエスの公生涯の第一声である「天の御国が近づいた」という意味です(「天」とは「神」の別称です)。つまり、「神の国、神の統治、神の王国」がイエスの到来とともにすでに始まったことを意味しているのです。しかしその完成は再臨後の千年王国においてです。主の祈りの中にある「御国が来ますように」との祈りは、まさに神がダビデに約束された地上における神の王国の完全な到来を意味する祈りなのです。

2. 鉄の杖を与えられた王なるメシア

  • イエスがベツレヘムでお生まれになったとき、当時のユダヤの王はヘロデでした。そのヘロデのもとに東方の博士たちが訪ねてきます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでなりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」と。それを聞いたヘロデはどういう態度を取ったでしょう。聖書には「恐れ惑った」とあります。新共同訳では「不安を抱いた」、塚本訳では「うろたえた」と訳しています。使われているギリシア語は「タラッソウ」(ταράσσω)で、「恐れて、ひどく動揺する、恐怖が襲う」ことを表わす動詞です。昔、ユダの王アハズの時代に北からエフライムとアラムの同盟軍が攻めてくるという知らせを聞いたときに、王の心も民の心も、「林の木々が風で揺らぐように動揺した」(イザヤ7:2)とありますが、それと似ています。ヘロデ王だけではありません。エルサレム中の人も王と同様であった。この世界に二つの太陽は必要としないように、一つの国に二人の王が存在するということはあり得ないからです。
  • そこで、ヘロデは民の祭司長、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのか調べよと問いただします。すると彼らは「ユダヤのベツレヘムで生まれると預言されています。」 そこで、ヘロデは訪ねてきた博士たちをベツレヘムに送ります。そしてこう言います。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから・・」。しかしこれは真っ赤なうそで、真意は悪意を企んでいました。
  • 東方の博士たちは星を頼りにベツレヘムの方へ行き、幼子のところに導かれて、その幼子を見、そして拝みました。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。その後、ヘロデに幼子の居所を教えることなく、自分の国に帰って行きました。だまされたと分かったヘロデは、非常に怒って、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させました。
  • なぜこんなことをしたのでしょう。それはその幼子が自分の地位や立場を脅かす存在となることを悟ったからです。結局のところ、自分の上に立つ、自分を支配する王の存在を認めたくなかったからです。そのために多くの子供が犠牲になりました。これがヘロデ王のしたことです。ヘロデならず、当時の宗教指導者たちも全く同じでした。
  • 詩篇2篇には、神の統治(支配)に逆らうこの世の権力者たちの運命が預言されています。その詩篇を見てみましょう。

2:01 なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。
2:02 地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、【主】と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
2:03 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」
2:04 天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。
2:05 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
2:06 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」
2:07 「わたしは【主】の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。
『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。
2:08 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、
あなたの所有として与える。
2:09 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」
2:10 それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。
2:11 恐れつつ【主】に仕えよ。おののきつつ喜べ。
2:12 御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。

  • 人間がどんなに神に逆らおうとも、あるいは神に油注がれた者を拒絶し、逆らい、殺そうとも、神は天においてその仕業を笑っておられる風景が見えます。神に逆らう者たちのたくらみは、神によって必ず挫折させられます。神に逆らう者たちの企みは、神の統治において何らダメージにはならず、むしろ神はそれをも利用してご自身の支配を打ち立てられます。
  • また6節によれば、神がご自身の統治を遂行する王を神自ら油を注いで立てられるという預言されています。この預言は御子イエスにおいて実現します。御子は御父から「鉄の杖」を与えられて、敵を粉砕する権威と力を与えられます。それゆえ、人称なき存在(聖霊)は10節以降でこう言われます。

    今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ【主】に仕えよ。おののきつつ喜べ。
    御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。

  • 御子に口づけせよ」とは、「御子の前に降伏せよ」という意味です。古代においては、戦争で敗れた国の王が、勝った国の王の前にひれ伏してその王の足に口づけすることが求められました。この口づけは「忠誠の誓い」を表わすものでしたが、それは同時に、礼拝の行為を表わす表現でもあったのです。しかしこの詩篇2篇の構図が地上において現実になるのは、実は、千年王国の到来の時です。まだ先のことですが、確かな希望です。神は約束されたことを必ず実現される方だからです。信仰とはまだ目に見えないことを確信することです。この信仰を神はとても喜ばれることを心に刻みたいと思います。神が約束されたこと、たとえそれがとても信じがたいことであったとしても、どのようにしてそれが実現されるのかを思うだけで、私の心は踊るのです。

3. 良い羊飼いにたとえられる王なるメシア

(1) 人々が期待した王なるメシア

  • イエスが来られた当時のユダヤは、大祭司を頂点とする宗教制度のシステムと同時に、異邦人の支配、つまり強大なローマ帝国の支配の下で人々が苦しんでいました。そうした時代の背景の中で、イエスという方はまさに神によって油注がれた王として、「鉄の杖」をもってこの地上に神の王国を打ち建てるために来られた方であると、群衆も弟子たちも次第に信じるようになりました。なぜなら、彼らはメシアにしかできない奇蹟の数々をイエスの中に見たからです。ですから、たとえユダヤ人の古い宗教的支配体制がどれほど強固であったとしても、また、ローマ帝国の支配体制がどれほど強大であったとしても、主イエスにおいて現される神の力によって、それらは必ず覆されると信じるようになっていたのです。
  • しかし彼らは、メシアがそうした栄光をお受けになる前に、必ず、苦しみを受けるということを理解できませんでした。イエスは繰り返し、繰り返し、ご自分がエルサレムにおいて、指導者たちから「多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえる」と語っていましたが、そのことを弟子たちはだれひとりとして理解することができませんでした。メシアの栄光だけが期待されていたのです。
  • 人々はローマ人の支配体制が打ち倒されて、イスラエルが回復されることを望んでいました。そのことなくして神の国の到来はあり得ないと考えていました。ですから何よりもまず、ローマを打ち倒してくれる力ある王なるメシアを待ち望んでいたのです。そうした期待感から、弟子のヤコブとヨハネは前もってイエスに願いました。「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と。ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めました。皆、考えることは同じでした。それほどまでに弟子たちは、イエスがメシアとしての王国を打ち立ててくださると確信していたのです。しかし当時のエルサレムにいた指導者たちがイエスをメシアであることを信せず、拒んだために神の国の実現は延期されてしまったのです。
  • ユダヤの指導者たちがメシアとして遣わされたイエスを拒絶した罪によって、ユダヤ人は大きな苦しみを受ける結果となります。それは、ユダヤ人が国を失い、迫害を受け、全世界に離散していく悲惨な歴史をたどることになります。しかしやがて彼らが偽キリストによる大患難を経験するとき、再び、「主の御名によって来られる方(メシアなるイエス)に祝福あれ」という悔い改めの祈りが起こります。そのとき、キリストは再臨され、神が約束したメシア王国がこの地上に到来するのです。

(2) 王なるメシアが治められる王国のイメージ

  • 聖書では、王なるメシアとその民との関係が、イスラエルの牧者と羊の関係にたとえられています。エゼキエル書34章にはそのうるわしいかかわりが示されています。本来、この34章は、イスラエルの民の上に立てられた指導者たちが牧者としての責任を果たさずに、自分たちの私腹を肥やしていたことが責められています。そこで神は自ら真のイスラエルの牧者となるという約束がなされているのです。

【新改訳改訂第3版】エゼキエル34章11~16節
11 まことに神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする
12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする
13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う
15 わたしがわたしの羊を飼いわたしが彼らをいこわせる。──神である主の御告げ──
16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づけるわたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う

  • 神ご自身を意味する「わたし」(ピンク色の部分)がとても強調されています。そして注目すべきは、太文字にされた動詞です。11節だけを注目すると、「見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする」とあります。この約束を実現するために、御父は御子イエスがこの地上に遣わされたのです。その預言が以下のみことばです。

    エゼ34:23 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。24 【主】であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主(ナーシーנָשִׁיא)となる()。【主】であるわたしがこう告げる。

    「ナーシー」は上に立つ者、長、族長、君主を意味する語です。「わたしのしもべダビデ」とは、キリスト再臨前では「イエス」を、再臨後の「千年王国」では文字通りよみがえった「ダビデ」とも解釈できます。

  • ここに見るイスラエルの牧者の羊に対するイメージは、まさに至れり尽くせりの「ねんごろな配慮」です。これが王なるメシア王国の統治のイメージです。この王なるメシアは昔も、そして今も「失われた(滅びた)羊を捜して」おられるのです。
画像の説明
  • 「羊」(ヘブル語「ツォーン」צֹאן、英語「シープ」sheep)は単数・複数同形です。つまり、個人であっても、あるいはイスラエルの民のように民族的単位であっても、神にとってはその配慮は何ら変わりません。「人の子(イエス)は、失なわれた人を捜して、救うために来た。」(ルカ19章10節)のです。そしてエゼキエル34章にイメージされている王国が建てられるのです。心躍る神のご計画です。
  • 現在、ユダヤ人たちはメシアを拒んだ罪により全世界に離散していますが、そうした民を神はすでにイスラエルに連れ戻し始めておられます。しかし、やがては全世界の四方からイスラエルの全家を集められるのです。これが王なるメシア(イスラエルの牧者)がなされることです。
  • 私たち異邦人は元木であるユダヤ人に接ぎ木された存在です。それゆえ、聖書で約束されたメシアの統治の祝福の中にすでに生かされていますが、預言がこの地上に実現するときには、その統治は私たちの想像をはるかに越えたものとして訪れると考えられます。王なるメシアを信じる信仰を与えられていることを感謝しつつ、そのご支配の中に生きることを新たな思いで選び取りたいものです。
  • 初代教会の信仰告白「イエスはキリストです」の第二弾として、今回は「イエスは私たちの良い牧者(羊飼い)なる王なるメシア」について学びました。次回は「イエスは私たちの永遠の大祭司なるメシア」について学びます。 

2013.7.29


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