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イスカリオテのユダの裏切りの予告をされた時のイエスの心情について

瞑想のための予備知識

4. イスカリオテのユダの裏切りの予告に対するイエスの心情について

  • イエスがイスカリオテのユダの裏切りを予告された聖書の箇所は、ヨハネの福音書では13章です。洗足の行為の後に、イエスは弟子たちに「互いに足を洗い合うことをするなら、あなたがたは祝福される」と語ったあとに、『わたしのパンを食べている者が、わたしに向ってかかとを上げた。』という詩篇41:9を引用して、これが今や実現すると語ります。そしてイエスは「霊の激動を感じて」(13:21)、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」と言われました。そして、イスカリオテのユダに「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」(13:27)と言います。ここでの「あなた」とは、一見、ユダのことを指していると思えますが、ユダに入ったサタンのことを指しているとも言えます。
  • ヨハネの福音書と共観福音書のユダの裏切りの予告の箇所にいずれもイエスの心情を表わす語彙が使われていますが、その意味するところは異なっています。ヨハネの福音書の場合に、暗闇(サタン)の力との対決意識が非常に強いために、イエスがユダの裏切りの予告をする場合、「霊の激動を感じて」(新改訳13:21)と記されてあります。宮平望の「ヨハネによる福音書―私訳と解説―(新教出版社、2010)によれば、「霊において奮い立たされ」と訳しています。その解説として、イエスは十字架の死を前にして、自分で自ら奮い立たせ(11:33)、御父によっても奮い立たせられ(12:27)、今回は聖霊によって奮い立たせられたと説明しています。つまり、御子イエスが十字架刑という最も重い使命を神の計画に従って遂行するためであり、13:27の「あなたがしようとしていることを、今すぐにしなさい」ということで、イエスはサタンに対して主権的に命じており、サタンがイエスの支配下にあることを暗示しています。ですから、ユダ個人に対するイエスの心情はヨハネでは見えてきません。ところが、共観福音書ではその点をしっかりと描いているのです。
  • ユダの裏切りを予告する共観福音書の箇所では、いずれも共通して使われている語彙があります。その語彙とは「ウーアイ」ούαιです。さまざまな聖書がこのことばをどのように訳しているかを見てみたいと思います。それによって、ユダに対するイエスの心情が浮かび上がってきます。
    ルカ 22:22マルコ 14:21マタイ 26:24
    新改訳人の子を裏切るような人間は、のろわれる(ルカに付加して)そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。マルコと同じ
    口語訳人の子を裏切る人は、わざわいである(ルカに付加して)その人は生まれなかった方が彼のためによかったのです。マルコと同じ
    岩波訳禍いだ。彼を売り渡すその人は。(ルカに付加して)その者にとっては、生まれて来なかった方がましだったろうに。マルコと同じ
    新共同訳人の子を裏切るその者は不幸だ(ルカに付加して)生まれなかった方が、その者のためによかった。マルコと同じ
    フランシスコ会人の子を裏切るその人は不幸である(ルカに付加して)その人はむしろ、生まれなかったほうがよかったであろうに。マルコと同じ
    柳生訳「人の子」を裏切るその人は、本当に悲惨だ(ルカに付加して)その人はいっそ生まれてこなかった方が、ずっとよかっただろうに。マルコと同じ
    リビング・バイブル人の子を裏切るその人は不幸であるわたしを裏切る者はのろわれます。その人はむしろ生まれてこなかったほうがよかったのです。マルコと同じ
    エマオ訳(山岸訳)その、人の子を裏切る者は、実に悲しむべき哀れな者であるこの人の子を裏切るその人のことを思うとわたしの心は張り裂ける。だから、その人は生まれなかった方がよかったのだ。人の子を引き渡すその人は哀れだ。その人にとっては生まれなかったほうがよかったのだ。
    Greekοὐαὶ τῷ ἀνθρώπῳ ἐκείνῳ δι' οὗ παραδίδοται.(ルカに付加して)καλὸν αὐτῷ εἰ οὐκἐγεννήθη ὁ ἄνθρωπος ἐκεῖνοςマルコと同じ

  • 以上、いろいろな聖書の翻訳を連ねてみました。人の子であるイエスを裏切る者に対して、「のろわれる」「わざわいだ」「不幸だ」という訳から、「哀れだ」「本当に悲惨だ」「どんな恐ろしいのろいが待ち受けていることか」「実に悲しむべき哀れな者である」「その人のことを思うとわたしの心は張り裂ける」というように、一見突き放した感じから、同情へ、そしてイエスご自身の心の痛みが伝わってくる感じまで、実に広範囲です。
  • これは、「オウアイ」οὐαὶ という語彙をどのように訳すかにかかっているようです。ギリシャ語の辞書としては定評のある織田昭編「新約聖書ギリシャ語小辞典」によれば、この「オウアイ」οὐαὶ は、悲嘆、悲痛を表わす感嘆詞「ああ、woe !」、「なんと悲しいことか」、「悲しいことよ」、「哀れだ」、「~のことを考えと、私の胸は張り裂ける」との意味であり、「禍あれ」の意味ではないとしています。
  • とすれば、この「新約聖書ギリシャ語小辞典」にある意味に一番近いのは、エマオ訳(山岸登訳)ということになります。イエスが弟子たちの前で、自分を裏切るユダに対して語った「オウアイ」οὐαὶ には、イエスの心が張り裂けるような深い悲しみが満ちていたことになります。
    これはヨハネの記す「霊の激動を感じて」(13:21)というイエスの心情とは全く異なるものと言えます。
  • イスカリオテのユダに対するイエスの心情は共観福音書が一様に記しており、ヨハネの福音書ではユダに対する心情は隠れ、むしろ自分自身に対するイエスの心情が記されていると考えるのが自然だと思います。

ひとつの疑問ーなぜルカは 後半の部分を省いたのかー

  • ユダの裏切りを予告したイエスのことばを表にしてみると、ひとつの疑問が湧いてきます。マルコとマタイにあるイエスのことばの後半部分を、なぜルカは省いてしまったのかという疑問です。
  • 共観福音書の執筆順は、マルコの福音書、次にマタイの福音書、そして最後にルカの福音書がきます。ルカは福音書の執筆姿勢として、当然マルコやマタイの福音書を土台としながら他のあらゆる資料を綿密に調べ、しかも順序立てて書いたとされています。とすれば、マルコもマタイも同じく記しているイスカリオテのユダに対するイエスの「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」ということばを省くにはそれなりの理由があったと言えます。とすれば、それなりの理由とは何なのか。
  • あくまでも私見ですが、おそらくこれはルカが最も伝えようとする使信に矛盾するイメージ、あるいは、それを妨げてしまうことになることばだったのかもしれません。もし、ルカの福音書のメッセージのキーパースを19:10の「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」とすれば、先に上げた「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」というイエスのことばは、そのメッセージを弱めてしまうとルカは判断したのかもしれません。
  • こうしたことは、アブラハムを同じく模範としてあげながらも、使徒パウロは「信仰義認」(ローマ4:2)を、ヤコブは「行為義認」(ヤコブ2:21)を強調したことを例にあげることができます。つまり、アブラハムののことを共通に扱っていたとしても、一方は彼が「神を信じたこと」を重視し、もう一方はアブラハムはイサクを祭壇にささげた行為を例に上げて、信仰は行いによって全うされたことを強調しています。いずれも真理です。
  • マルチン・ルターはローマ書によって信仰による義認を強調するためにヤコブ書を「藁の書」と呼んだと言われていますが、こうした類のことは表現の強調法に基づくものであり、本質的なことにはなんら抵触していないと判断すべきです。

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