****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

イエス・キリストの生涯における謙遜

2. イエス・キリストの生涯における謙遜

 前へ | 次へ

はじめに

  • 昨日の元旦礼拝では、旧約のダビデが「ただ一つのことOne thing」として求め続けた「主の家に住む」、その新約版として、三つのキーワードを取り上げました。一つは「キリストのくびきを負うこと」、二つ目は「キリストにとどまること」、そして三つ目は「謙遜の限りを尽くして主に仕える」でした。これら三つのキーワードは、別々にものではなく、すべて一つのテーマを持っています。そのテーマとは「謙遜」です。
  • イエスの謙遜に学ぶーしかも、日ごとに、さらに深く、その中に沈潜していく歩みが私たちに求められています。ここでいう「謙遜」とはこの世の意味する謙遜ではなく、聖書が教えている謙遜、それはイエス・キリストにおいて究極的な姿として顕わされています。
  • ですから、イエスは言われました。「わたしは心優しく、へりくだっているから、わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)と。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)。「わたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」(ルカ22:27)これは弟子たちが、自分たちの間で、たれが一番偉いかと議論しているところで語られたイエスのことばでした。「治める人は仕える人のようでありなさい。」事実、イエスが来られたのは、「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」(マルコ10:45)でした。「仕える」こと、神であられる方が私たちのために神のしもべとしてお仕えになられたーここに真の「謙遜」があります。そして、それゆえに、御子は全ての名にまさる名を与えられて高く上げられ(高挙)、御父の右の座に着座されました。
  • 私たちは、このイエスの謙遜に学ぶように招かれているのです。今朝は、「イエス・キリストの生涯における謙遜」ということでお話したいと思います。

1. イエスの生涯の概観

  • イエス・キリストのこの世での生涯は33年半の生涯でした。御子イエスは永遠の神であられますが、一時的に、それもわずか、33年半のみこの地上に肉体をとって御父から遣わされました。その33年半の生涯をみると、実はとてもユニークです。公生涯という公の形でご自身を現されたのは、わずか3年半でした。それまでの30年間は全くの沈黙の期間です。

    画像の説明

  • クリスマスにはイエス・キリストの誕生の記事が読まれますし、教会の礼拝でもその出来事の聖書箇所からメッセージがとりつがれることが多いのです。私も今回のクリスマス、27日間にわたって、連盟の数人の牧師先生と瞑想を行ないました。多くの気づき、発見をした瞑想の旅でした。イエスの誕生においては、このイエスがなんのためにこの世に来られたか、また、イエスはどのような方かを預言されました。

    (1) マリヤに対しての受胎告知

    御使ガブリエルが乙女マリヤに伝えた告知は、「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方と呼ばれます。彼はとこしえにヤコブの国を治め、その国は終わることがありません。・・聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたを覆います。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1:32~35)


    (2) ヨセフに対する御使の告知

    「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」


    (3) 羊飼いたちに対する御使いの告知

    「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
    ところが、この救い主は、なんと布にくるまれ、飼葉おけに寝かせられたのです。


    (4) シメオンへの啓示

    シメオンはイエスの両親が幼子を主にささげるために、エルサレムの神殿に来た幼子を腕に抱いて、神をほめたたえてこう言いました。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの救いを(この幼子に)見たからです。」―まさに、朝露に濡れたこの木の一滴の雫が太陽を写すように、シメオンはこの幼子のうちに神の救いの全貌を見たのでした。

  • このように、クリスマスの一連の記事は、幼子イエスにそのまなざしを向けています。どこの家庭でも子どもの誕生は一大事件でしょうが、幼子イエスの場合は、ある一家での誕生とは異なり、全人類にかかわる大イベントだったのたです。
  • 神の救いのご計画において、いよいよその最終段階を迎えるイエスの誕生の出来事から、30年間、不思議なことに聖書は全く沈黙しています。
  • ただひとつ、イエスが12歳の時の出来事がしるされています。毎年、ユダヤの民にとって、三大祭り(過越祭、五旬節、仮庵祭)はすべてのユダヤ人はエルサレムの神殿に礼拝をささげる規定がありました。イエスの家族も当然毎年、その祭りは参加していたわけです。イエスが12歳になられた時、家族してエルサレムに登ったわけですが、祭りの期間を過ごして帰路についたのですが、いっしょに付いてきている思った両親はイエスが付いてきていないことに気づいたのです。そこでイエスを捜しにエルサレムまで引き返しました。そして三日後にイエスが宮の中で、律法の教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり、質問しているのを見つけました。その問答を聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていたと聖書は記しています。イエスの神の律法に対する認識のレベルを知ることができます。
  • ユダヤの民にとって、男児が一人前の成人として認められるのは13歳です。この成人式を人生の最も大切な節目として、子どもの成長を家族あげてお祝いするそうです。13歳から大人入りするのです。ユダヤ教で成人という意味は、宗教的に一人前として扱われるということです。それまで神の律法を学びつづけているのですが、13歳から、神の律法についてのよりレベルの高い、律法の注解書にあたるものを学ぶように義務付けられます。

2. イエスの30年間の沈黙の日々(公生涯に入られる前まで)

  • イエスの場合、12歳のときのことが記されていますが、その出来事はイエスが神の律法を知ることにおいて、並外れた者であったということです。誕生の時のイエスの誕生の目的を考えるならば、いよいよその頭角を顕わにし、この世に出て、多くの働きが期待されてもおかしくありませんでした。ところが、30歳になるまで、イエスは田舎のナザレというところで、沈黙の中に過ごされたということです。これはある意味で驚きです。
  • イエスは、毎日、大工という平凡な仕事に、あるいはナザレという田舎で、神として人としての無限の富をうずもれさせました。人間的にみるならば、なんともったいないと思うのではないかと思います。とても優秀な人がいて、それを用いるために自分の行くべき場所、あるべき場所を普通ならば探すでしょう。しかしイエスはご自分の時をじっと待つ日々でした。―ここにイエスの「謙遜」があります。
  • この人だったらどこでも通用するといった人材であっても、時が来て、神のゴー・サインがなければ決して事を起こさないということの中に真の謙遜があるのです。御子はそのような生き方をされたのです。公生涯に入られたのは30歳になってからでした。みなさん、大きな可能性を秘めた人材を30歳になるまで、登用することなく、そのまま眠られておくでしょうか。この世ではそんなことをさせません。
  • 公生涯に入られた後も、イエスは「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません」 (マタイ15:24)と語って、御父の与えたある障壁を越えることはしませんでした。限られた時、限られた場所において、自分に与えられた使命を全うすることに従われました。御子自身はもっと多くの時間を、もっと広い範囲で御父の働きをしたいと思われたかも知れません。しかし、御子に与えられた御父のみこころはそこにはありませんでした。私たちは御父の与えた限定に素直に従うことができるでしょうか。
  • 御父のみこころがなければ、御子はどんなに多くの良いものを与えられたとしても、また、その働きの可能性は大きかったとしても、御父の意志に従われたのです。わたしなら、もっといろいろなことができる、こうしたい、あれもしたいと、自分の思いに支配されて、決断し、行動してしまうことがなんと私たちは多いことでしょうか。しかし御子は決してそのようなことをなさらず、御父が与えられたある限定された時と場所で、その範囲の中で従われたのです。これが謙遜です。
  • 公生涯に入られてから、最初の奇蹟をカナというところで行います。イエスとその弟子たち、そして母マリヤもその婚礼に招かれました。ところが、その婚礼でぶどう酒がなくなるという事態が起こりました。そのとき、母マリヤがイエスにこう言います。「ぶどう酒がありません。」すると、イエスは母に「わたしの時はまだ来ていません。」と意味深なことを言うのです。
  • 「わたしの時」―それは御子が御父の栄光を最高度に輝かせる時です。その「わたしの時」とはいつなのか、それは、それは公生涯に入られてから3年半後、イエスが十字架にかけられるその時のことでした。

3. イエスの公生涯における謙遜

  • 「わたしの時」において、イエスの謙遜は最高度に表わされます。しかしその時に至る間も、イエスは常に謙遜であり続けられました。
  • ヨハネの福音書には「謙遜」という文字は一度も出てきませんが、聖書の中でヨハネの福音書ほどイエスの謙遜が明確に現わされている書はありません。御父との関係において、御子イエスはいかに謙遜であられたかを知ることができます。イエスはしばしば「自分を低くする者は高くされる」と教えられましたが、それは彼自身において真実であられたからです。
  • 御父と御子との関係についてヨハネの福音書が記しているところを取り上げてみましょう。

    「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分から何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」(5:19)
    「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。」(5:30)
    「わたしは人からの栄誉は受けません。」(5:41)
    「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、
    わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」(6:38)
    「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」(7:16)
    「わたしは自分から来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。」(7:28)
    「わたしがわたし自身からは何事もせず、
    ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している・・」(8:28)
    「わたしは自分から来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。」(8:42)
    「わたしはわたしの栄誉を求めません。」(8:50)
    「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。」(8:54)
    「わたしと父とは一つです。」(10:30)
    「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」(12:44~45)
    「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。・・それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたおとおりを、そのままに話しているのです。」(12:49~50)
    「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」(14:10)
    「あなたがたが聞いているこのことばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばです。」(14:24)

  • ここに記されているのは、御父がすべてであられるために、御子はなきに等しい者であられたということです。御子は、御父が御子のうちに働かれるために、ご自身を、ご自分の意志を、ご自身の力を、全面的に明け渡しておられたのです。御子は御父のみこころに対する全き従順と依存の生活に平安と喜びを見出しておられました。御子はすべてを御父にささげられましたが、それによって失われるものは何一つありませんでした。神は御子の信頼を受け入れ、御子のためにすべてのことをなして、高く引き上げて栄光のうちにご自身の右の座に着かせられました。
  • 御子の謙遜は、ご自身の御父に対する無条件の明け渡しでした。キリストの贖いが効力をもつのは、御子のこうした謙遜のゆえです。私たちは御子イエスのうちに真の謙遜があることを知り、学ばなければなりません。すべてのなさるのは神(御父)であることを認め、御父を信頼し、全く明け渡しすることです。これこそ、キリストが啓示し、与えるためにおいでになったいのち(かかわり)なのです。


2011.1.2


a:14628 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional