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イスラエルに対する主の叱責 (3)

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5. イスラエルに対する主の叱責とさばき (3)

【聖書箇所】アモス書5章1~27節

ベレーシート

  • 4章12節の「イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」にある命令、「備えをせよ」には二つの解釈が可能です。一つは、神がさまざまな出来事を通して彼らを立ち帰らせるチャンスを与えたにもかかわらず、彼らは立ち帰ることをしなかったため、当然その報いを受けることになるという意味においての「備え」という解釈です。もう一つの解釈は、「立ち帰る」ということ自体が人間の力を越えたことであり、神の「霊」の助けと導きによってはじめて可能であることから、そのことを悟って「備える」という解釈です。このような二つの解釈の含みを持たせているのは、4章のみならず、5章においても言えるのです。
  • なぜなら、「おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない」と宣告しながら、なおも「主を求めて生きよ」と繰り返し呼びかけているからです。

1. 「主を求めて生きよ」

「尋ね求める」語彙の類語.JPG
  • 「わたしを求めて生きよ」(4節)というフレーズと「主を求めて生きよ」(6節)のフレーズ、そして「善を求めよ」(14節)は同義です。なぜなら、それらのフレーズには、共通するひとつの動詞「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)が使われているからです。
  • 右の図のように、ヘブル語には主ご自身を「尋ね求める」ことを意味する三つの語彙があります。理性的な面が強い「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)と、心情的な面が強い「バーカシュ」(בָּקַשׁ)、そして全身全霊を傾けて主を尋ね求める「シャーアル」(שָׁאַל)の三つです。この三つの語彙に共通しているヘブル文字は「シン」(שׁ)です。「シン」(שׁ)という文字は、「歯」とか「食い尽くす」という狩猟感覚的なイメージを持っています。そんな感覚をもった人物の模範として、旧約ではダビデ、新約ではパウロを挙げることができます。二人とも、神を熱心に求め、神に尋ね求め、神の隠れた秘密を探し求めようとした人物でした。
  • 「わたしを求めて生きよ」と呼びかける主は、次のように警告しています。

    【新改訳改訂第3版】アモス書 5章5節
    ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。
    ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。

  • 「求めるな」「行くな」「おもむくな」と警告したその理由が、後半で「ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ」と説明されています。
  • ギルガル」(גִּלְגָּל)の意味として二つの解釈があります。一つはその語源を「ころがす」という意味を持つ「ガーラル」(גָּלַל)とする解釈で、石を転がすとどこに転がって行くか分からない(予測不可能)ということから、「主にゆだねる」という意味になります。もう一つは、語源を「あらわにする、離れ去る」という意味を持つ「ガーラー」(גָּלָה)とする解釈です。「ガーラー」(גָּלָה)は「あらわにする」「離れ去る」という意味がありますが、ヒフィール形(使役態)では「捕虜として外国に捕らえ移す」という意味になります。
  • 「ガーラル」(גָּלַל)にしても、「ガーラー」(גָּלָה)にしても、【גּל】という二根字を語源としているのです。
  • ところで、5章5節は「ギルガルは必ず捕らえ移され」と訳されていますが、その「必ず捕らえ移され」は、「ガーラー」(גָּלָה)の不定詞未完了語呂合わせになっていて、意味が強調されています。それを新改訳では「必ず」と訳しているのですが、面白いことに、ギルガルは「ガーラー、ガーラーになる(ガラガラになる)」と訳せるのです。言うならば、ヘブル語によるダジャレです。

    גִּלְגָּל = גָּלָה+גָּלָה

  • アモス書には12回も「ガーラー」が使われていますが、「捕虜として外国に捕え移される」という意味で使われているのは、以下の通り、6回です。
    1章5節, 6節/5章27節/6章7節/7章11節, 17節

2. 公義を水のように、正義を水の流れる川のように

【新改訳改訂第3版】アモス書5章24節
公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。

  • 24節では「公義正義」がワンセットで用いられています。「ミシュパート」と「ツェダーカー」がワンセットで用いられている箇所は、アモス書では6章12節にもあります。「公義」は「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)。「正義」は「ツェダーカー」(צְדָקָה)です。訳語は聖書によって異なります。とても紛らわしく感じます。むしろ原語の表記をそのまま用いるなら、混乱しないで済むと考えるのは私だけでしょうか。原語表記にしてもその概念を正しく理解するなら何の問題もないはずです。ちなみに、「ミシュパート」は「公義(公正)」(新改訳・関根訳・岩波訳)、「公道」(口語訳)、「正義」(新共同訳)と訳され、「ツェダーカー」は「正義」(新改訳・口語訳・関根訳・岩波訳)、「恵みのわざ」(新共同訳)と訳されます。
  • 「ミシュパート」は契約に基づく主の統治理念(福祉理念も含む)で、「正義」は主の「ミシュパート」が神と人のかかわりにおいて、また人と人とのかかわりにおいて正しく適用されることを意味します。
  • 主は「ミシュパート」も「ツェダーカー」も、「水が流れるように(ほとばしる水の流れのように)」、しかも「尽きることなくとうとうと流れさせよ」と命じています。なぜなら、この二つは神の国において霊的な生命の現われだからです。ところが、イスラエルの民がこれらを尊ばなかったため、「あなたがたは、公義を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えた。」(6:12)と主は叱責しているのです。



2015.2.10


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