****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

イエスは預言者です

Ⅰ. イエスは預言者です

ベレーシート

  • 「イエスはキリスト」という初代教会の信仰告白の中には、ナザレのイエスが「預言者」であったということが含まれています。今日、イエスの語ったことばは、ユダヤ的・ヘブル的背景が分からないと正しく理解することができないということが言われるようになりました。それはどういうことでしょうか。「イエスは・キリストです」という初代教会の信仰告白は、ユダヤ的・ヘブル的背景をもった信仰告白だからです。これが今回、「イエスはキリストです」というテーマを掲げている所以です。
  • イエスとその弟子たちは、当時、ユダヤ教の中の「ナザレ派」というひとつの分派とみなされていました。しかし初代教会が伝えた「福音」(グッド・ニュース)とは、まさに「ナザレのイエスこそ、キリストである」ということだったのです。それゆえ、「イエスはキリスト」であるという告白が意味するところを知る必要があるのです。「イエスはキリストである」と信じることで、私たちに「救い」がもたらされるからです。

1. 人々はイエスをどのように見ていたか

画像の説明
  • イエスの一行がピリポ・カイザリヤに行かれた時、イエスは弟子たちに尋ねてこう言われました。「人々はわたしのことをだれだと言っていますか。」と。弟子たちの答えによれば、右の図にあるように、「バプテスマのヨハネ」とか、「エリヤ」「エレミヤ」の再来とか、あるいは「預言者のひとり」と言っているとイエスに言いました。ここにあげられている名前はすべて預言者の名前です。つまりイエスは、旧約に登場した預言者のイメージとして人々の目に映っていたのです。
  • 他にも、イエスの公生涯において、人々がイエスを「預言者」であるとみなしていたと分かる多くの記述があります。たとえば、以下がそうです。

    ●ルカ 7:16
    人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神をあがめた。(ナインの町の人々がイエスのことを「大預言者が私たちのうちに現われた」と言っています。なぜなら、イエスがエリヤやエリシャが行ったのと同じ奇蹟をしたからでした。)
    ●マタイ 21:46
    それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。
    ●ルカ 24:19
    イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。」(エマオの途上の二人の弟子)
    ●ヨハネ 4:19
    「先生。あなたは預言者だと思います。」(サマリヤの女)


2. イエスは自分をどのような者として公言されたか

  • ルカの福音書4章24~27節において、イエスは「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言って、自分をエリヤやエリシャになぞらえ、自分は預言者だと公言しています。
  • また、同様の主張は、ルカの13章33節で「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」と言った箇所にも見ることができます。

3. 預言者とはどのような者か

  • ところで、「預言者」とはどういう務めを与えられた者をいうのでしょうか。今日、自分の将来が不安なため、多くの人が自分の運勢を占い師に見てもらったりします。これは一国の運命を左右する政治家たちもそうするのです。将来起こることを語る者に対しては、「予言者」という字を書きます。しかし「預言者」という場合には、言葉を預かるという意味で「預言者」ということばを使います。それは、単に将来起こることを語るというだけではなく、神のことばを預かり、神の代弁者として語り伝えるという特別な務めを与えられた者のことです。
  • イスラエルの歴史において、イスラエルの父祖アブラハムは神から「預言者」と言われていました(創世記20:7)。アブラハムはどのような意味において、神から「預言者」と言われたのでしょうか。その答えは申命記 34章10節にあります。そこには「 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を【主】は、顔と顔とを合わせて選び出された。」と記されています。つまり、預言者とは、「顔と顔を合わせている者」であり、「神との親しいかかわりを許されている者」、それゆえに、「神の隠された秘密を知っている者」、また「その秘密を人々に伝えるために神から信頼に値すると認められた者」といった意味なのです。
  • 「預言者」に共通している特徴があります。それは、自分に与えられたことばが自分のものではなく、神からのものであり、それを他の人々に伝えるために受けたのだと確信しているということです。
  • そのような預言者のひとりであるモーセが>、その生涯の終わりにこう語っています。

    【新改訳改訂第3版】申 18:15
    あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

  • 「私のようなひとりの預言者」とは、「主と、顔と顔とを合わせるような預言者」のことです。第二のモーセ、つまり、メシア的人物である「終末の預言者」を指すものだと解釈されています。
  • 御子イエスは永遠に「御父のふところにおられた方」です。そして遣わされたこの地上でも、いつも御父と密接なかかわりを持っておられました。それは「顔と顔とを合わせている」関係です。それゆえ御子イエスが、自分の語ることばはわたしのものではなく、御父のもの、わたしを通して御父が語っているのだと言いました。一切、それに付け加えることなく、自分流に解釈したり、注釈したりすることなく、御父の隠されていた御思いをありのままに語ったのです。

4. 預言者として神の最後の切り札であるイエス

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙1章1節~2節

1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。・・

  • ヘブル人への手紙の著者は、神が預言者を通して、長い歴史の中で、そのときそのとき、またさまざまの形で繰り返し繰り返し語られたと記しています。
  • イスラエルの歴史において預言者たちが最も多く登場した時代があります。それは、神によって立てられたはずのイスラエルの王たちが神の道から逸脱していった時代でした。そうした時代に神によって立てられた預言者が神の代弁者として厳しいことばでその逸脱を非難し、神の道に立ち返るようにと諭したのです。それが旧約聖書にある「預言書」という形でまとめられています。大小あわせて17巻あります。そこには、いろいろな時代に、いろいろな預言者たちを通して語られた神のことばが記されています。しかし、預言書は単に語られた時代の人々にだけでなく、本来、預言者は神の隠された秘密を明かされた存在ですから、語られた人々の理解を越えた神のご計画も同時に語られているのです。ですから、預言書を深く学ぶことで、神の隠されたみこころや神の深い遠大なご計画を知ることができるのです。
  • ヘブル書1章2節に「終わりの時」とあるように、神のご計画においては、イエスの登場は「終わりの時」なのです。つまり、最終的な神の切り札としての代弁者なのです。しかも単に「語られた」だけでなく、「わたしを見た者は、父をも見たのです」(ヨハネ11:9)と語られたように、神(御父)を「見せた」という点においても他の預言者にはない、実にユニークな面をもった預言者、それが御子イエスなのです。
  • しかし、神の民とされたイスラエルは、あらゆる時代において、神から遣わされた預言者のことばを信じることがありませんでした。マルコの福音書12章1~12節に記されている「ぶどう園と農夫」のたとえはその事実を語っています。そのたとえ話をみてみましょう。

    1 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
    2 季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。
    3 ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
    4 そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。
    5 また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。
    6 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。
    7 すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
    8 そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。


    このたとえ話に出てくる登場人物
    ①「ある人」とは、神ご自身のこと
    ②「自分のぶどう園」とは、神の民イスラエルのこと
    ③「農夫たち」とは、イスラエルの指導者たちのこと
    ④「しもべたち」とは、神から遣わされた預言者たちのこと
    ⑤「ある人の愛する息子」とは、御子イエスのことです。

  • 繰り返し、繰り返し、ご自分のしもべを遣わしたぶどう園の主人、そして最後には、自分の愛する息子を遣わしました。見通しのきく主人であれば、最初のしもべが「袋叩きにされ、手ぶらで帰ってきた」ときから、すでにもう先を見越した違いないところです。ところが、二度目のしもべは「頭をなぐられ、はずかしめ」られます。三度目のしもべは「袋叩きにされ、しかも殺され」ます。にもかかわらず、なおも最後の切り札として、「自分の子なら敬ってくれるだろう」と思い、自分のいのちそのものである自分のひとり子を遣わします。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』と。そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。のです。
  • 考えてみれば全くおかしな話です。まさに愚かで異常なぶどう園の主人の行動です。しかしその愚かしさの中に、異常さの中に、神の愛があるのです。神の愛は私たちの理解をはるかに越えている超えているです。このたとえ話は当時の指導者たちに対して特に語られたものです。

    【新改訳改訂第3版】ルカ13章33~34節
    33 だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』
    34 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

  • しかし、先のたとえ話は最後の息子が殺されて、ぶどう園の外に投げ捨てられたことで終わっていません。続きます。

    9 ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。
    10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。
    11 これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」
    12 彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕えようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。

  • 『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」詩篇118篇に引用されていることばですが、このことばを読んだことがないのかとイエスは指導者たちに言っています。彼らが見捨てた石、その石を神は家を建てるうえでなくてはならない最も大切な石、永遠に価値のある礎の石とした。という意味です。これはイエスの復活に言及していることばです。にもかわらず、ユダヤの指導者たちに象徴される人間は、神を恐れることなく、自分のたちの立場を守るために、神から遣わされた最後の切り札である御子イエスを拒絶し、葬ったのです。
  • しかし、この話は、異邦人である私たち一人一人に対しても語られていると思います。主人が遣わしたしもべに対する拒絶は、結局のところ、人間は自分を神とし、自分勝手に生きたいと願っているところからきています。どこまでも自分中心であろうとする人間の罪深さが、最後の切り札である神の息子を拒絶して十字架につけてしまったのです。ここに私たち人間の奥深い罪があると言えます。
  • 神は、このイエスを死からよみがえらせました。ですから、私たちはこの方、神の最後の切り札として遣わされたイエスのことばに耳を傾けなければなりません。このイエスの語られたことばは神のことばです。御父のことばそのものです。そしてそれは私たちにひとり一人に対する愛の呼びかけです。私たちを本来の神に造られた者として、その栄光に満ちた姿へと造り変えようとする神のラブ・コール(愛の呼びかけ)です。
  • 私たちが、当時の人々と同じく、このイエスを拒絶することがありませんように。イエスの語ることばによくよく耳を傾け。その真意を悟ることができますように。そして、イエスの友となって神の秘密を知る者となりたいと願います。


2013.7.12


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