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イエス・キリストの謙遜についての教え(1) 「霊的貧困の自覚」

3. イエス・キリストの謙遜についての教え(1) 「霊的貧困の自覚」

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はじめに

  • 「謙遜への招き」の第三弾はイエスの教えの中にある謙遜、イエスが謙遜についてどのように語られたかということをこれから学んでいきたいと思います。イエスが教えた「謙遜」です。

1. 「心の貧しい者」であることの気づき

  • まずは、イエスの公生涯において最初の「謙遜についての教え」は、マタイ5章3節のみこどはの中に見出されます。
    「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
    これが、イエスが山上で説教された最初のことばでした。
  • 「心の貧しい人」とあります。単に「貧しい人」ではなく、「心の貧しい人」と言われています。「心の貧しい人」とは、どんな人のことを言うのでしょうか。ここで使われている「心の」と訳されたギリシャ語は「トー・プニューマティ」τω πvεύματι、「霊において」(in spirit)という意味です。つまり、神とのかかわりにおける貧しさです。
  • 聖書によれば、人は「霊とたましいとからだ」の三つの部分からなっています(Ⅰテサロニケ5:23)。
    「霊と魂とからだ」
  • 「霊」とは人に与えられた部分で、神との交わりをすることのできる部分です。この霊が与えられているのは被造物の中で人間だけでした。しかし、最初の人間であるアダムとエバは神の言われることに逆らい、ヘビの言う事を信じてしまったために、神とのかかわりのいのちは傷つき、壊れて、機能不全を引き起こしてしまったのです。
  • 「貧しい」ということばは、ギリシャ語で「プトーコス」πτωχοςと言います。「ちぢこまる、うずくまる」という意味です。普通の貧しさ、貧乏ではなく、ほんとうの、差し迫った窮乏、自己破産した状況を意味することばです。このギリシャ語の「プトーコス」の背後には、旧約聖書の二つのことばがあります。その二つとは、「アニー」עַנִיと「エヴヨーン」אֶבְיוֹןです。いずれも「貧しい」という意味ですが、後者のエヴヨーンは極貧状態を意味します。この二つのことばはしばしばワンセットで用いられます。特に、詩篇においては特愛用語です。この二つのことばを重ねて使うことにより、その貧しさ、貧困さの深刻さが表されているわけです。
  • この世の物質的な単純な貧しさからはじまって、貧しさゆえに、人々ら踏みつけられ、圧迫されている状態を意味するようになります。さらには、貧しさゆえに、人々から踏みつけられ、圧迫され、無力な存在となり、人からの助けを求めることもできなくなります。そして、地上の助けが閉ざされたとき、はじめて、神を見上げるようになるのです。そんな貧しい者の存在が詩篇には多く登場するのです。
  • 詩篇69篇、70篇にもこの「アニー」と「エヴヨーン」が出てきます。69篇32節では「心の貧しい人(アニー)たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。主は、貧しい者(エヴィヨンの複数)に耳を傾け・・・でくださるのだから。」とあります。この語彙が、やがて新約時代においてイエスが山上の説教で話された「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものです。」と繋がっていきます。「プトーコス」πτωχοςというギリシャ語は、自分の力では決して解決できない、霊的に悲惨な状態を表わすことばとして流れて来ているのです。自分の霊的な貧困さ、その全き欠乏状態。霊的な自己破産。これが私たちの真相なのです。このことに気づく者こそ、幸いなのです。つまり、自分が神とのかかわりにおいて貧困を極めている者であることの自覚こそ、天にある霊的なすべての祝福にあずかることができる秘訣だということをイエスはここで私たちに伝えようとしておられるのです。

2. 使徒パウロの心の貧しさの気づき

  • 私たちは、今朝、イエス・キリストの使徒となった弟子たちの中でも、もっとも豊かな神からの啓示を与えられ、神とのかかわりにおいて天の祝福にあずかったパウロを取り上げてみたいと思います。「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものです。」というイエスのことばは、使徒パウロにも当然当てはまるはずです。パウロがどのように自分が「心の貧しさ」に気づいたかをこれからお話ししたいと思います。聖書の箇所は、ローマ人への手紙7章です。彼はキリストに出会う前は、厳格なパリサイ人で、律法主義的な生き方をしていたモデルのような人物でした。その彼が、キリストに出会って、神の恵みによって救われるのですが、救われた後に、彼は自分が心底、「心の貧しい者であること」に気づくようになりました。
  • どのようにして彼が自分が「心の貧しい者であること」に気づいたかを見てみたいと思います。まずは、ローマ書の7章7~13節を読んでみましょう。

    7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
    7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
    7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
    7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
    7:11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
    7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
    7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
    7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
    7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
    7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
    7:17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
    7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
    7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
    7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
    7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
    7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
    7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
    7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか

  • 特に、最後の「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょう。」というパウロの叫びこそ、「心の貧しい者」の叫びなのです。
  • ヒューマニズム(人道主義)の考え方によれば、人間は本来良いものであり、人間の内には善があると考えます。ですから、善いことをなすことができるという考え方になります。ところが、聖書はそれとは反対です。私たち人間は例外なく霊の領域において、つまり人間の最も深い、最も中心的な部分である霊―神との交信する部分が機能不全に陥っていることを教えています。しかし、そのことを誰もが分かるわけではありません。多くはそのことを知らないのです。では、パウロはどのようにしてそのことを知ったのでしょうか。それは神の律法によってだというのです。7節でパウロはこう言っています。「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。」と。
  • だれでも乳児の時は、律法なしに生きています。乳児は本能的に生きています。お腹がすけば時間に関係なく泣いてお乳をほしがります。夜であろうと、昼であろうとおかまいなしです。親の都合に関係なくほしがります。そしてお腹がいっぱいになると寝てしまいます。また、予告なしにうんちをします。なにかでさんざん泣いて、泣き疲れるとコロッと寝てしまいます。乳児というものは律法のない世界で生きています。しかし、少し大きくなると、そうは行きません。親の「~してはいけません」「~しなさい」という声を聞くようになります。この頃から子どもは新たな段階に入っています。つまり律法のある段階です。その段階で引き起こされるのが第一反抗期です。
  • 子どもは親を通して、して良いこと、してはならないことがあることを次第に知るようになります。親の言うことがどんなに子どものためであったとしても、子どもはそれに対して反抗するようになります。つまり、言うことを聞かないわけです。そしてしまいには、親から叱られたり、体罰等によってしつけられていくわけです。この親の戒めの声、親のしつけを通して、本来子どもの中に隠れていた悪い性質が芽を出すわけです。
  • これと同様のことが、神と私たちとの間にも起こるのです。それは神の律法に私たちが触れる時です。つまり、神の戒めの中にある「~してはいけません」「~しなさい」という形で語られる神の律法に触れることよって、私たちの自分のうちにある真の姿が明るみに出されてくるわけです。つまり、神の律法によって、私たちは自分の罪深さを知るようになるのです。
  • イエスはその十戒を二つの戒めに要約しました。一つは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 もう一つは「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」です。この二つの律法を私たちがいざ行おうとすると、その行いを阻む何かが私たちの心に起こってくるのに気づきます。「愛しなさい、赦しなさい、与えなさい、ささげなさい、仕えなさい。」と律法は命じます。その命令が語られれば語られるほど、それに反抗し、それに逆らおうとする性質が自分のうちにあることに気づくのです。どうでしょうか。「赦しなさい」と言われれば言われるほど、「赦せない」自分、愛のない自分に気づかせられるのです。子どもが親から「勉強しなさい」と言われれば言われるほど、勉強したくなくなるというのと同じです。
  • パウロは言います。「私はかつては律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。」(9節)
  • 「鏡」は私たちのあるがままの顔を写し出します。本当の自分よりも美しく映し出してくれる鏡ならばいつでもそんな鏡を覗いていたいものですが、そんな鏡はありません。思春期頃は、鏡を見るうちに次第に自己嫌悪に陥って行きます。鏡はそのままの姿を映し出しますが、だからといってその鏡が悪いわけではありません。鏡に向って、「鏡よ、鏡。この世で一番きれいな者はだれ?」と尋ねたお妃に対して、鏡は本当のことを答えて言いました。「この世で一番きれいな方は、白雪姫です。」すると、鏡はお妃の逆鱗にふれて壊されてしまいます。鏡は本当のことを言っただけなのに・・。
  • 律法は鏡です。律法が悪いのでは決してありません。私たちが悪いのです。律法は聖なるものであり、私たち人間の真相をありのままに映し出す鏡のようなものです。「愛しなさい。赦しなさい。与えなさい。ささげなさい・・・」という神の人間に対する律法によって、私たちは私たちの罪の真相を見させられるのです。私たちの自己中心性を明らかにさせます。ですから、神の律法によらなければ、私たちは本当の自分のみじめな姿を知ることはできないのです。
  • ところで、神の律法はそれ自体が聖なるものであり、良いものであり、永遠に価値あるものなのですが、私たちのみじめな姿を克服させていく力は律法にはありません。そこに律法の限界があります。つまり律法には人を救う力はないのです。そのことをパウロは10節で「いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることがわかった」と述べているのです。
  • 「愛しなさい、赦しなさい、与えなさい、ささげなさい、仕えなさい」と、どれもこれもすばらしいものです。これができるならば何と素晴らしいことでしょう。なんと麗しいかかわりを作り出せるでしょう。しかしそのような生き方をさせる力は神の律法にはないのです。ですから、クリスチャンになったからと言って、神の律法にかなった生き方をしようとするならば、必ず、失望へと導かれます。
  • 15節以降でパウロは自分の中にあるジレンマについて記しています。

    7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
    7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。

  • ここでの「自分でしたいと思う善」というのは、神の律法のことです。それを行わないで、かえって、反対のことをしている自分、分裂した自分に悩んでいるのです。神とのつながらせていただいて、自分の心には神のみこころに従おうとする心がある。そしてそのことを喜んでいる自分と、それとは反対のことをしてしまう自分がいる、そうされているのは、私のうちに住む罪がそうしているのだと言っています。この罪は単数形です。つまり、原罪としての罪です。それは原則、原理、法則のような力です。たとえば、本を手から話せば下に落ちます。落ちないように手でもっていますが、絶えず、引力の法則が働いています。ある時間、私はそれを持ち上げていることはできても、いつかは力尽きてしまいます。原理、法則には勝てないのです。しかし感謝すべきことに、キリストにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から私たちを解放させてくださることにパウロの霊の目が開かれました。そして律法にはできないことをする力が与えられることを知ったのです。
  • 「私のうちには善が住んでいない」と気づいて、自分が「心の貧しい者」であることを、いち早くに認めるならば、イエスが約束しているように、「天の御国はその人のものです」ということが現実のものとなるのです。使徒パウロは「謙遜の限りを尽くして・・主に仕えた」とエペソの長老たちに言いましたが、自分が霊的に破産した者であることを認識しているがゆえに、絶えず、主により頼んで、主との交わりの中に生きざるを得なかったのです。それがパウロの言う「謙遜の限りを尽くして」ということばが意味することだと理解します。
  • これは、イエスのいう「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません。」(ヨハネ15:)、それゆえ「わたしにとどまっていなさい。」ということばと重なります。

3. 神の前に義とされた取税人

  • イエスは、自分を義人だと自任している者に対して、あるたとえ話をされました。ルカの18章にその話が記されています。

    18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
    18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、
    不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
    18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
    18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
    18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

  • 取税人の方が「義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。」というイエスのことばは、義と認められるために一生懸命生きてきたパリサイ人にとっては、まさに晴天の霹靂の宣言でした。この取税人は、イエスから直接「あなたを義と認めます」と言われたわけではありません。彼がしたことは「こんな罪人の私をあわれんでください。」と言っただけです。この取税人の謙遜が、神のあわれみの心を動かしたのです。自分を低くしようと思ったのでもありません。ただ、「こんな罪人の私をあわれんでください。」と言っただけでした。ここに、もうひとりの「心の貧しい者」がいます。天に御国はこのような人のものです。

4. マルチン・ルターの最後の言葉―「神の乞食」

  • 聖書から少し離れて、キリスト教の歴史の中に登場した人物で、「心の貧しい人」がいるかを思い起こしてみたいと思います。多くの「心の貧しい者たち」がいると思いますが、キリスト教の歴史においてはからずも宗教改革をなして、プロテスタント教会のはじまりを作った人物といえば、マルチン・ルターその人です。
  • マルチン・ルターは当時のローマ・カトリック教会の脅迫に屈せず、いのちがけで宗教改革を断行した人ですが、それだけではなく、彼は、旧新約聖書の全巻をヘブル語、ギリシャ語の原典から母国語のドイツ語に翻訳した学者でもありました。歴史にその名をとどめ、偉大なこと成し遂げた人物ですですが、そのルターが臨終に際して残した言葉があります。ラテン語が書いたものの中に、「私は神の乞食だ」と、そこだけドイツ語で書いたそうです。
  • ルターは、「自分には『これが私の義です、とか、私の正しさです』などと言えるものは何もない。すべては神の憐みによって頂いたものだ」ということを死に臨んでもう一度、確認し、告白したわけです。ルターもパウロのようにまさに「謙遜の限りを尽くして主に仕えた人」だったのです。

おわりに

  • 神は、私たちの霊の貧しさを、貧困きわまる私たちをあわれんでくださいました。そのあわれみの中にいつもとどまり続けることができますように。神の御前において、まさに、霊において貧しい者であることをいつも忘れることなく、常に、主にとどまる歩みをすることができるようにと祈ります。

2011.1.9


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